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参考資料室

江戸川乱歩と松尾芭蕉 − 二人の接点を探る − 安居正浩 (「沖」同人)

 三番目に二人を結び付けた理由と考えられるのが、同性愛の問題である。
 松尾芭蕉と江戸川乱歩それぞれの同性愛への興味について詳しく見てみたい。
 まず松尾芭蕉の同性愛(当時の言葉から以後男色と言う)である。かねてより芭蕉については男色についてさまざま取りざたされてきた。ただ俳聖として神格化までされてきた人物にふさわしい話題ではないとされたのか、真正面からとり上げたものは少ない。その中で復本一郎氏が『江戸俳句夜話』で持論を述べられているのは画期的といえよう。
 まず男色というものの考え方について、「江戸時代、男色は、決してタブーではなかったのである。タブーでないばかりか、武士道の形式美の中にあっては、女色と拮抗し、女色を凌駕し得るものであったのである。(中略)芭蕉の時代、男色は、決して忌避されるべきものでなく、命を賭してのその精神性は、こぞって賛美されたのであった」(「芭蕉のエロス考」毎日グラフ別冊「松尾芭蕉 詩と風雅」初出)と、男色を今日的性意識で見ることを否定している。
 では芭蕉の男色は過去どのように取り上げられてきたか。
 十九歳の芭蕉は、二十一歳であった藤堂主計良忠の近習として召し抱えられる。この主従の関係にも男色関係を見る人がいる。当時の若い武士は、男色を賛美したと言われるので充分可能性はあるが、良忠の俳諧仲間に加わっていたという事実だけでは判断できまい。
 また芭蕉が二十九歳のときの『貝おほひ』の、「われもむかしは衆道好きのひが耳にや」を、男色の根拠とする説もあるが、「句合せ」の発句「兄分に梅をたのむや兒ざくら」に対する軽妙な判詞として書かれたもので、遊びの要素も加わっていることから、この根拠だけで結論づけるのも難しい。
 では芭蕉の男色を一番感じさせると言われる弟子杜国との関係はどうであったか。杜国については、芭蕉が数多くの文章を残しているので、時代順に見ていきたい。
 まず芭蕉と杜国の出会いは、貞亨元年(一六八四年)の冬の「野ざらし紀行」の旅である。その翌年芭蕉は旅の途中で別れた杜国に次のような句を贈っている。
   杜国におくる
  白げしにはねもぐ蝶の形見哉
 先の復本一郎氏は、「白罌栗の白い花片がはらりと散った様に、蝶の白い羽がもげた様を、芭蕉は幻視したのであろう。その蝶の痛ましさは、出会うべくして出会った『愛弟』杜国との留別を悲しむ芭蕉自身のものだったのである」と鑑賞している。確かに芭蕉の他の句に見られないエロスの感じられる句である。杜国への特別な思いが伝わってくる。
 貞享四年(一六八七年)の「笈の小文」の旅では、
  三河の国保美といふ処に、杜国がしのびて有りけるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、
  鳴海より跡ざまに二十五里尋かへりて、其夜吉田に泊る。
 この時は空米売買の罪で蟄居していた杜国に会うために、「跡ざまに二十五里」今の約百kmもの道を戻っている。杜国に会いたい一心である。
   鷹一つ見付てうれしいらご崎
と杜国のことを鷹に見立てて詠んだのもこの時のことである。
 三河の国保美の出会いのあと、二人は伊勢で待ち合わせ一緒に旅を続けている。『笈の小文』には次のような記述もある。
  かのいらご崎にてちぎり置し人の、いせにて出でむかひ、ともに旅寝のあはれをも見、且つは我為に童子となりて、道の便りにもならんと、自万菊丸と名をいふ。まことにわらべらしき名のさま、いと興有。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。
   乾坤無住同行二人
  よし野にて桜見せふぞ檜の木笠
  よし野にて我も見せふぞ檜の木笠  万菊丸
 句の掛け合いに、心の弾みが感じられる。二人の関係が男色と見られても当然の仲むつまじさである。
 元禄三年(一六九〇年)正月には、杜国の様子がはっきりしないことに我慢できなくなって出伏した芭蕉の手紙がある。残存する芭蕉の杜国への唯一の手紙である。
  いかにしてか便も無御座候、若は渡海の舩や打ちわれけむ、病変やふりわきけんなど、
  方寸を砕而巳候。されども名古屋の文に、御無事之旨、推量に見え申候。
 連絡のない恋人への泣き言とも見える手紙である。芭蕉もこんな切ない一面を持っているのかとびっくりさせられる。この年の三月に杜国は没したと言われているから、胸騒ぎがあったのかもしれない。