論文を読む会 議事録

市川千年「俳諧雑談―虚子、寅彦、富太郎と歳時記―」
高知県立文学館 令和4年度文学マイスター講座   令和4年6月25日
「俳諧雑談 おくのほそ道、虚子と寅彦、富太郎」        芭蕉会議世話人 市川浩司(千年)

■「奥の細道」を尋ねて 加藤楸邨 (『中学新国語三』光村図書 昭和四十九年発行)

              5(章)
「山寺から大石田に引き返した芭蕉は、船で最上川を下るため川船の便を待っているうちに、
  五月雨をあつめて涼し最上川
という句をよんだ。やがて下流の本合海という所から最上川を船で下り、その後に、
  五月雨をあつめて早し最上川
とよみ直している。

 わたしも、ここから船に乗って最上川を下ってみた。五月雨を集めた奔流のすさまじさに胸がとどろくばかりであった。大石田で静かにながめた最上川は、「五月雨をあつめて涼し」という優しい趣だったにちがいないが、実際に川を下ってみると、「五月雨をあつめて早し」というほかなかったのであろう。芭蕉は、心の底から生まれてくる声をゆがめずに書きとめようとしているのであった。
 最上川を下った芭蕉は、羽黒山・月山・湯殿山と三山詣でをすませ、酒田に出た。・・・」
(おくのほそ道のこの箇所の原文は掲載されていない)

◇読売新聞(令和四年五月一七日)一面コラム「編集手帳」

 「松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出発したのは、元禄2年3月27日と記録されている。西暦に改めれば1689年5月16日、333年年前のきのうのことである。・・・◆大石田に到着し、そこで〈五月雨を集めて涼し最上川〉と詠んだ。東北南部の平均的な梅雨は6月中旬~7月下旬とされている。北上してきた前線に追いつかれたのだろうか◆芭蕉はその後、実際に最上川の川下りを体験している。雨の多い時期なのでかなりの激流だろう。推敲を経てのちに「涼し」を「早し」に改めたのは、恐怖の川下りの体験が影響したとも考えられている。「ああ怖かった」とつぶやく俳聖を想像すると、教科書にも載る名句にひと味ちがった親しみを覚える。・・・」

◇山下一海『俳句で読む 正岡子規の生涯』永田書房(平成四年)*初出は俳句雑誌『冬野』

「子規はそれから、仙台、作並温泉、楯岡を経て、大石田に着いて最上川下りをする。八月七日のことである。曽良の随行日記が知られているいまは、芭蕉が新庄近くの本合海から舟に乗ったことがあきらかだが、それがまだ発見されていない当時としては、『おくのほそ道』を素直に読めば、芭蕉は大石田から舟に乗っているようにみえる。子規はもちろんそういう芭蕉にあやかろうとしたのである。
 「はて知らずの記」の決定稿に、子規は、
  ずんずんと夏を流すや最上川  子 規
 という句を記している。また初出にあって、削除されたものに、
  すゞしさの一筋長し最上川   子 規
 がある。芭蕉はこの大石田の地で、
  五月雨を集めて涼し最上川   芭 蕉
 と作り、『おくのほそ道』の本文中に入れるに際しては、中七を〈あつめて早し〉と改めたことがよく知られている。子規の場合は、推敲してそう改めたというのではなく、一句を削ったというに過ぎないのだが、削られた句と残された句の関係は、〈すゞしさの〉をやめて、ただ流れの勢いにのみ集中するおもむきの句を残したということで、芭蕉の初案と定稿の関係に似ている。子規が芭蕉のその推敲を意識していたかどうかはわからないが、それを考えあわせると、子規のこの二句はいかにも見おとりがする」

*「はて知らずの記」(決定稿『増補再版獺祭書屋俳話』明治二八年九月五日発行 初出「日本」明治二六年七月二三日~九月十日 秋風や旅の浮世のはてしらず)
「名句ハ菅笠ヲ被リ草鞋ヲ着ケテ世ニ生ルゝモノナリ」(明治二六・七・二一 河東秉五郎宛書簡)
*『分類俳句全集』第四巻(普及版)編纂者 故正岡子規(校訂者 河東碧梧桐 高濱虚子 寒川鼠骨)アルス 
昭和十年
「五月雨」 夏の部→天文→五月雨(稲妻)(雷)(虹)(煙)(星)、五月雨(風)、五月雨(月)(露)、五月雨(雲と天文)(生物)・・・・・・五月雨(除人事時令等)、五月雨傘、(「入梅」、「入梅曇」、「梅の雨」の句をはさみ)、五月雨(晴・動物)、五月雨(晴と植物)(地理)、五月雨(晴)除地理等まで六十六分類。
そのなかで「五月雨(河流川)除肢體等・除地理」に
   五月雨をあつめて早(涼イ)し最上川 はせを (雪丸け)   (涼イのイは校異の異)
   (奥の細道)

