ホーム
参考資料室

蕪村絵画考―双幅「後赤壁賦・帰去来辞図」を読み直す―   紅 谷 愛

 第二章 陶淵明
   第一節 陶淵明の生涯
陶淵明(三六五―四二七)、字は元亮。宋代になって潜と名乗り、淵明を字とした。潯陽(江西省九江県)柴桑里の人。族祖に陶侃と孟嘉を持もつ。祖父(陶岱または陶茂)は太守をしたことがあり、父は妾を一人もっていたが、陶淵明の生まれた頃、家はすでに没落しかけていた。生母は孟嘉の娘。少年時代に儒家の教育を受けた。早くから自然に親しみ、琴と書を愛した。
簡単に言えば以上のような人物であるが、もう少し詳しく見ていくことにする。まずは、陶淵明の生まれた時代についてである。彼は陶侃の死後(三三四)、三十年ほどして、たぶん孟嘉がまだ存命していた頃、生まれた。(孟嘉の没年は未詳。ただ彼は桓温と同時代の人であり、桓温は三七三年に没した。)彼の生まれた年は西暦三六五年、晋の哀帝(司馬丕)の興寧三年のことである。そのとき、東晋は地方に割拠すること四十八年、徐々に衰微して行った。その後の五十四年間は外敵からの圧迫と内戦の繰り返しに明け暮れたわけで、こうして晋の王朝も滅んでしまうのだが、陶淵明の一生が占めた時間の大部分は、ちょうどこの時期にあたっている。
陶淵明の幼い頃、王・謝の士族はなお勢力を保ってはいたものの、すでに没落への道を辿りつつあった。大書家の王義之が没したのは西暦三七九年のことであるが、その時、陶淵明は十五歳。十九歳の年に有名な淝水の戦(三八七)があった。この大戦は決定的な意義を持っている。秦王苻堅は、その前年、こう述べた。「王業を承けてより三十年に近い。その間、私はほぼ四方を平定したが、東南の一隅のみが、まだわが恩恵に浴さずにいる。いま、わが士卒は概算して九十七万を得べく、われみずからこれを率いてかの地を討とうと思う。」(「資治通鑑」巻一〇四)しかし、晋国は捕虜となっていた愛国の将朱序の敵情漏洩による秦軍の戦闘意志瓦解と、謝安の人並みすぐれた受容たる指揮振りによって、わずか八万の兵ながら百万の大軍の侵入を撃退したのである。これには晋国の一般の人民と兵隊が心から戦勝を望んでいたことも関係しているだろう。これより、南北対立の局面は安定し、晋国は近い将来北伐に成功する望みがあった。淝水の戦は晋の国威がなお強大であったことを立証したものであったが、しかしこのとき以降、国力は内戦によって弱められてしまう。淝水の戦はまた、王・謝ら士族政権にとって落日寸前の一時的照り返しであった。淝水の戦から二年して(三八五)、謝安が死ぬと、貴族はいっそう没落し、軍閥勢力がこれに代わった。謝安が死んだとき、陶淵明は二十一歳であった。したがって陶淵明の時代は、士族が没落し、これに代わって軍閥が台頭した時代である。陶淵明の場合、彼自身は士族ではなかったが、文化的教養、時代風習の薫陶からして、やはり当時の士族階級が共通に具えていた生活態度、生活習慣、生活意識を身につけていた。だから士族が没落すると、彼もまた没落感を抱き、いつまでも古代を懐かしんだ。この心情ははっきりと汲み取ることが出来る。軍閥勢力に対してはどんな感情を抱いたか。彼はそれを厭うべき存在として蔑視したし、自分自身そういうものになる資格もなかったから、そこで別の道をとろうと考えた。これこそ彼が躬耕することになった原因である。彼は自分自身が労働することによって一個の小天地を維持し、そして自分の没落感と自分の思想体系とを保とうと考えた。彼の作品には、時世に対して不満を抱いていたことが反映し、批判となって表れているし、自分自身、貧困と労働を体得したことが、労働人民への理解と同情となって表れている。そして彼はやむを得ず労働したのであったが、それを体験してからはすっかり自分を変えてしまった。――彼の人格と作品がついに大きな輝きを放つようになったゆえんである。
