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参考資料室

芭蕉の紀行論 ―『おくのほそ道』を中心に―   丹 野 宏 美

 三.本論

  第一章 芭蕉の紀行観
    第一節 『ほそ道』までの紀行
  芭蕉は、『ほそ道』という紀行の前に、四つの俳諧紀行を書いている。その中で、『野ざらし紀行』は、芭蕉が貞享元年(一六八四)の四十一歳から翌年の四十二歳の時に、亡母の墓参を兼ねて帰郷した際の旅における最初にして本格的な紀行である。
  この中には、千里に旅立つ野ざらしの決意、捨て子や亡母への思い、古の偉人に対する尊敬の意などを表し、人間模様を壮絶に表現すると共に、率直に自然を眺めて表現する芸術観がみられる点で高く評価され、過去の天和調の作風とは異なるものがある。
  だが同行ちりの句を除いた四十三句中、十五句が破調であり、天和調の名残りと共に、気負いや迷いなど未熟な点があることも無視できない。
   狂句木枯の身は竹斎に似たる哉
  一方で、旅の途中、名古屋において荷兮・杜国らと、右の発句を挨拶にして『冬の日』五歌仙を成している。その成果を、尾形仂氏が「これまでの江戸連衆たちとの間で試みられた漢詩文調とは一味違った、風狂色の濃い浪漫的な風潮をもたらす結果となった」(注12)と述べられると共に、久富哲雄氏は「蕉風確立の第一歩を踏み出した」(注13)と評価されている。またこの紀行中の、
   道のべの木槿は馬にくはれけり
の句において、一瞬の動きを捉えたおかしみは、かつて見られないものであり、同時に、
   山路きて何やらゆかしすみれ草
   辛崎の松は花より朧にて
のように、即応的に自然をさらりと風詠した句が認められるなど、この紀行が「蕉風俳諧の源泉」(注14)とされるほどの含蓄の深い作品である。蕉風の第一段階のことについてはすでに述べたところであるが、この旅の一連の活動は、蕉風が熟成していく過程で有意義なものとなっている。
ただ芭蕉自身は、『野ざらし紀行』画巻の跋文に、「此の一巻は必記行にもあらず」(注15)と、謙遜とも今後への意欲とも思わせる記述をしている。
続いて、江戸に帰った翌々年の貞享四年(一六八七)八月に、鹿島神宮に参詣すると共に、芭蕉が深川に隠棲した頃、禅を学んだ師である仏頂和尚を久しぶりに訪ねたのが、『鹿島詣』である。これは一泊の小旅行であり、紀行としても、文章の後に、旅中の句に詞書を付した程度のものであった。
  同年十月、江戸を発ってから、東海道を上って尾張・三河・伊賀に至って越年し、翌年に伊勢・大和・紀伊・摂津・播磨に至る旅をした紀行が、『笈の小文』である。
   旅人と我名よばれん初しぐれ
  旅の出発にあたって、漂泊の詩人としての道を歩んできた西行や宗祇などの系列につながりたいという願いを、この一句に託したものである。(注16)しかし、この句にはどこかに、早く旅に出て、道中他人から旅人と呼ばれたいといっているような、浮かれたような気分や響きが残る。
  事実、旧友・親疎・門人等から餞別をもらい、盛大な送別会をしてもらって。芭蕉自身が「ゆえある人の首途するにも似たり」(注17)と記すほど、物々しく思われるものであった。旅そのものも門人・知人のところを訪れ、いたるところで大歓迎を受けるものが主となっている。まさに、欲望的な社会から深川に隠棲し、反俗的な文学を志向する姿が「風狂の詩人」として世間から評価されている芭蕉にとって、名士のような旅は不本意なものであったに違いない。
  また、この紀行には紀行以外のことも記されており、完成度において『ほそ道』に匹敵するものではない。
  そのような自己矛盾の中で、門人も知人もいない侘しい旅を目指し、名古屋から志を同じくする越人と共に、「おばすて山の月」を見ようとして、『更科紀行』の旅をし(注18)、八月二十日頃に江戸に戻る。この紀行も、文の後に若干の句を付した小旅行である。ただ、この旅の思いには、後の漂泊性を帯びた『ほそ道』の旅につながるものがある。

