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参考資料室

蕪村絵画考―双幅「後赤壁賦・帰去来辞図」を読み直す―   紅 谷 愛

  第二節 陶淵明と蕪村
  ここでは、蕪村の中で陶淵明という人物がどんな存在であったのかについて、【蘇東坡と蕪村】の節と同様に成島行雄氏の『蕪村と漢詩』を参考に探っていくことにする。しかし、蕪村は陶淵明に関する句や画を多く残しているため、蕪村の思い描くユートピアについての句が多い「田園の居に帰る 五首 其の一」と「武陵桃源図」、「蕪村」という俳号の命名説を紹介する。
    第一項 「田園の居に帰る 五首 其の一」
   田園の居に帰る 五首
  其の一
  少きより俗に適うの韻べなく
  性 本と邱山を愛せしに
  誤って塵網の中に落ち
  一たび去りてより十三年
  覊の鳥は旧の林を恋い
  池の魚はも故の淵を思う
  荒を南野の際に開かんと
  拙を守って園田に帰る
  方宅 十余畝
  草屋 八九間
  楡柳 後簷を蔭い
  桃李 堂前に羅なる
  曖曖たり 遠人の村
  依依たり 墟里の煙
  狗は吠ゆ 深巷の中
  鶏は鳴く 桑樹の巓
  戸庭 塵雑なく
  虚室 余間あり
  久しく樊籠の裏に在りしも
  復た自然に返るを得たり

この詩を一海知義氏は『中国詩人選集』(岩波書店)の中で、次のように訳されている。

若い頃から、世間にうまく調子をあわせて行くような性格が私にはなく、生まれつきの性質として丘や山が好きであった。
ところが、まちがって塵っぽい世間のあみに落ちこんでしまい、あの丘や山から離れて十三年の月日が流れた。
旅の鳥はもとの林を恋い、池の魚はもとの淵をしたう、という。
私も、草のおいしげった南の郊外の土地を耕そうと、世渡りの下手な性格を押し通して、この田園に帰ってきた。
家の宅地は十畝あまり、草ぶきの家には八つか九つの部屋のあるこの住居。
楡や柳は裏の簷をおおい、桃や李が座敷の前に並んで植わっている。
かなたには遠くかすんだ村が眺められ、里の煙は人なつかしげに立ち上る。
村の奥まった路地では犬が吠え、森の樹のこずえには鶏が鳴いている。
門のうちは小ざっぱりと片俯いて、ひとけのない部屋にはゆったりとした余裕がある。
永い間、鳥籠のの中できゅうくつな生活をしていたが、またのびのびとした自由な境地に変えることがやっと出来た。

 この詩は標題が示すように五首の連作である。これは、その第一首。以下、田園生活のさまが四首にわたって述べられていく。こうした詩を背景にして蕪村は次のような句を詠んでいる。

休ミ日や鶏なく村の夏木立

 陶淵明のように役人生活をしたことがない蕪村は、「塵網ノ中ニ落チタ」という経験はない。しかし「少キヨリ俗ニ適ウノ韻ナク」という思いは強かったと思われる。しかも実態は明らかでないまでも、農家に生まれたと察せられる。それで田園生活への指向が人一倍強かった。句の「鶏なく村の夏木立」が、この「帰田園居」の「鶏ハ鳴ク桑樹ノ巓」の聯は、平安無事という社会というよりひとつの理想郷を象徴する表現として、陶淵明の他の作品例えば「桃花源記」などにも多少形を変えて顔を出している。
  それがなんら仕事に制約されない「休ミ日」という上五によって増幅されている。この聯の雰囲気は次の句にもみられる。

商人を吼る犬ありもゝの花

 この句にはさらにもう一つ前の聯が反映している。つまり「楡柳後簷ヲ蔭イ 桃李堂前ニ羅ナル」である。「吼える犬」と「もゝの花」によって描き出された世界はこの陶淵明が帰省した故郷であるが、それはとりもなおさず蕪村が求めたユートピアでもあった。このユートピアについては次項で、芳賀徹氏が『与謝蕪村の小さな世界』で唱える蕪村の桃源郷と、山形彩美氏が『近世文藝 九一』(安永十年与謝蕪村作「武陵桃源図」を読む―考察)で唱えるものを比較しながら、私の意見を述べたい。
  その前にまずは、そもそも桃源郷とはどのようなものなのか、山形彩美氏の論文を参考に簡単に説明する。蕪村の「武陵桃源図」には袁中郎「桃花源に入る四首」(右幅―其の一其の二 左幅―其の三其の四)が書きつけられている。この詩は桃源郷の中の様子を詠じたもので、花の描写が盛んに行われている。また、仙薬に関わる言葉も多用されており、桃源郷が不老長寿の村として詠われていることが分かる。さらに、人間の寿命をはるかに超えた何十年が桃源郷内では夕暮れの一時にしか相当しないと人間界と仙界とで時間の流れの速さに大きな差異がある、としている。花と仙界については晋の陶潜作と伝えられる「桃花源記」、時間の流れについては『蒙求』に陶淵明の「桃花源記」をほぼそのまま転載した「武陵桃源」と「劉阮天台」のセットで採録されたものと重なる部分がある。
  では、日本において特に蕪村は桃源郷をどのように理解していたのだろうか。『後素集』の記述によれば桃源郷の住人が訪れた魚師を温かく迎えてくれること、洞窟を潜り抜けた後の桃源郷にも桃がふんだんにあることを示している。そして桃源には桃があるというのが、長らく日本人の間での共通認識であったことを物語る。天明二年蕪村序の『花鳥篇』(田中道雄校注『天明俳諧集』岩波書店 一九九八年)に〈郭文が勝具なければ、鬼貫が禁足にはくみしやすきにや〉とあり、蕪村が『蒙求』の「許詢勝具」と「郭文遊山」の二つの話を混同して受容していたことが分かる。また「桃花源記」には桃源郷が仙境とは書かれていない。特に変わったことのない自給自足のできる、わりあい裕福な農村として描かれているに過ぎない。注目したいのはそれが、陶淵明自身の故郷について詠んだ「帰田園居」の世界と酷似していることである。それはそれとして、この作品も中国のみならず日本でも『蒙求』の「許詢勝具」と「郭文遊山」の二つの話後世混同して受容された。また「武陵桃源」と「劉阮天台」に出てくる「桃源」と「天台」は「仙境」であると解釈されていた。前述した通り袁中郎の詩もこの伝統に連なる作品であることが分かるだろう。そして蕪村はそのことを十分に知った上で、この詩を正確に読んでいたはずである。