次に、文化的に彼の生きた時代を振り返る。詩人としての陶淵明は幼年時代と少年時代を花やかな芸術の時代のうちに過ごしている。先に挙げた書家の王義之が彼と同時代であるほか、彫刻家の戴逵(三九六年没。その年陶淵明三十二歳。)、画家の顧ト之(三四三生。陶淵明より二十二歳年長。)、山水画家の宗炳(三七五生。その年陶淵明は十一歳。)なども同時代である。文学方面では過江の大詩人郭璞が陶淵明の生まれる四十年前に没していて、中間にやや空白が出来ているように見えるが、玄言詩人の孫綽・許詢、詠史詩人の袁宏の三人は彼の幼年の頃、まだ存命していた。陶淵明と同時代の若い詩人となると、謝霊雲(三八五生)・謝恵連(三九七生)・顔延之(三八四生)・鮑照(四一年頃に生まれた?)など、いちだんと多い。ついでに言えば、この頃、他に大思想家の支遁(三六六没)・鳩摩羅什(四〇九没)・慧遠(四一六没)、大歴史家の裴松之(三七二生)、「世説新語」の編著者劉義慶(四〇三生)が出ており、それぞれ陶淵明と同じ時代に文化面で光彩を放った人々である。これが、陶淵明の時代――文化面でいささかも寂しくなかった時代である。陶淵明の詩が芸術性を具えるのと同時に、思弁的要素にも富み、没落間が流れる中に傲然独り往く精神を具いていたこと、それはまさしく陶淵明の詩が、その時代における彼のような社会的身分の反映であることを表している。
さて、陶淵明の一生は三期に分けることが出来る。各期、※3・4・5として具体的な作品を挙げる。まず第一期は二十九歳以前。おそらくこの時期は、農耕と勉学との生活を過ごしていたものと思われる。儒家の教育を受け、彼をしてある程度奔放に振舞わせながらも、究極的には何かしらの束縛をもたらしめた。当時、老荘がもてはやされた時代であったから、彼の性格もそれに近いものであった。事実、彼の作品にも少なからず老荘思想が見られるが、しかし彼の場合、その点でもやはり儒家の教育が極めて大きな拘束力を与えた。これが彼をして、終始孔子を崇拝せしめた原因である。だが彼自身にしてみれば、老荘という時代思想に結びついているために純粋に孔子を学ぶことは出来ない。それに加えて労働生活の体得がある。その結果、彼の理想とした人物は長沮・桀溺であった。
第二期は二十九歳から四十一歳まで。何度か小官吏となり、大半は仕事の都合で、いつも家を離れていた時期である。この時期の生活はわずか十二年にすぎないが、人生経験を一番豊かに積んだ十二年であり、彼の後期の思想形成の上で決定的意義をもったと見なすべき十二年である。「憶う、わが少壮の時、楽しみなきも自ら□予めり」とうたった、あの快い気持ち、「少き時、壮んにしてかつ獅オ」、「張掖より幽州に至る」とうたったあの壮んな意気も、この十二年の間にすっかり減らされ、世の荒波にもまれてあくせくと重ねた苦労、政治の混乱に対するいたたまれない気持ちが、彼を別人のごとく変えてしまった。二十九歳のときに田園生活を離れて、一介の役人となった。なぜそうしたかといえば、暮らしにおしつまって、畑仕事では生活を維持できなくなったからである。陶淵明は劉牢士・劉裕らに対する不満から、三十六歳の年五月に帰郷したが、その後も田園によって自給することが困難であったためか、過ぎに希望を桓玄に向け変えた。しかし役人として生活しながらも、矛盾した気持ちを抱いていた。そして林園を恋い、詩と書を思い、やはり畑仕事のほうがましだと考えた。辞職しようと決意した。
第三期は四十二歳から死ぬまで。この頃、晋室は無論衰微していたが、桓玄の政権にしても起ったかとみるまに忽ち滅び、劉裕が次第に大権を掌握して桓玄に取って代わり、最後に晋王朝最後の二皇帝死に追いやって、自ら新王朝を建立した。その間、惨殺や陰謀が相次いで起こった。詩人陶淵明にとって、これは厭うべき情景であったのだろう。だからこそ隠退し、だからこそ秘かに憤りを洩らし、そして自由を保つべくふたたび躬耕生活に戻り、かくて二十余年のあいだに、次第に自分の生活を理想化し、また理論化して、ついに独特な個性を具えた思想的詩人を形成したのである。これが陶淵明の晩年であった。