「「奥の細道」を尋ねて 加藤楸邨」でカットされた「おくのほそ道」の原文

 もがみ川乗らんと、大石田と云ところに日和を待。「爰に古き誹諧のたね落こぼれて、わすれぬむかしをしたひ、芦角一声の心をやハらげ、此道にさぐりあしして、新古ふた道にふミまよふといへども、道しるべする人しなければ」と、わりなき一巻を残しぬ。このたびの風流爰にいたれり。
 最上川はみちのくより出て、山形を水上とス。ごてん・はやぶさなど云、おそろしき難所有。板敷山の北を流れて、果は酒田の海に入。左右山おほひ、茂ミの中に船を下ス。是に稲つミたるをや、いなぶねとハ云ならし。白糸の滝は青葉の隙ひまに落て、仙人道岸に臨て立。水みなぎつて、舟あやうし。
  さみだれをあつめて早し最上川

 現代語訳「最上川を船に乗って下ろうと、大石田という所で、舟行に都合のよい日和を待っていた。するとこの地の人々が「この土地には古く俳諧の種がまかれて、いまでも俳諧をやっております。その華やかに行われたころがなつかしく、かつまた、片田舎の素朴な風流とはいえ、それなりに風雅の趣を解するようになって、手さぐり足さぐりで俳諧をやっております。しかし近ごろは、新しい句風がよいのか、古い句風が正しいのか、わからずに迷っているしだいです。それも適当な指導者がいないからなのです。ついては・・・・・」と頼みこまれていたし方なく、この地の人たちと俳諧連句一巻を巻いた。この俳諧修行の旅も、ここに蕉風の種をまくようなことにまで及んだのである」(『サライ』平成二〇年九月号別冊付録「おくのほそ道【全文・全現代語訳】」より。底本は小学館発行『新編 日本古典文学全集71巻 松尾芭蕉全集②』に収録の『おくのほそ道』、現代語訳は国文学者、芭蕉会議主宰谷地快一)

 *橋閒石『「奥の細道歌仙」評釈』大林信爾編 沖積社(平成八年) 芭蕉が「奥の細道」の旅の途上で土地の人たちと巻いた十三歌仙が掲載されている。橋閒石(英文学者 明治三六~平成四)

さみだれをあつめてすゞしもがみ川(芭蕉 発句)/岸にほたるを繋ぐ舟杭(一栄 脇)/瓜ばたけいさよふ空に影まちて(曾良 第三)/里をむかひに桑のほそみち(川水)/うしのこにこゝろなぐさむゆふまぐれ(一栄)/水雲重しふところの吟(芭蕉) ウラ 詫笠をまくらに立ててやまおろし(川水)/松むすびをく国のさかひめ(曾良)/永楽の古き寺領を戴きて(芭蕉)/夢とあはする大鷹のかみ(一栄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・平包あすもこゆべき峰の花(芭蕉 花の座)/山田の種をいはふ村雨(曾良 挙句)

十三歌仙興行のなかで発句がそのまま「おくのほそ道」の句となっているものは「風流の初やおくの田植うた」、「涼しさを我宿にしてねまる也」、「温海山や吹浦かけて夕涼」、「(あな)むざむやな甲の下のきりぎりす」の四巻。「おくのほそ道」で変わったものは五月雨の句以外には「世の人の見付ぬ花や軒の栗」(かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗)、「有難や雪をかほらす南谷」(有難や雪をかほらす風の音)の二巻。芭蕉発句でないものは三巻。
〇かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗 芭蕉/まれに螢のとまる露草 栗斎
また、挙句まで至らなかった連句を入れると、おくのほそ道の旅で行われた俳諧興行は三十数回あった。酒田での座(興行)では「涼しさや海に入りたる最上川」を発句に七句まで記録されているものがある。
◇谷地快一「俳句的ということ」(片山由美子・谷地快一・筑紫磐井・宮脇真彦編『俳句教養講座 第一巻 俳句を作る方法・読む方法』角川学芸出版(平成二十一年)所収