   第二節 文学としての紀行
  芭蕉は次節に述べるように、『笈の小文』の完成を断念してしまうのであるが、この中には「日本の文学史上初めての紀行論」(注19)を書いている。
道の日記というものは(中略)其日は雨降、昼より晴れて、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどいふ事、たれ〳〵も言ふべく覚侍れども、黄奇蘇新のたぐひあらずバ云事なかれ。されども其所〳〵の風景心に残り、山舘・野亭のくるしき愁も、且はなしの種となり、風雲の便りとも思いなして(後略)  
  この文の前半は、芭蕉とって紀行は旅の事実ではなく、旅を通して文学作品を書くことであり、そのためには黄山谷・蘇東坡の詩にみられるような珍しさ、新しさがなければ書くまでもないとしている。すなわち第三章で述べるところの虚構性のことを主張しているのである。
後段では、上野洋三氏が「〈はなしの種〉は〈談笑〉性に通じるものであり、〈風雲のたより〉とは、風雅の情・風狂の思いをかきたてるよすが」と解された上で、「紀行のあるべき理由は俳諧一座において味わう〈談笑〉性と風雅の情に通じている」(注20)と芭蕉の思いを確認されている。
芭蕉は続けて、「酔っ払いのでまかせであり、眠っている人のうわ言のたぐいとみなして、よろしく聞き流してもらいたい」(注21)という趣旨のことを付加えて、たわ言やうわ言のようなものが文学だと主張している。
敷衍して述べれば、「虚構性・新しさ・談笑性・風雅の情・気軽さ」こそが、文学として紀行の真髄であると、芭蕉は自らの紀行観を述べており、この一節には前段後段を通じて、紀行というものを一つの芸術として確立しようとする意欲が見られる。このことは芭蕉の紀行を読む上で忘れてならない視点となる。

   第三節 本格的な紀行の実践
  前節のとおり、芭蕉が文学としての紀行観を述べた『笈の小文』は、芭蕉の文学的姿勢の一端を示したものである。その中で自分の意図する紀行は、旅の事実を書いた昔からある紀行とは異なる紀行であると、歯切れよく宣言している。そして『笈の小文』の冒頭文には、「風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし」とあり、天地自然に則って四季の移り変わりを友とするものであることを踏まえたうえで、「造化にしたがひ、造化にかへれとなり」と、造化隋順の思想を述べる。またそのことは同時に、井上農一氏が「生活が風雅(芸術)の中に埋没した時、その人は始めて真の人間になると芭蕉は主張する」(注22)と解されるように、生活の芸術化の覚悟を述べたものである。そうした中に「純粋に詩的真実を求める心が風雅の誠」(注23)であることを宣言し、俳諧の現状を打ち破りたいという情熱を示している。
  ところで、『笈の小文』のこういった文を書いた時期は、元禄三・四年(一九八九・一六九〇)頃(注24)とされるものの、実際には、「芭蕉の残した未定稿の断片を、門人乙州が集めて編集し、後年になってから刊行したとする」説(注25)が有力である。
  その頃の芭蕉には、すでに『ほそ道』の旅を体験し、新たな紀行観と風雅の理想に確信がもて、『ほそ道』執筆の構想が沸き起こっていたと考えられる。そこで、『笈の小文』の執筆を止め、原稿を乙州に預けて江戸に帰り、元禄五年頃から執筆に着手し、その構想の実現を目指したものと考えられる。
ともあれこのような経過と、芭蕉の文学としての紀行観が、『笈の小文』に示されていることを踏まえ、井本農一氏は、「『笈の小文』が『ほそ道』のいわば序論として理解してもよいような地位にある」(注26)と述べている。
  確かに、『笈の小文』の内部で確立された紀行観は、文学的態度、特に風雅の心、虚構性の面において、『ほそ道』の序論として繫がるものがある。しかし『ほそ道』は、強烈な漂泊性などの多様な執筆態度から、独立してより文学的であることも事実であり、やはり本格的な紀行を実践したのは、『ほそ道』であったと思われる。