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参考資料室
「明治人の俳諧への郷愁」資料1 本論
伊藤 無迅

芭蕉会議「論文を読む会」
                     2013年9月14日 発表者 伊藤無迅

 「明治人の俳諧への郷愁 ― 国男と寅彦の場合」

 一.はじめに
 明治時代「月並」と呼ばれた俳諧は、正岡子規により非芸術の烙印を押され時代遅れの文芸として退潮を余儀なくされた。連句が重視する「変化」が「文学以外の分子」という理由である。つまりその変化の仕方が、遊戯的で且つ感情よりも知識に類するものが多いということである。一方子規により独立・再生された発句は、俳句と名を改め『ホトトギス』に代表される俳句誌が急速に興隆、その陰で俳諧(連句)は旧派と呼ばれ対照的に勢いを失い、昭和中期には存在自体が忘れられたかの観を呈する。
 しかし、大正の末から昭和初期に掛けて晩年を迎えつつあった明治人の一部には、俳諧への強い郷愁のようなものがあった。それは明治近代化の草創期を支えた明治人が晩年を迎えて、ふと気付けば「俳諧」があったと言うようなものではなく、明らかに俳諧の復活という意思的なものが感じられる。ここでは、柳田国男と寺田寅彦に焦点を当て、二人が残した小論から俳諧復活への、その意思的な「思い」を抄出してみた。

 二.テキスト(選択した論文)
   ・寺田寅彦「俳句の精神」 (資料1)
   ・柳田国男「俳諧と俳諧観」(資料2)
 本論を進める上で寅彦のテキストは『俳諧の本質的概論』が相応しいと思ったが、以下の理由で『俳句の精神』を取上げた。
   ・双方を読んだが内容的に重複するものが多い。且つ寅彦は俳諧・俳句の精神は同じと認識している。このため「俳句の精神」を「俳諧の精神」と置き換えても差し支えないと判断した。
   ・「論文を読む会」のメンバーは俳句創作者であり、俳句を作る上で『俳句の精神』が非常に参考になると思い今回は『俳句の精神』を選んだ。
   ・『俳諧の本質的概論』及び『連句雑俎』は連句論として非常に充実したもので、これはこれで独立した発表機会を持ちたい。  