「俳句に切字は不可欠なものという。これは「発句は必ず言い切るべし」(『八雲御抄』)とあるように、連歌や連句の発句を文の断片に終らせず、主題を明らかにするために、正しい語法に沿って句の途中か句末で言い切るという要請である。・・・切字といえば「や」「かな」「けり」といい、助詞・助動詞を中心に歴史上やかましい議論が絶えないが、「切字ありてもよし、なくてもよしといふ句あり」(『旅寝論』)といい、「切字なくても切るる句あり」(『三冊子』白)とあるように、芭蕉の時代にはすでにその呪縛から解放されている。

 五月雨を集めて涼し最上川     芭蕉(「五月雨を」歌仙発句)
 五月雨を集めて早し最上川     芭蕉(『おくのほそ道』)

 という二句を見ると、前者は「涼し」と言い、後者は「早し」と形容詞で言い切り、「五月雨」や「最上川」と結んで間然とするところがない。これが切字の意義である。すなわち、言い切ることで、一方はその地の涼しさを、もう一方は早川という最上川の本質をうたい上げた。この二句は「涼し」を初案、「早し」を成案とするのが通説だが、両者は一見類似句ながら、言い切ることで、実はまったく主題の異なる二つの作品になっている。芭蕉は「切字に用ふるときは、四十八字みな切字なり。用ひざるときは一字も切字なし」(『去来抄』)とも教えている。これは切字が言葉ではなく、表現力の問題であることを示唆する。言い切ることは俳句の心得である前に、韻文・散文を問わず言語表現の基礎であろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 五月雨を集めて集めて涼し最上川   芭蕉
  岸に螢をつなぐ舟杭        一栄
 瓜畑いさよふ空に影まちて      曾良

 元禄二年(一六八九)五月末(陽暦七月中旬)、『おくのほそ道』の旅を続ける芭蕉と曾良は、大石田(山形県)の高野一栄宅の客となり、地元の俳人高桑川水を加えた四人で連句を巻いた。右はその際のいわゆる「五月雨を」歌仙の冒頭である。発句で芭蕉は最上川の川風が心地よいと挨拶し、脇句で主人一栄は珍客芭蕉を螢に見立て、本来舟をつなぐ杭に、舟ならぬ螢をつなぎ止めることだと謙退の気持ちで発句に応じている。これは「発句は客人、脇は亭主」(『当風連歌秘事』)という慣例に倣ったものだが、儀式性を伴わない場合にはその限りではない。第三(とよばれる句)を担当する曾良の句は、その儀式を離れた最初の句ということになる」

❖提言 連句(俳諧の連歌)を教えないのは円周率(3・14・・・)を教科書では3にしてしまおうという行為に等しいのではないでしょうか。

◇再び、谷地快一「俳句的ということ」 冒頭

「俳句とは何かを問われて、〈連句の発句が独立したもの〉と答える人が少なくない。だが、この答えは誤りである。なぜなら、連句の発句は俳句と呼ばれる前から独立していて、なにものにも依存しておらず、あらためて独立する必要はなかったからである。

  灰汁桶の雫やみけりきりぎりす  凡兆
  あぶらかすりて宵寝する秋    芭蕉

 右は『猿蓑』という俳諧撰集の、芭蕉とその門弟による連句の冒頭二句である。発句とは連句の発端の句という意味で、この「灰汁桶の」という句を指す。句意は、洗濯や染め物に用いる灰汁がしたたり落ちる音と入れ替わるように、こおろぎ(昔は「きりぎりす」と混同された)の声が高く聞こえはじめたというもので、晩秋の夜更けの寂寥感を描いている。脇句と呼ばれる第二句は、行灯の油が少なくなって、早寝をしてしまった民家の様子だが、これは発句の余情に形を与えたものであって、不足を補ったものではない。余情は発句の完成度に比例してあらわれる。つまり近代俳句においても、すぐれた作品は常に脇句をもたらす深みを持っている。俳句と発句はいまだに同じものなのである」