※3
   「少年より人事罕にして遊好は六経に在り」
        ――「飲酒」二十首、その十六
儒家の教育を受けたことが分かる。

  「少きより俗に適うの韻べなく性もと邱山を愛す」
        ――「田園の居に帰る」五首、その一
彼は清秋時代から自然に親しんだ。

※4
   疇昔 長なる飢えに苦しみ
   耒を投じて去きて学仕するも
   将養 節を得ずして
   凍えとえとはもとより己に纏わる
   この時 立年に向んとするも
   志意 恥ずるところ多し
   遂に介然の分を尽くして
   衣を払って田里に帰る
   冉冉として星気流れ
   亭亭としてまた一紀なり
   世路は廓として悠悠たり
   楊朱の止まるゆえん
   金を揮うの事はなしといえども
   濁酒 聊か恃むべし
        ――「飲酒」二十首、その十九

(大意)かつて私は飢えに苦しんでいた。それでとうとう百姓仕事に見限りをつけて役人づとめをしたが、それでも家族を養うには十分ではなく、飢えと凍えが私に付きまとって離れなかった。当時私は三十になろうとしていたが、かねて自分の理想としていたところに対しても恥ずかしく、そこで自分は自分の道を歩もうと決心して、いさぎよく役人生活の足を洗い、郷里に帰ってきた。その後星霜はどんどん移って、はやくも十二年という月日が経った。人生行路はひろびろとしてまるでつかみどころがない。むかし、楊朱が岐れ道に立ち止まって嘆いたこのどぶろくだけは、晩年を送るせめてもの頼りになるというものだ。

※5
   豆を種ゆ 南山の下
   草盛んにして豆苗は稀なり
   晨に興きて荒穢を理め
   月を帯び鋤を荷いて帰る
   道狭くして草木長び
   夕の露はわが衣を濡らす
   衣の濡るるは惜しむに足らず
   ただ願いをして違うことなからしめよ
        ――「田園の居に帰る」五首、その三

(大意)南山のふもとに豆を植えた。ところが畑には雑草がはびこってしまい、肝心の豆の苗はちらほらといった情けない様態となってしまった。で今日も朝早く起きて一日中雑草を抜いてまわった。もう日が暮れてしまって、鋤をかついで岐路につく。空を見上げると、月がいつまでも私の後についてくる。夜道は草や木が生い茂り、狭い道がいっそう狭く感じる。着物は、夕べの露でぐっしょり濡れてしまった。着物が濡れるのはまだしも惜しむに足りないが、どうか私の期待が裏切られず、豆が無事に育ってくれますようにと祈るばかりだ。
  〈夕の露はわが衣を濡らす、月を帯び鋤を荷いて帰る――これこそ実際の労働生活だ。桑や麻の生長につれて、自分の心も日一日とふくらんでくる――これこそ労働生活からくる実感だ。技術が十分に身についていないため、草ぼうぼうで苗はまばらといった、お世辞にも立派とはいえない労働成績ではあるが、田園に帰ったばかりの頃の、「農夫、我に告ぐるに春の及ぶをもってし、まさに西疇に事ありという」(「帰去来辞」)といった、あの傍観的なおもむきに比べれば大変な違いだ。〉
(『陶淵明』S41・11・30 初版 著者 李長之 発行 樺}摩書房)