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参考図書室

芭蕉の紀行論 ―『おくのほそ道』を中心に―   丹 野 宏 美

 一.はじめに

 松尾芭蕉は、ひたすら風雅の道を求め、日本文学史上きわめて顕著な足跡を遺しており、近世の詩歌の世界を豊かなものにしている。
   古池や蛙飛びこむ水のおと    『蛙合』
   秋深き隣は何をする人ぞ    『笈日記』
  芭蕉は、このような有名な句を枚挙に暇がないほど作っている。だが、このことだけをもって、きわめて顕著な足跡とするには、何か物足りなさを禁じえない。
  芭蕉の句が、一句一句輝きを放つのは事実だが、やはり『おくのほそ道』(以下、『ほそ道』という)という紀行の完成と存在をもって、俳諧を芸術にまで高めたことが、彼をして不世出の俳諧師と評される所以であると考える。
  芭蕉の作品が、彼の人生行路と深く関わっているところから、序論において、芭蕉の生誕から深川に隠棲し、『野ざらし紀行』の旅に出るまでの歩みを辿り、次に本論においては、芭蕉にとって紀行とはいかなるものか、また、この『ほそ道』という旅はいかなる意義を有し、さらに、芭蕉はそれをどう表現し何を遺したかったかについて述べながら、『ほそ道』を中心に、芭蕉の紀行論について考察してみたい。
  なお、『ほそ道』の原文及び章段名と区分は、頴原退蔵・尾形仂訳注『おくのほそ道』(以下角川ソフィア文庫本という)(注1)を用いると共に、『野ざらし紀行』等の紀行の原本は、『新編古典文学全集・松尾芭蕉集A』(注2)とした。また、これらに掲載されない句については、『古典俳文学大系6・蕉門俳諧集一』(注3)から引いた。


 二.序論

ここでは、芭蕉の紀行論を考察するための前提として不可欠である芭蕉の俳諧師としての歩みについて、最初の紀行である『野ざらし紀行』の旅に出るまでを辿ってみたい。
  「芭蕉略年譜」(注4)によると、寛永二十一年(一六四四)に、伊賀国阿拝郡小田郷上野赤坂農人町(現在の三重県伊賀市上野赤坂町)の農人・松尾与左衛門の二男として誕生する。
  十代の末に、藤堂藩伊賀付き侍大将の藤堂親七郎家嫡子・主計良忠に出仕する。その良忠(俳号蝉吟)が、京都の歌学者で俳諧師の北村季吟に貞門俳諧を学んでいたことから、
俳号を宗房と称し、その傘下として活躍した。
  ところが、寛文六年(一六六六)、不運なことに主君蝉吟は、二十五歳の若さで死去してしまう。しかし芭蕉は俳諧への情熱を高め、少しずつ俳諧に名を連ねるようになっていく。
  「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも」(『幻住庵記』)(注5)と、後年になって述懐したように、試行錯誤を繰り返しながらも、寛文十一年(一六七二)、二十九歳の年に、俳諧師の道を進む決意をし、江戸に出てゆく。
  暫く下積みの生活を余儀なくされるが、俳号を主に桃青と称し、経済や交通の中心である日本橋小田原町(現日本橋室町一丁目)に居を構え、やがて人脈や門人も増え、俳諧活動も軌道にのる。
  その頃の俳諧が、貞門風に代わって西山宗因の談林派が全国に広まる中、芭蕉は談林派俳諧の活動を積み重ね、延宝五年(一六七七)頃に、宗匠として立机する(注6)。
  順調に俳壇の地位を確立するのだが、延宝八年(一六八〇)に、現実的な世俗的欲望社会から脱し、侘びの世界に徹しようとして、深川に隠退してしまう。
延宝末期から天和にかけて漢詩漢語調の句が流行する中で(注7)、芭蕉もそのような過度的な一時期を経ているが、深川隠退後の句には単に漢詩文をもじったものでなく、荘子・杜甫・蘇東坡・黄山谷などの作品に「自分の心を詠む」ことを学び、荘子の「実利を去って人間性の純粋に従うこと」(注8)を学んだ人生観を背景にした作品がみられるようになる。この頃の芭蕉の特色を示した次の句がある。
    茅舎の感
   芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉   『武蔵曲』
  庵には芭蕉が植えられ、自らも芭蕉と名乗っており、俳風も言葉遊戯的なものから脱皮していることから、この句を「蕉風という新しい俳風の誕生」と見る説(注9)がある。確かにこの句は、これまでの俳諧が歩んできたしゃれや滑稽などの言葉遊びから脱皮して自分の心境を率直に詠っており、蕉風の第一段階(注10)であると考えられるが、字余りの漢語調で肩肘張ったところがあり、本格的な蕉風の到来とするには、もう少し後の日まで、熟成を待たなければならない。
いずれにしても、芭蕉は積極的に隠者の生活に入り、世間からは「風狂」と見える世捨て人のような生活の中で、「侘び」の美的理念を確かなものにしながら(注11)、俳諧の詩的世界に没入していく。
ところが、その隠棲の生活から突如転換し、漂泊の詩人として、貞享元年(一六八四)八月に、『野ざらし紀行』の旅に出る。