◇高浜虚子『俳諧師』(『定本 高浜虚子全集』第五巻 毎日新聞(昭和四十九年)初出は「国民新聞」明治四十一年二月十八日~明治四十一年七月二十八日) 虚子(明治七年~昭和三四)

 主人公三藏は「試験の答案は誰よりも早く出して残つた時間は控室で早稲田文学と柵草紙(しらがみぞうし)の没理想論を反復して精読」する学生。明治二十四年三月伊豫尋常中学を卒業し、京都の第三高等学校に入学、下宿の同郷の一年先輩の増田とのやりとり。
「明治二十四年秋の末の出来事一つ」
「奥村のうちでは增田は相變らず神棚の下に坐つて、此頃は長煙管に煙草を詰めながら妙に首を傾げて物案じをしてゐる事が多い。。そうして時々ニヤニヤと歯をむき出して笑ふかと思ふと長煙管を突き出してポンと遠方の火鉢にはたいて、大きな煙の棒を両方の鼻の穴から出しながら筆を取つて紙に向つて何やら書く。三藏が「增田君何をしてゐるのかい。」と聞いても增田は黙つてゐる」
「又此頃增田のところへ遊びに來る二十四五の商賣人らしい男が一人居る。頭を叮嚀に分けた角い帶を締めた男で、其男が來ると增田は例の物案じを始める。其男も亦物案じを始める。・・・・・・・・それから增田と一緒に何をやつてゐるのかと聞いたら、何またつまらぬ事でと笑つて、俳句ですといつた。俳句とはと聞きかへすと、發句の事ですと説明した。それで三藏は增田の物案じは發句を作るので、此男は發句友達だということを初めて了解した」
 「俳句が上手なばかりでなく小説も作る」增田の友人五十嵐登場。「自分(三藏)と同じく小説を作る志望の人が矢
張り俳句を作るので、しかも上手だと聞いたので三藏は俳句其ものゝ上にも多少尊敬を拂ふやうになつた」
「三藏はさつき五十嵐が來る迄は私に故人五百題を出して句案を試みてゐたのであつたが、五十嵐が來たので慌てゝ五百題を本箱の中に投げ込んで、手に當つたエノック、アーデンを開けてゐたのである。「五十嵐君、教へて呉れますか。」「別に教へなくつたつて君、少しやつて見給へ。すぐ出來ますよ。」」
*『故人五百題』(「俳諧撰集。松露庵編。天明七年(一七八七)刊。貞門・談林のいにしえより、蕉門を経て宝暦・明和ごろまでの故人の発句を、春の部五十二題、夏の部百六十題、秋の部百七十一題、冬の部百四十一題に類別して収録。松露庵主人の稿本を、南総の門人亀足・瓜州の二子が荷担して上梓。初心者向きの重宝な書で、その後、数版を重ねる」『俳諧大辞典』明治書院)

◇『續俳諧師』(『定本 高浜虚子全集』第五巻 毎日新聞(昭和四十九年) 初出は「国民新聞」明治四十二年一月三日~同六月三十日。「『續俳諧師』と題すと雖も人物事件等『俳諧師』とは接續せず」)

「此間にも俳句の會合は常に催ほされて居た。ラムプを取り圍んで膝を抱いたり天井を眺めたり筆で額を叩いたり貧乏ゆるぎをしたりして誰の頭も浮世離れのした天地を彷徨つてゐた。席上には參考の俳書が散らばつてゐた。この参考書といふのは二百年前の俳人や百年前の俳人が矢張り此席上の人々と同じやうな事をして作つたものを一家の集として集めたり題によつて分類したりしたものであつた。俳句には今も昔も無かつた。政治とか科學とかになると德川時代と今日とは大變な相違であつたが、俳句になると檜木笠を著た芭蕉も、大小を差した許六も、直ちに此席上の人々の交遊であつた。高等學校の帽子をかなぐり棄てゝ席に著く俳人も參考書を開けると行きなり去來の句に逢著して友達になつてしまつた」

◇堀切実『芭蕉を受け継ぐ現代俳人たち 季語と取合せの文化』ぺりかん社 二〇二〇年(令和三)
「「俳句」のユネスコ文化遺産登録の運動に象徴されるような今日の「俳句」の隆盛の原点は、世界にも通じる「詩性」
をもった短詩型文芸を創始した芭蕉にあった。一般に「俳句」は、明治期に子規の革新によって、新たな近代的「写生」の詩として生まれ変わったものと説かれることが多いが、それはかなりの誤解を含んでおり、じつは「俳句」の本質も表現構造も、基本的には一貫して変わっていないものであったとみられる」

