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参考資料室

芭蕉の紀行論 ―『おくのほそ道』を中心に―   丹 野 宏 美

  第二章 『ほそ道』の旅の特徴

   第一節 漂泊  
  芭蕉は、元禄二年(一六八九)三月二十七日(旧暦)四十六歳で、深川から曾良を同伴し、千住を立ち、白河を越えて陸奥に入り、松島・平泉などを経て、出羽を回り、象潟を北限として、北陸道を南下し、八月二十日頃、美濃大垣に至る全行程約六百里の旅をした。
  『ほそ道』は、この間に見て回った歌枕を胸に抱きながら、歴史や自然、人との出会いや別れなどの感動を綴った俳諧紀行である。
この旅では主人公が、李白の「春夜従弟の桃李園に宴するの序」の最初の文「夫れ天地は万物の逆旅なり、光陰は百代の過客なり」(注27)を踏まえ、「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人也」と、冒頭から月日も永遠の旅人であるとする宇宙観と、人の一生も天地自然に逆らわず身を任せるものだとする造化隋順の思想を述べ(注28)、「日々旅にして旅を栖とす」という漂泊の旅人像を宣言する。平たく言えば、旅に身をゆだねる漂泊の旅人の姿こそ、理想的な生き方であるとしている。
そうして「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず」と、自嘲しながらも、漂泊の旅に出る喜びと熱い思いを抱いて旅立つ。
    草の戸も住み替る代ぞ雛の家
旅立つ前に、他の人に譲った旧庵の柱にかけておいたとする右の句には、流転してやまない人の世をさり気なく表現するとともに、身も心も清貧を思わせる旅立ちで、漂泊に相応しい心を覗かせている。続いて「富士の峯幽に見えて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし」と、江戸に後ろ髪を引かれ、不安ものぞかせるのは、芭蕉の人間性の表現であろうが、そこには、『野ざらし紀行』の出立のような気負いがなく、『笈の小文』の旅のように、浮かれた気分もない。
  行春や鳥啼き魚の目は涙
  別離の刹那さとともに、「行春や」の句が、巻末の「行く秋ぞ」の句に、絶妙に呼応する構造を示し、漂泊の情念とともに、流転変化する旅人の行く末を予感させる。
  このようにして、この旅は、深川隠棲時代の貧困・侘しさ・静寂とかを一歩超越しており、漂泊という新たな思いと人間的で多様な心情を胸に旅立つ主人公の姿勢に、読者を否応なしに引きこんでいく。
漂泊の根底には、世俗の欲望を離れ、風雅の誠を求めてさすらう純粋な心があり、芭蕉の人生行路を芸術化する。そこには時代を超えて人々の共感を得るものがある。
  しかし後述するように、この旅においても実際は不安や苦しみを訴えたり、黒羽や尾花沢のように手厚い歓待も受けたりしている。黒羽では知人の館代と弟の桃翠に厚いもてなしを受け、須賀川でも等窮という先輩格の旧知の人に「白河の関いかに越えつるにや」と、お手並み拝見の感があるが、歓迎されて四五日とどめられて歌仙を巻いた。
漂泊に満ちた旅といっても、このような風雅の実践者との交流を否定すべきでない。むしろいろいろな場面を実感したり多様な人々と出逢たりすることによって、旅の心や理想とする人間像を描き出し、文学的表現を高めていく過程と見るべきである。
  実際に、黒羽では雲巌寺の奥の仏頂和尚の山居の跡を訪ね、その修行の場に立って、尊敬する師の岩にもたれかけて建ててある庵で往時を偲びながら、中国の高弟が禅修行に励んだ「妙禅師の死関」「法雲法師の石室」を現実に見る思いがして、身を捨てて行脚の旅に出た自らを振り返えっている。
   木啄も庵は破らず夏木立
この句は、仏頂和尚の世俗を捨てた修行の跡を偲ぶ主人公の思いを物語るのに十分である。
  須賀川でも、等窮の紹介で隠棲している僧・可伸に逢い、その心に惹かれて、目立たない花を咲かせる行基・西行ゆかりの栗の木にちなみ
   世の人の見つけぬ花や軒の栗
という句を遺し、自らも行基・西行に思いを馳せ、旅心を漂泊の原点に立ち戻らせている。
  飯塚の里の夜は、宿の環境や気象に悩まされ、病の不安におののきながらも、羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、これ天の命なりと」と、漂泊の気力を取り直して、伊達に向って行く。 
  もっとも見たかった松島では、その絶景に呆然としながらも、「草の庵、閑かに住みなして」いる人たちに惹かれ心配りをしている。このような主人公の姿をとおして、芭蕉は旅のみならず人生そのものを漂泊と考えていたと捉えることができる。

