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参考資料室

現代短歌論―穂村弘の〈わがまま〉―        安 池 智 春

(二)穂村の〈わがまま〉の特徴

1.固有名詞
  穂村の歌には固有名詞が多く存在する。 
ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり
   春を病み笛で呼び出す金色のマグマ大使に「葛湯つくって」
   声がでないおまえのためにミニチュアの救急車が運ぶ浅田あめ
   「なんかこれ、にんぎょくさい」と渡されたエビアン水や夜の陸橋
                                 『シンジケート』
  
ひとつの固有名詞には、世界や歴史や物語がある。従って固有名詞を用いることによって読み手のこころに、それらのイメージを強く喚起することができる。これは短歌のように限られた長さの詩形においては特に有効である。ただし、このことは同時に固有名詞の弱点でもある。固有名詞は、その背後の属性によって他の言葉よりも強い限定を被っているために、歌全体の流れをひとつのそれに『賭ける』ことには危険が伴う。つまり『知らなきゃ話にならない』ので。(6) 
作品に固有名詞を用いること、その功罪について穂村の基本的な考えはこのようなものであろう。ある特定の固有名詞を用いる時、多くのイメージが生まれる。活字になったときの視覚的効果、読み上げたときの音韻の魅力も固有名詞にはあるだろう。しかし当然にリスクも伴う。当然、読み手がどのようなイメージを抱くかは千差万別であり、作者の意図するイメージを必ずしも喚起できるとは限らない。中には良いイメージを持っていない、あるいは知らない、ということもある。三十一文字の中に知らない単語が入っていると、それだけで歌の理解が半減することだろう。
  しかし、穂村が自身の作品に歌を用いる時、そういったメリットデメリットを飛び越えている。
   しかし実際に自分が歌をつくる場においては、それらすべての観点からプラスマイナスして結果がプラスになったから、よし使おう、などと思うわけではない。それはもっと衝動的な選択である。個人的にその衝動を分析してみると、例えば、アイロニカルなニュアンスは、ほとんどない事に気づく。またなんらかの日常的な効果を期待するという部分も不思議と希薄である。むしろそこにあるのは、なにかはるかなものにつながりたいという単純な想いであるようだ。ジョン・ライドンがあさだ飴がどらえもんが、はるかな世界の扉を開く「鍵」になると勝手に思い込んでしまうのかもしれない。おそらく、鍵というのは、常にただひとつの型を持つものだというそれだけの理由によって。(6)
ここでわかるのは、やはり穂村は読み手を意識していない、ということである。これは序章で紹介した「〈わがまま〉について」の検証を裏付けることになるだろう。
衝動で選ばれた固有名詞は、詠み手にどう伝えるかということより、どう表現するかとい
う自己中心的な感覚が優先されている。この衝動、感覚が生まれてくる源こそがまさしく〈わがまま〉=「個人の世界観」だからである。「個人的にその衝動を分析」しても、「それだけの理由」を提示されてもいまひとつ腑に落ちかねるのも、「個人の世界観」という名の通り個人的な世界のルールに基づいたものだからである。個人的な世界から一歩踏み込んだ、周囲の世界、他人のいる世界で、ごく個人的なものを他人に伝えようとする選択肢。これを選ばないことで広がる不理解。こういったことにも「わがまま」の弊害はでていると言える。しかしそれすらよしとすること自体、「わがまま」であり、「個人の世界」への信仰の深さであるようだ。
穂村が固有名詞を多用するのにはもうひとつ理由がある。「過剰な自意識とは、自我の脆弱さが必然的に生み出すものではないだろうか」(『短歌という爆弾』)彼は歌論書『短歌という爆弾』の中で、十三年前に初めて短歌の同人誌から原稿を依頼されたときに書いた、自らの短歌に添える自己紹介を例に出しているが、その固有名詞という他者にまみれた十三年前の自分をこう分析する。「『ガッツ石松』『ドラえもん』『キクチ・タケオ』『伊東四郎』『水森亜土』など多くの他者が現れることは、自己の存在の根拠を自分自身の裡に求めることができない弱さと関わっていると思う」(『短歌という爆弾』)。
  時に、今巷ではBLOGやSNSでは自分のページを持ち、自己紹介、日記などをのせている人々が急増している。他の誰でもないたったひとりの「自分」、その「自分」を全世界に向けて公開する。ここで気になるのは自己紹介のページが彼らの好きな人物、作品、物といった大量の他者と固有名詞にまみれていることだ。この点で自己表現をしたがる現代の人々と、歌人穂村弘はひとつの共通点を見つけることが出来る。
他者にまみれた自己紹介。それは確かに自分を端的に表すものであり、他人がそのページを見た場合、一体どういう人物なのか、表面的にはとてもわかりやすいかもしれない。ただ、それは本当の自分を表すものでは決してないはずなのだ。
しかし、自分の中にある〈理想の自分〉になる為、五七五七七という定型、時にはそれをはみ出しつつも、穂村弘が詠うのは自己肯定である。自分を認め、愛し、さらに理想に近付こうとする。ありとあらゆる修辞や固有名詞に頼ろうとも、「五七五七七という定型空間の内部では、生身の私の神経症的な自意識が和らぎ、伸びやかな自己像の展開が許されるのではないだろうか」(『短歌という爆弾』)というこの考えを光に穂村弘は驚くべき明確な自らの短歌論を積み上げている。