 三.二人の俳諧・俳句との関わり 〈年表(資料3)参照〉
  (1) 寺田寅彦の場合
     ・寅彦の俳句の出会いは、第五高等学校(熊本)時代で教師夏目漱石を尋ね俳句の話を聞いたときが最初である(明治三十一年、二十一歳)。以降漱石が、俳句は勿論のこと人生の生涯の師となる。
     ・寅彦の生涯俳句数は、約千四〇〇句である。最も熱心に句作したのは漱石に入門した明治三十一年から漱石が留学(ロンドン)する明治三十三年までの三年間で、約千句を作成している。これは生涯句数の三分の二を超える。
     ・漱石の留学で寅彦の俳句創作意欲は急速に衰える。明治三十四年こそ百句超えるが、以降は数句程度で、まったく作らない年も多い。これは漱石の留学で身近に師が居なくなったこともあるが、勉学・研究と所謂働き盛りの時代を迎えたこと、さらに師漱石もロンドン以後次第に俳句から遠ざかったことも影響していると思われる。
     ・大正十年漱石門下の三人(寅彦、東洋城、蓬里雨)が集まり漱石俳句の研究を始める(その成果は大正十四年に岩波書店から『漱石俳句研究』として出版された)が、その折に連句が好きだった東洋城の誘いで始めた連句が寅彦を虜にした。
     ・以降、寅彦は死ぬまで連句を作り続け、同時に俳諧・俳句の著作物も多くなる。
・つまり寅彦にとっての明治三十五年から大正十年迄の約二十年間は、「俳句空白期間」と言えよう。
 (2)柳田国男の場合
     ・国男の場合、俳諧・俳句との直接的な関わりはない。むしろ青年時代は、和歌、新体詩でその才能を開花させていた。
     ・明治二十三年布川から上京した国男(当時十六歳)は、次兄の井上通泰のもとに身を寄せた。通泰は国男を和歌の松浦辰男門に入門させた(明治二十五年頃と言われている)。
        *松浦辰男=天保十四年京都有栖川家の家臣の子として誕生。維新の折孝明天皇の側近として上京、国学、歌学を学び修史局に入る。歌は香川景樹の子景恒に学び修史局辞職後は香川家の文台・硯箱をゆずられて歌道師範となる。
     ・後に国男は辰男から師範後継者を打診されるが断る。(桂園正統派は後に辰男の死と共に後継者がなく亡びる)
     ・柳田国男と文学全般との本格的な関わりは、次兄井上通泰の交友関係(露伴、鴎外、直文など)と、又従兄の中川恭次郎の影響が大きい。特に中川恭次郎からは、文学熱(鴎外熱)を吹き込まれ一時は文学で身を立てる覚悟をする。
     ・森鴎外の影響も大きく「和歌と漢詩、江戸文学、硯友社文学によってもっぱら養われてきたそれまでの国男の文学観は、鴎外との接触によって一新させられた」(*1)つまり鴎外の影響により広く海外の文学書を読み、竜土会時代は文壇有数の海外文学通と目されていた。
     ・一高時代に恭次郎を介して『文学界』を知り、盛んに新体詩の創作・発表をする。そのころ藤村を知りその影響を強く受け、交友を続ける。
     ・当時、国男の詩は藤村と二分するほどの評価を得ていたが、その大部分が恋愛詩であった。このためか後年国男は自分の新体詩を嫌悪し『定本柳田国男集』にそれを入れることを決して許さなかった。
    ・大学入学後も詩作を続けるが、何らかの理由(帝大で所属した『帝国文学』(擬古的措辞の土井晩翠の影響下にあった)と自由で新鮮な措辞を重視した上田敏等の『文学界』派との乖離、または失恋が原因とも言われている)で急速に新体詩への熱が冷め詩壇から去った。
    ・文学青年として和歌・新体詩を創作し幅広い人的交流があったが、この時期俳諧・俳句に関わった形跡はない。しかしテキスト(資料2)の3で述べているように、愛読書『俳諧七部集』は常に座右にあったようである。
     ・明治三十三年帝大を卒業し農務省に入る。以後は正業(仕事)優先の生活に入る。しかし文学と完全に縁を切ったわけではなく、竜土会やイプセン会を主宰または準主宰している。
     ・その後、国男の俳諧・俳句に関する表立った活動はない。但し民俗学を生涯の研究テーマにしていた国男は、その視点から『俳諧七部集』を常に愛読していたようである。例えば『木綿以前の事』(昭和十四年)は、そのような視点で書かれている。つまり一般大衆の衣服が麻から木綿に変わることで、大衆の暮しと心情がどのように変化し、それが俳諧でどのように詠まれたかを『俳諧七部集』から抄出して解説している。
     ・国男が連句を初めて詠んだのは遅く国男六十七歳、昭和十六年五月の「東北車中三吟」(国男、信夫、善麿)と思われる。その後折口信夫等と頻繁に歌仙を巻いている。
   
 四.二人の俳諧復活への意思的な思いとは
  (1) 寅彦の場合
    寅彦の俳諧への思いは、その生き方にあると思われる。寅彦は科学者でありながら文学を愛した点で、よく森鴎外と並べられる。しかし二人の間には科学に対する態度に歴然とした差があった。比較文化を専門とする小宮彰氏は、その二人の相違を次のように述べている。    

科学者としての森鴎外は基本的に西洋の科学をそのまま真理として受容して、日本に移入するという立場を取っていた。科学を中心とした西欧の文化を全体として対象としてとらえて、その妥当性を問うという姿勢は、いくつかの作品に疑義という形で述べられているものの、正面からの取り組みとしては見られない。これに対して、寺田寅彦は鴎外と同じドイツに留学しつつも、帰国後、年を追うに従って西欧の物理学の目指す方向への違和感を強め、特に後期においては「物理学圏外の物理的現象」[全集第五巻]などで、当時の西欧の物理学のあり方を根底から批判する視点を示した。(*2)

     つまり寅彦は父の希望であった造船学を蹴り自ら選んだ物理学ではあったが、年を追うごとにその考え方と自分の心との乖離に悩むようになる。その大きな理由を小宮氏は〈時〉にあると見ており以下のように述べている。      

西欧の文化伝統に由来するその根本のあり方において、寅彦には受け入れがたい側面があった。西欧において成立した物理学は基本的に〈時〉による変化に本質的な意味を認めない立場を取っていることである。(*2)