   第二節 歌枕・名所・旧跡探訪 
  これまでに書いた四つの紀行における旅も、歌枕探訪や月を愛でる目的があったが、『ほそ道』の旅は、発端から「古人も多く旅に死せるあり」と、古の詩人・歌人に思いを馳せ、西行・能因などの歌枕探訪に胸を躍らせている。漂泊が旅の性格であるとするならば、歌枕探訪が、この紀行の主題といっていいほど旅の目的の重要な要素になっている。
  だれしも、旅は未知の世界への憧れを動機とするものであるが、とりわけ『ほそ道』の主人公は、「春立てる霞の空に、白河の関こえむと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ(中略)松島の月まず心にかかりて」と、歌枕の宝庫である奥羽の空にとりつかれたように思いを抱いている。しかし、この旅は物見遊山をして回る単純な観光ではない。
西行と能因は、出家し漂泊の旅を続けた反俗の人であるが、その侘笠の足跡を追いかけて追悼する主人公の気持ちが、この紀行のいろいろな面に散りばめられている。 
田一枚植ゑて立ち去る柳かな  
能の名所となる西行ゆかりの「遊行柳」の下では、西行に寄せる思慕の念を表白し、人生の師を偲び無言で語りかける。
  また白河の関では、「秋風を耳に残し」などの表現で、能因の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と、白河の関に秋風を詠んだ歌を思い起こさせ、「紅葉を俤にして」の表現で、源頼政の「都にはまだ青葉にて見しかど紅葉散りしく白河の関」の中の「紅葉」を眼前に思い浮かべさせる。久富哲雄氏が述べるように、「〈秋風を耳に残し〉と〈紅葉を俤にして〉は、対句的表現となっており、聴覚の世界と視覚の世界を対置した」(注29)見事な表現である。他にも「青葉の梢」「卯の花」「茨の花」の三つを加え、次々と名歌を想起させる描写は圧巻で、自句を記さないでも、地の文そのものが、詩情を醸し出す典型的な章である。このほかにも末の松山のように、幾つもの古歌を想起させて詩情(ここでは悲しさ)を表現した文は、『ほそ道』全体をとおして散りばめられている。
  特に西行と能因は、全般的に次々と登場し、歌枕探訪の重要な位置を占め、この紀行を特徴付けている。
  ところで、実景においてとりわけ変哲があるわけでもない浅香山・信夫の里では、「いづれの草を花がつみとはいふぞ」と夕刻まで探し求め、翌日には山影の小里に半ば埋もれている「しのぶもぢ摺りの石」を尋ねて歩き、この旅の目的が歌枕探訪であることを印象付ける。また笠島では、「藤中将実方の塚はいづくのほどならんと」と、五月雨の道悪い中を無念そうに通りすぎてゆき、名所旧跡にも思いを致している。
  さて、武隈の松では、「松はこのたび跡もなし」と詠んだ能因法師を思い出しながら、代々にわたって植え継がれて、地際から二本に分かれて昔の姿を失わずに生えているのを見て、「千歳のかたちとゝのいて」と感激する。ここに、次の壺の碑で新たな理念が芽生える前提となるものを覚える。
  壺の碑では、「千歳の記念、古人の心」を偲び、「泪もおつるばかりなり」と感激した。この章は、久富哲雄氏など諸説が指摘するように、「歌枕の推移の中に天地流転の相を見出した芭蕉の感慨は、やがて不易流行論の萌芽として、『ほそ道』行脚の中で次第に成長し発展していく」(注30・31)という意義深いものである。
飯塚の里・塩竈明神や平泉で、佐藤兄弟・和泉三郎及び義経を追悼する。
夏草や兵どもが夢のあと
古き人の心、特に敗者である悲運の武将や忠義孝行の武士に限りない共感の思いを廻らすところに、この紀行の特徴があり、『ほそ道』を魅力あるものにしている。
この平泉では、このように義経主従の悲劇的最期と、藤原氏三代の栄華の夢を偲んで詠いあげると共に、「三代の栄耀一睡の中にして」「金鶏山のみ形を残す」と、人の営みのはかなさと自然の悠久を表現している。
  五月雨の降り残してや光堂
さらに、三代を祀る中尊寺に残っている経堂・光堂では、荒廃した姿でありながら昔のままを留めている姿に、「暫時千歳の記念とはなれり」と、やはり人の営みと自然に関心を寄せ感慨をかみしめる。
この間の盛り上げ方によって、すでに旅の途中に芽生えつつある不易流行論を根底にして、この平泉を、歌枕探訪の旅のクライマックスの舞台にしていると考えられる。
  歌枕探訪の旅は、この後も、尿前の関へ向う途次の岩手の里・小黒崎・みづの小島・鳴子の湯をはじめ、最上川・象潟・那古・金沢・敦賀・種の浜の歌枕を通過するが、象潟を除いて、通過した地名、宿泊の地、遊覧の場所の記述程度にとどめ、またその数も半減するなど、歌枕探訪の目的の色彩を薄めている。
その唯一例外である象潟では、「能因島に舟を寄せて」「西行法師の記念を残す」と、出家して陸奥を旅した二人を地の文に直接的に登場させ、面影を偲んでいる。
ここまで川・山・海・陸で繰りなす美の極致を見てきた主人公は、「松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しびを加えて、地勢魂を悩ますに似たり」と、その土地のたたずまいが、心に悲しみ憂いを抱いている美女の面影に似ていることを見事に表現すると共に、次のように詠んでいる。
  象潟や雨に西施がねぶの花
この句では、雨に濡れてそぼっている合歓の花に、「眉をひそめ目を閉じて憂いに沈んでいる中国の美女西施を連想し」(注32)、寂しさや悲しみの思いを膨らませている。
このように、主人公は歌枕や旧跡を訪ね、古典的な世界に心を委ねている。井本農一氏が「日本の文学伝統の中に自己を浸らせることによって、新たな創造と飛躍の土台にしようとしたのではないか」(注33)と述べているように、そこには、飽くなき探究心が見られると共に、中国の古典の世界に誘うことも忘れていない。