2.口語と文語
   
    ゼロックスの光にふたり染まりおり降誕うたうキャロルの楽譜
    モーニングコールの中に臆病のひとことありき洗礼の朝
    抱き寄せる腕に背きて月光の中に丸まる水銀のごと
    君がまぶたけいれんせりと告げる時谷の紅葉最も深し
                                  『シンジケート』
    「なんかこれ、にんぎょくさい」と渡されたエビアン水や夜の陸橋
    さみしくてたまらぬ春の路上にはやきとりのたれこぼれていたり
    やわらかいスリッパならばなべつかみになると発熱おんなは云えり
『ドライドライアイス』
  作歌において、文語か口語かということは、ひとつの大きなポイントである。どちらでもない、という選択肢はもちろんなく、厳格に縛る歌人がおり、文語と口語両方用いる歌人も、そのどちらかをベースにしたうえでもう一方を挿入するのだ。
加藤治郎によると、口語体に文語を用いた歌というのはここ二〇年ぐらいの事であるらしい。口語で詠まれるようになった理由は、普段自分が使っている言葉、すなわち口語で「自分の生活感情や気持ちを的確に表現し、新しい詩想を獲得する」(7)ためである。
多くの近現代歌人が口語化を試みたが、短歌史上、口語定型が定着したのは、俵万智『サラダ記念日』(一九八七年)、穂村弘『シンジケート』(一九九〇年)に代表される、ライトバース、ニューウエーブと呼ばれた作品傾向の時代ということになる。
穂村はどうだろうか。彼は前出の例を一読しても判るとおり、口語の歌人である。しかしこのように文語を用いた歌は少なくない。
   ゼロックスの光にふたり染まりおり降誕うたうキャロルの楽譜 
『シンジケート』
  「明日の口語短歌のために」(加藤治朗『短歌』九月号、二〇〇六年)を基にしてこの歌を例にとって見ていきたい。
文語である部分は「染まりおり」の一点のみである。口語であれば「染まっている」になるところだが、声に出して読んでみるとわかるように、六音では音韻が崩壊する。ここは五音でなければならないところである。このように、「口語脈に文語を入れる大きな要因は、この音韻数の要請によ」り、五七五七七の定型を守るためなのである。ただし、この歌は定型のリズムを守るために仕方なく「染まりおり」としたのではない。「ひかり、ふたり、そまり、おりという強烈な音韻の連なりが主眼なのだ」と加藤治朗の述べる通り、このりの音の連なりは、実際に音読したときに感じられる心地よさと、高まる感情のスピード感までも表現しているのだ。
ゼロックスの光とは、コピー機の発するあの緑の光のことであり、そこでコピーしているのはキャロルの楽譜である。降誕の歌は祝福の歌。その楽譜をコピーする光に包まれるとき、ふたりもまた祝福されているのである。
  やわらかいスリッパならばなべつかみになると発熱おんなは云えり
                                『シンジケート』
  またこの歌では別の意図がある。この歌の文語部分は「云えり」だが、先ほどの「染まりおり」とは違って口語に直しても「云った」なので音韻は変わらないのである。ではなぜ意図的に文語が用いられているのか。「文語の重みをスパイスに」(東直子『短歌』九月号、二〇〇六年)によると、「唐突に文語が使われているからこそ、奇妙な違和感が読後に残る」(8)のだという。やわらかいスリッパがなべつかみになる、それ自体、意味のわからない違和感のあるセリフである。云えり、でその違和感を増幅させている。また云えりという文語の語感は、その発熱時の意味のわからない、どうでもいいようなセリフにも、不思議と大仰な断定の雰囲気をかもし出すことにも成功している。
このように、穂村には文語を用いるとき明確な意思や理由があり、口語と文語を自由に取捨選択している。

3.私性の欠如
  近代短歌は私性の表現だと従来言われていた。萩原裕幸によると短歌とは「近代以降、自己像そのものの抱える価値と自己像を含んだその世界を描く方法がつねに一体化され、そこで短歌作品の価値が問われて来た」(9)という。しかし穂村の歌は必ずしも一致しない。
  それは作品を読めば一目瞭然なのだが、歌自体は一人称であるのに、「三人称で描くような冷めた文体であった」(9)ことにある。一人称の「おれ」がいる世界、場の描写は限定されすぎているくらい細かく描写されているのに、私性という意味での自己、すなわち内面の叙情が表れてこないのである。「自己の像であるのには違いないが、従来の意味で価値を問い得る類の自己像をそこに提示しようとする意思が感じられない」(9)
  ここで行われているのは定説であった短歌=私性表現という認識を改める必要性と、自己像の価値を問う視点以外の可能性の提示である。短歌自体の表現理由、方法自体が多義化しており、まさに穂村はその代表なのだ。
  自己像を詠わない穂村が詠うもの、それは今現実世界にいる、私自身という自己ではなく、はるか目指す理想の自己であると思う。その根拠と理由は、この後の「二、作者論―〈わがまま〉の源泉―」で説明したい。