◇堀切実『芭蕉を受け継ぐ現代俳人たち 季語と取合せの文化』ぺりかん社 二〇二〇年
(一「季語と歳時の交響」)
「近世においては、こうした類題句集の役割が、多少の規範的意味をこめて著しいのであり、ここまであげてきたような近世期に発達した季題集としての「季寄せ」と、百科全書的な解説のある「歳時記」と、さらにこの「類題発句集」との三拍子そろったところで、近代から今日までの「歳時記」が本格的に誕生することになるわけであった。もちろん、近代の歳時記類の成立も、新たな太陽暦採用の時代を迎えても、前代の『栞草』が明治から大正期にかけて、なお続々と版を重ねていた事実が示すように、紆余曲折があった。昭和八年に、結社の宗匠と学者たちの合同編集によって成った改造社版『俳諧歳時記』が出て、時候・天文・地理・動物・植物など、自然科学系的分類が本格的に定着してゆくまでには多くの時間がかかったのであった。こうした経緯については先掲筑紫磐井の『季語は生きている』などに詳細な解説がある。

*改造社『俳諧歳時記』
「夏の部」季題解説・實作注意・例句 青木月斗/古書校註 藤村 作(昭和八年七月三日発行)
「秋の部」季題解説・實作注意・例句 松瀬青々/古書校註 穎原退藏(昭和八年九月十三日発行)
「冬の部」季題解説・實作注意・例句 高濱虚子/古書校註 志田義秀(昭和八年十月廿二日発行)
「春の部」季題解説・實作注意・例句 高濱虚子/古書校註 藤井乙男(昭和八年十一月二十日発行)
「新年の部」季題解説・實作注意・例句 大谷句佛/古書校註 笹川臨風(昭和八年十二月二十日発行)

「初め改造社から俳諧歳時記の春之部・冬之部の二冊を編輯することの相談を受けた時分に、私は多忙でもあるしその任に非ずと云つて辞退した。けれどもたつてとの事であつたので、富安風生・山口青邨の二君の助力を俟つことによつて遂に承諾することになった。・・・・」(高浜虚子 「冬の部」序)
「冬の部」(季題総数六九二項)凡例の虚子の解説
「例句は総数九千余句、そのうち左の三十六家、約四千六百句は改造社より必ず加ふべき句として指定されたものであつて、当方の権限外である」(三十六家は「宗因、芭蕉、鬼貫、言水、素堂、來山、・・・・梅室」江戸時代の俳諧の宗匠)

右記五冊の「参考」執筆者は全巻同じで、「時候・天文」國富信一、「人事」武田祐吉、「宗教」山本信哉、「動物」テ寺尾新、「植物」牧野富太郎(執筆者のコメントは「新年の部」に掲載)
〇牧野富太郎の題言(植物分類学者 一八六二~一九五七)
「古来幾多の俳諧歳時記があって・・・・・・今茲に此等の不便を一掃し使用者をして成るべく失望の憾み落膽の歎きなからしめ、参考の為めには及ぶ丈け多数の作例をも示し、又覧る人をして世の進みに連れて発生せし新事実にも触接せしめんとして出現したものが即ち此改造社の俳諧歳時記であった。
故に、此書を使用する人々は常に此書が従来の何れの書にも優つて斯道に裨益があり之れを活用するに際しては用に応じ事に臨んで直ちに其目的事件を釣出し得べき宝庫であるといふことを知り得るであろう、乃ち此『改造社の歳時記』は何れの時を論ぜず何れの處を問はず常に斯道者に伴随して其使命を全うすべき一良友であると信ずる」(昭和八年十二月 理学博士 牧野富太郎 識す)

*虚子編『新歳時記』三省堂 初版は昭和九年十一月

「一言にしていへば文學的な作句本意の歳時記を作るのが目的であつたのであるが、季題に就いて多少の考もあつた所から其點を明かにして一般の注意を喚起したい心持もあり、従来の形式に囚はれない革新的な意圖も少しはあつたのである」
「季題は俳句の根本要素であるが、既刊の歳時記を見るに唯集むることが目的で選擇といふことに意が注いでなく、世上一般の字書の顰に倣ふことが急で作句者の活用に供するといふ用意が缺けてをつたかと思ふ」
(解説)「簡単にして要を得るといふ信条の下に博物的な叙述を避け事實に即し句作上必要なことに止めた」

