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参考資料室

現代短歌論―穂村弘の〈わがまま〉―        安 池 智 春


二、作者論―〈わがまま〉の源泉―

(一)年譜
一九六二年 (〇歳) 五月二一日札幌市に生まれる。ひとりっこ。
       (二歳) 親の転職のため相模原市に転居。
       (六歳) 相模原市立相模台小学校入学。
(十歳) 親の転勤のため横浜市立瀬谷小学校へ転校。この頃から十八歳くらいまでが精神的に苦しくて、眠ってばかりいた。
(十一歳)親の転勤のため名古屋市立鶴舞小学校へ転校。
(十二歳)小学校の卒業論文に将来の夢は詩人と書く。名古屋市立北山中学校入学。
(十五歳)名古屋市立桜台高校入学。
一九八〇年 (十八歳)北海道大学文T系入学。
一九八一年 (十九歳)友人と札幌市北区で同居。初めて女性とつきあう。この頃塚本邦雄の作品を読み、短歌に興味を持ち始める。また図書館で偶然開いた雑誌で林あまりの作品に初めて出会う。作った歌には「受話器」「オールアダム」という言葉が入っていたという。この年北大退学。彼女と別れる。
一九八三年 (二一歳)上智大学文学部英文学科入学。八〇年代バブルの中で大学生活を送る。この頃からベンチプレスに熱中。
一九八五年 (二三歳)短歌を作り始める。
一九八六年 (二四歳)連作「シンジケート」で角川短歌賞次席。受賞作は「八月の朝」俵万智。この秋、加藤治郎と出会う。
一九八七年 (二五歳)上智大学卒業。卒業論文はヘミングウェイ。システムエンジニアとして就職。その後総務課へ移り、近年までキャリアを積む。「‘87全国学生短歌シンポジウム」で萩原裕幸、林あまり、水原紫苑らと出会う。
一九八八年 (二六歳)歌誌「かばん」入会。
一九八八年 (二八歳)十月第一歌集『シンジケート』を沖積舎より上梓。栞文は塚本邦雄、坂井修一、林あまり。直接の先生に当たる人物がいなかった ため、敬愛する三人の歌人に依頼した。帯文は大島弓子。「全ジャンルを通して、いちばん好きな人は?」と問われた結果決まる。
一九九二年 (三〇歳)十一月、第二歌集『ドライドライアイス』沖積舎。
一九九四年 (三二歳)十月、ショートストーリー集『いじわるな天使から聞いた不思議な話』大和書房。
一九九六年 (三四歳) 初の絵本翻訳。『ちずのえほん』(サラ・ファネリ、フレーベル館)。これ以降現在まで二四冊の絵本を翻訳。
一九九八年 (三六歳)萩原裕幸、加藤治郎とエスツー・プロジェクトを結成。「〈わがまま〉について」エッセイ「角川短歌」九月号が注目を集める。
二〇〇〇年 (三八歳)ごーふるたうんBBSを開設。四月、短歌入門・評論書『短歌という爆弾』小学館。共著『短歌はプロに訊け!』本の雑誌社。「うたう」「短歌研究」増刊号 短歌研究社 を責任編集。「うたう作品賞」選考委員。
二〇〇一年 (三九歳)七月、第三歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』小学館。この年からNHK学園全国ジュニア短歌大会選者。
二〇〇二年 (四〇歳)四月、初のエッセイ集『世界音痴』小学館。十一月、絵画集『ブルーシンジケート』沖積舎。十二月詩集『求愛瞳孔反射』新潮社。
二〇〇三年 (四一歳)この年の「読売新聞」読書委員となる。五月、ショートストーリー集『車掌』ヒヨコ舎。六月ベスト版歌集『ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi』小学館。七月、共著『回転ドアは、順番に』全日出版。
二〇〇四年 (四二歳)五月、エッセイ集『もうおうちにかえりましょう』小学館。
二〇〇五年 (四三歳)二月、同じ歌人でもある司書のよしだかよと結婚。三月、エッセイ集『現実入門 ほんとにみんなこんなことを?』光文社。同月、エッセイ集『本当はちがうんだ日記』集英社。
二〇〇六年 (四四歳)三月、エッセイ集『にょっ記』文芸春秋。六月、ショートストーリー集『課長』ヒヨコ舎。
二〇〇七年 (四五歳)三月、エッセイ集『もしもし、運命の人ですか。』メディアファクトリー。