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参考図書室

江戸川乱歩と松尾芭蕉 − 二人の接点を探る − 安居正浩 (「沖」同人)

 少年探偵団や明智小五郎そして怪人二十面相などの生みの親として名高い江戸川乱歩が最近見直されている。私たち団塊世代前の人間には、郷愁のひとつとして捉えられるが、一方で現在の二・三十代にも受け入れられているようである。現に池袋で平成十六年八月十九日から二十四日まで行われた「江戸川乱歩と大衆の20世紀展」には多くの若者が集まっていたし、東洋大学では近現代文学の科目のなかで江戸川乱歩を取り上げ、教室に学生があふれているという。
 では人気の江戸川乱歩と俳聖松尾芭蕉の接点はどこにあるのか。
 多くの探偵小説を残した乱歩であるが、評論も数多い。その中に「一人の芭蕉の問題」(『ロック』昭和二十二年二月号初出)という評論がある。内容は、日本にも英米の探偵小説の傑作を凌駕するような作品が生まれてほしいとの熱望である。その中で、「もし探偵小説界に一人の芭蕉の出ずるあらんか、あらゆる文学をしりえに、探偵小説が最高至上の王座につくこと、必ずしも不可能ではないからである。和歌の卑俗滑稽なるものから分脈発生した俳諧は、もともと市井俗人の弄びにすぎなかった。(中略)しかし芭蕉の個人力は、貴族歌人嘲笑のもとにあったこの俗談平語の俳諧を、悲壮なる気魄と全身全霊をかけての苦闘によって、ついに最高至上の芸術とし、哲学としたのである」と述べ、「探偵小説界に一人の芭蕉出でよ」と改革者を待望している。ここに江戸川乱歩の取り上げる芭蕉がある。
 また乱歩は『宝石』の昭和三十三年七月号の松本清張との対談でも、清張に対して、
 「だから、推理の興味を充分満足させながら、リアルな小説を書くということです。それが理想です。(中略)長編の『点と線』などは、その理想に近づいている。(中略)ぼくがあなたの出現を画期的といったのはその意味ですよ」と、清張の出現を「推理小説界の芭蕉」であると最大限の賛辞をおくる。有能な小説家への期待を、芭蕉という人物を持ち出すことで表明している。ここでも乱歩の松尾芭蕉への心酔の様子がよく分かる。
 では江戸川乱歩が松尾芭蕉に、これ程入れ込んでいる理由はなんであろうか。
 まず考えられるのは出身地である。芭蕉は伊賀上野(現三重県上野市)に生まれた。
 一方、乱歩は自分の生い立ちを『乱歩打明け話』の「私の履歴書」に書いている。「父は最初に務めた三重県名張町の郡役所書記時代に母をめとり、明治二十七年、私はそこで生まれた」とあるように、乱歩の出身地は今の三重県名張市である。上野と名張は隣の市で同じ三重県の伊賀地区。郷土意識が、芭蕉を取り上げた一つの理由であるのは間違いない。
 また、乱歩が「先生と言える唯一の人」という、伊賀の代議士川崎克の影響が考えられる。昭和三十一年二月の『川崎克』という本の「先生に謝す」という文章で乱歩は「先生(川崎克 筆者注)が多方面の趣味を持たれ、(中略)文学に関する方面では、同郷の俳人芭蕉を慕って、上野市に俳聖殿を築造せられ、現に同地方の名所の一つとなっている。そこに安置する等身大の芭蕉翁陶器坐像を、ご所有の伊賀焼の窯で、手ずから製作せられたことは特筆すべきであり、又、芭蕉忌には、東京の著名文人を招いて、俳聖を忍ぶ集いを催されたことも、しばしばであった」と書いている。先生と慕う人の尊敬する人物に、乱歩も影響を受けたかもしれない。これも郷土意識と一体で考えるべきであろう。
 二番目に考えられるのが、藤堂家との関係である。
 芭蕉は十九歳で藤堂新七郎家に召抱えられ、当主良精の子息主計良忠(俳号蝉吟、二十一歳)の近習だったとされる。
 一方、乱歩も本人の先祖探しの結果によると、「私の先祖の平井於光という女が異常の出世をして冷川御前と呼ばれていること」、そして「藤堂家の内室」になったことがわかったとしている。この関係で、於光の弟平井友益が藤堂高次の御針医とし召し抱えられた。その後代々出世して千石を領し、乱歩の祖父に当たる七代目平井杢右衛門陳就が明治四年まで藤堂家の武士として仕えたとする。また加えて乱歩の母も「同じ藤堂家の家臣であった本堂帆之助の長女菊である」(『ぷろふいる』昭和十一年十二月号より連載「彼」初出)という因縁もある。
 それぞれ藤堂家との深い縁を示すもので、藤堂家に仕えたことのある芭蕉に、特別の親しみを感じたとしても不思議ではない。