◇『図説 俳句大歳時記』角川書店 昭和三九年初版 昭和四八年四刷 
(角川源義 刊行の辞)
「歳時記は日本人の感覚のインデックス(索引)である」とは詩人科学者寺田寅彦の至言です。日本という風土に生きて来た日本人の知恵が季語を結晶させています」
◇寺田寅彦「日本人の自然観」(岩波講座『東洋思潮』昭和十年十月一日)
(日本の自然)
「インドなどの季節風交代による雨期乾期のごときものも温帯における春夏秋冬の循環とはかなり懸け離れたむしろ「規則正しい長期の天気変化」とでも名づけたいものである。しかし「天気」という言葉もやはり温帯だけで意味をもつ言葉である。色々と予測し難い変化をすればこそ「天気」であろう
(日本人の精神生活)
短歌俳諧に現われる自然の風物とそれに附随する日本人の感覚との最も手近な目録索引としては『俳諧歳時記』がある。俳句の季題と称するものは俳諧の父なる連歌を通して歴史的にその来歴を追及していくと『枕草子』や『源氏物語』から万葉の昔にまでも遡ることが出来るものが多数にあるようである。私のいわゆる全機的世界の諸断面の具象性を決定するに必要な座標としての時の指定と同時に、また空間の標示として役立つものがこのいわゆる季題であると思われる」(『寺田寅彦全集』第六巻所収「日本人の自然観」 一九九七年 岩波書店)

◇寺田寅彦「俳句の精神」改造社『俳句作法講座』第二巻 昭和十年十月
「俳句の十七字詩形を歴史的に遡って行くと「俳諧の発句」を通して「連歌の発句」に達し、そこで明白な一つの泉の源頭に行き着く。これは周知のことである」(『寺田寅彦全集』第十二巻)

▼連句(俳諧)認識に参考になると思う認識

◇藤田省三『維新の精神』第2版 みすず書房 一九七四年 藤田省三(一九二七~二〇〇三) 思想史家
(一九八〇年代某月某日某所(東中野の新日本文学館)での座談会で私が「藤田先生にはなんか芭蕉を感じる」と質問すると、藤田「芭蕉の発句というもの(発想)に惹かれる」と直ぐ応えてくれた)
「他者を自分の都合に合わせて思い描くのではなく(「甘え」)、また他者と精神的に無関係になるのでもなく(消極的無関心)、いわんや個性発揚だけを意図するロマン的自我膨張の他者に対する無理解(攻撃的無関心)でもなくて、他者を自分とは異った存在すなわち他在として、しかもそれを内側から理解しようとする、他に対する開かれた好奇心」「他者に対するこうした態度こそ精神的対話(ディアレクティーク)を可能にする基本条件であろう」

◇谷川俊太郎 令和四年六月三日付毎日新聞
(最後に、これから言葉を身に付けていく子供たちに、どのように言葉と向き合っていったら良いかアドバイスをいただけますか)「学校や親は言葉の持っている意味をまず大切にしますよね。意味をちゃんと言えるようにしろ、意味をちゃんと感じとれるようにしろ、と。でも言葉にはもう一つ、遊びの側面があります。言葉を覚えていく上で、言葉で遊ぶということがすごく大事なんじゃないかな。・・・言葉で遊ぶことで、子供は言葉に対して親しみを感じることができます。活字だけじゃなく、声も大事にしてほしいですね

◇中村桂子「生命誌の原点を忘れない」JT生命誌研究館HP 令和四年五月十七日 中村桂子のちょっと一言
芸術とは何かと言うと、『私たち』のいるこの空間を把握したい、という行為なのです。『芸術に個性は必要ない』と私は言い続けています。必要なのは個性ではなくて、世界認識のための『切り口の独創性』なのです。常に芸術は『私は』ではなく『私たちは』という発想です。『私たち』はどのような世界に生きているか、という『世界表現』が芸術です。多くの方が間違えていますが、『自己表現』ではないのです」(千住博)(『科学と芸術』日本科学協会編 中央公論新社)



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