さらに小宮氏は、このような寅彦の姿勢を比較文化という観点から、次のような興味ある言葉を述べている。

寅彦が比較文化の視点において注目されるのは、西洋科学を批判するその視点が、〈時〉のあり方、自らの〈時〉の意識と結びついて、科学と文学にわたるその全活動のあり方に関わっているという点である。(*2)

    小宮氏はその批判が具体的に現れた科学面と文学面の活動例として次の二点を上げている。

『物理学圏外の物理的現象』(昭和七年)を執筆した最後期の昭和初年代、大学外の理化学研究所などで従来の物理学で扱えない現象である「墨流し」の研究など一連の独自な研究を進める一方、雑誌『渋柿』の主催者松根東洋城と連句の実作に精力的に取り組み、『俳句の精神』ほかで独自の俳諧論を展開した時、寅彦が西洋の科学に対置したのは、芭蕉以来の連句のあり方に示された俳諧の美学であった。(*2)

    西洋の科学に俳諧(連句)を当てることは誰しも意外な感を持つであろう。しかし寅彦の中には科学と文学を異質なもの、別なものとして分けるという考え方はない。たとえば寅彦が大正五年に発表した「科学者と芸術家」の中で「二人(科学者と芸術家・・発表者注)の目ざすところは同一な真の半面である」(*3)と述べている。小宮氏は、そこにこそ寅彦が西洋科学で経験した〈時〉をめぐる比較文化的な状況(葛藤)的背景があると見ている。小宮氏は最後に寅彦の「意思的思い」を以下のように結論している。

万葉以来の日本の詩歌は自然の叙景とそこで感じられる人の心とをともに表して来た。それは伝統として積み重ねられて日本の美的文化を作っている。この長い文化伝統を自覚して表現する芸術の形式が、芭蕉が完成させた俳諧の連句である。それは何よりも文化伝統として受け継がれてきた、日本人が経験する〈時〉の様相の表現としてある。
 寅彦が最晩年に西欧の物理学の伝統と日本の連句の俳諧の美学を敢えて対比させて示した時、伝えたかったことは、日本の文化が〈時〉の様相を意識し明示する手法を長い伝統を通じて育ててきたということであり、それが日本の文化の普遍的な価値でありうることではなかったか。(*2)

 (2) 国男の場合
  文学青年であった国男の中心は和歌であり新体詩であり、俳諧・俳句については表立った活動はしていない。テキストにもあるとおり、俳諧に興味を持ち出したのは明治三十二年(二十五歳)に『俳諧三佳書』購入した前後であろうか。しかしその後はテキスト2で自ら述べるように、西馬の『標注七部集』を愛読し続け一人俳諧に親しんでいたようである。
  その国男に表立った俳諧(連句)活動へと火を点けたのは、テキスト2にもあるとおり新村出が呼びかけ、幻に終った昭和七年の寅彦等との会合であろう。国男はテキスト2でも述べているように、この前後寅彦の俳諧関係の著作を相当読み込んでいる。さらに加えれば、これは私の推測であるが、山本健吉の存在があると思われる(これは今後の私の研究テーマでもある)。昭和十年、山本の依頼で雑誌『俳句研究』へ『笑いの本願』を寄稿以後、『俳句研究』を中心に雑誌・俳誌への俳諧関係の寄稿文が急増している(資料3参照)。
  つまり俳諧への表立った活動が始まるのは昭和七年、国男五十八歳前後からであろう。さらにその活動が公的活動となるのは、昭和十九年文学報国会の俳句部会に連句委員会が設立されたときである。国男はその委員長に任命され俳諧復活へと活動を始める。その時の国男の俳諧復活への「意志的思い」は、テキスト2で自らが次のように述べている。
  ・大戦も終わりに近くなると、人はいらいらと雲丹か針鼠の如く、刺すことばかりを考えていたけれども、是にはまだ今に今にという慰撫もあった。しかし勢い窮まり望みは霧と消えてからの、二年三年の苦悩は耐えがたかった。
  ・女も男も口をへの字に結び、年中睨むような目で押し合っているのを見ると、あゝ笑いが恋しいと思わずには居られなかった。
  *貧と憂愁の底積みに息づきつつも、なほ僅かな隙間から忍び込む人生の可笑味をさがし、指ざしても人と共にしばし心のくつろぎにしようとした蕉門の俳諧にはなつかしいものがあった。
  *あれをもう一度という私たちの願いは、遅まきながらもやや、寺田さんよりは広かった。
 つまり長引く戦争に疲弊する日本人が、少しでも「笑う」ことで生きる希望のようなものを持って欲しかったのである。それを実現する手段として日本人が古来親しんできた俳諧(連句)を思いつく。特別な設備も道具も不要で、人々に精神的な癒しと和をもたらす俳諧こそ、それに相応しいと考えたのである。
国男はテキスト2で「遅まきながらもやや、寺田さんよりは広かった」と自慢するように、一時は文学報国会の連句委員会に大いに乗り気であった。その後「昭和式目」の制定など活動は軌道に乗り掛けるが敗戦により頓挫する。戦後も厳しいGHQの思想統制下、活動を再開することは難しく、国男の情熱は民俗学会の立ち上げに移った(この時の状況は、前回の発表「柳田国男と高浜虚子―戦争末期のおける連句」の通りである)。

  4.まとめ
  寅彦は西洋文化の最大の特徴である自然科学、且つその中心の物理学を専門とした。しかし晩年に到りその物理学の根本的な考え方に拒否反応を示した。そしてその自然科学に欠落しているものを日本古来の俳諧(連句)に見出し独自の俳諧論を展開、死ぬまで歌仙を巻き続けた。一方、ハイネ、A・フランスという西欧文学を代表する文化人から啓示を受け、民族学という学問を起こした国男は、常に日本人の魂のコンデンス『俳諧七部集』を愛読していた。その国男は晩年に到り長引く戦争で精神的疲弊に喘ぐ国民見かねて、その心を癒そうと高浜虚子と共に連句復活に奔走した。
  それぞれ立場も異なり俳諧復活を希求する背景・理由も異なっていた。しかし俳諧は日本人のこころであり、且つ誇り得る日本の文化として存続させるべき、という考えは二人に共通していた。      
  資料3にも記載したが大正末から昭和初期に掛けて、俳壇以外の知識人(樋口功、幸田露伴など)から俳諧再評価、俳諧復活論が起った。寅彦や国男の動きもこれが引き金になっている可能性は充分ある。幻に終わった国男・寅彦の会談が、もし実現していたなら、俳壇(虚子)を巻き込み大正から昭和初期にかけて俳諧(連句)が再興していた可能性が充分にあったと思われる。
  戦後暫らくGHQの厳しい思想統制の時代が続くが、俳壇では虚子亡きあと安東次男が俳諧に大きな関心を寄せた。また近年到り俳壇内でも連句を楽しむ雰囲気が富に高まっている。
  今後俳壇内から、さらなる連句復活の大きなうねりが出ることを大いに期待するものである。
                                        了

      参考図書

   ・『寺田寅彦全集第十一巻』岩波書店(一九九七年十月二十七日)
      ・俳諧(うち「俳諧」・「連句」の部)
      ・解説(坪内稔典) 
    ・『寺田寅彦全集第十二巻』岩波書店(一九九七年十一月二十一日)
      ・俳諧論(うち「俳句の精神」)
      ・解説(尾形仂)
    ・『寺田寅彦全集第十七巻』岩波書店(一九九八年五月二十七日)     
     ・年譜
     ・著作目録
    ・『定本柳田国男集第七巻』筑波書房(昭和四十三年十二月二十日)  
      ・「俳諧と俳諧観」
     ・「七部集の話」
    ・牧田茂編『評伝柳田国男』日本書籍(昭和五十四年七月二十日)
      ・U文学青年(岡谷公二)

   引用部資料

*1 牧田茂編『評伝柳田国男』日本書籍(昭和五十四年七月二十日)
    ・U文学青年(岡谷公二)より
*2 『寺田寅彦全集第十二巻』岩波書店(一九九七年十一月二十一日)
    ・月報12、小宮彰「寺田寅彦の〈時〉の意識と比較文化」より
*3 『寺田寅彦全集第五巻』岩波書店(一九九七年四月四日)
    以下は右全集に記載あり。
    ・「科学者と芸術家」より
      ・なお初出(『科学と文芸』、大正五年一月) の表題は「科学の目指すところと芸術の目指す処」、単行本収録時に掲題に解題。
      ・なお単行本の本文末に「大正四年十月」の日付がある。