ホーム
参考資料室
連句を楽しむ その九
市川 千年

   痩(や)せたる人を嗤笑(わら)ふ歌二首
  石麻呂(いしまろ)に われ物申す 夏痩せに 良しといふものそむなぎ捕(と)り食(め)せ(石麻呂殿に私は謹んで申し上げます。夏痩せによく効くと言われるものです。鰻を捕まえてお召し上がり下さい)
痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた むなぎを捕ると 川に流るな(痩せに痩せていても生きていさえすればそれで結構でしょうに、もしかひょっとして、鰻を捕ろうとして川に流されなさるなよ)(小野寛『大伴家持』笠間書院)

 いずれも『万葉集』巻十六にある、大伴家持(七一八〜七八五)、あの「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ」(巻十九)、「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」(巻十九)の家持の歌である。
 巻十六には、家持が痩せた友人の石麻呂君をたっぷりからかったこうした戯笑歌をはじめ、数種の物を詠み込んだ即興歌、無心所著(むしんしよぢやく)(意味の通じない)歌など、饗宴の場での歌の注文の「声に応へて」作られた歌が収められている。「一二(いちに)の目のみにはあらず五六三(ごろくさむ)四(し)さへありけり双六(すごろく)の才(さえ)」といった歌まである。この時期の作品群に「後世の「俳諧」の源流」(小西甚一『日本文藝史T』講談社)をみることもできるだろう。
  『万葉集』に対する次のような認識も紹介しておこう。

「一言でいって集団の歌。ここに『万葉』の豊沃な土壌や東歌、防人歌などにうかがわれる庶民の歌もあるが、儀式典礼の歌から相聞にいたるまで、宴席の歌から挽歌にいたるまで、『万葉』の歌のきわめて多くの部分は、それを聴き、受け入れてくれる相手が現実にそこにいるという条件において生みだされている。「独り」の自意識をはっきりもって独詠歌をものした作者は、大伴家持をのぞけばほとんど見当らないといえそうである」(大岡信『うたげと孤心 大和歌篇』集英社)

 さて、四五〇〇首余りある『万葉集』全二十巻の歌のなかで、上の句(五七五)と下の句(七七)を別人が詠んだ連歌体の歌が、家持が編纂したとされる巻八の「君待つと 我(あ)が恋ひ居れば 我(わ)がやどの 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く」(額田王)で始まる秋相聞の部立の末尾に一例だけある。文献に記された最初の連歌といわれるその歌は次の題詞から始まる。

 尼、頭句(とうく)を作り、あはせて大伴宿禰家持、尼に誂(あとら)へられて末句を続(つ)ぎ、等しく和(こた)ふる歌一首
  佐保(さほ)川(がわ)の水を堰き上げて植ゑし田を 尼作る 刈れる初飯(はついひ) は ひとりなるべし 家持続ぐ(佐保川を堰きとめて水を引き、苦労 に苦労を重ねて植え育てた田よ〈尼が作った〉。その田の稲を刈って炊(かし)いだ新 米を食べるのは、田の主一人だけのはず〈家持が続けた〉)(伊藤博『萬葉集  釋注四』集英社文庫)

 この歌の前におかれた、ある者が尼に贈れる歌二首の「手もすまに 植ゑし萩にや かへりては 見れども飽かず 心尽さむ」(手も休めずに植え育ててきた萩であるからでしょうか。かえって逆に、いくら見ても見飽きがしないどころか、散りはせぬかと気を揉むことになりそうです)、「衣手に 水(み)渋(しぶ)付くまで 植ゑし田を 引板(ひきた)我(わ)が延(は)へ まもれる苦し」(衣の袖に水垢がつくほどまでして植え育てた田であるのに、今度は鳴子の縄を張り渡して見張りをするはめになったとは、辛いことです)との連関から、「水を堰き上げて植ゑし田」は大切に育てた娘の比喩として解釈される向きがある。
 他の解説では、「佐保川の水を堰き止め、水を引いて植えた田を[尼が作った]、刈り取った早稲の飯を食べるのは私一人のはずだ[家持が後句を継いだ]」「人間関係が不明で、事情がわかりにくい。別の解釈の可能性もあろう」(多田一臣訳注『万葉集全解3』筑摩書房)、「佐保川を堰き止め水を引いて植えた田を〈尼が作った〉、刈って炊いた初飯を食べるのはあなた一人でしょう〈家持が続けた〉」「寓意について諸説あるが、はっきりしない。「尼」も未詳」(佐竹昭広等校注『万葉集(二)』岩波文庫)とある。参考までに、私がなるほどと思った二人の碩学の解釈をあげておく。

 「佐保川の水をば堰いて、田に引き入れて、苦心して植ゑつけた田をば(と、自分の娘と交渉のあつた、家持に戯れて咎めると)刈り上げて、食べる早稲の飯は、獨りで自分の産業の収入として食べるのが常でありませう。(そのように親が苦心して育てた娘を、他人の男が獨りで、我が物とするのも、不思議はないでせう。)(折口信夫『口譯萬葉集』、『折口信夫全集』第四巻所収 中央公論社)
   「この歌は正式な唱和ではなく、唱和の習慣によって導かれただけの、両人合作の一短歌に過ぎない。唯こう言う過程を持っただけに、そこに単に歌にない発想法が加って来ている事に注意する必要がある。つまり前後の句の間には、不即不離でもあり、また飛躍した内容が生じて来ている訣(わけ)なのだ。この点、明らかに夙(はや)くから、後の連歌俳諧の附合の味に近いものが出ている事に気づく筈(はず)である」(折口信夫「俳諧の発生 農村におけるかけあい歌」、『折口信夫古典詩歌論集』所収 岩波文庫)
  「連歌のようなものが、どうして起ったか。これは機智問答的な興味というものが、何としても、その中心である。感情の詠歎的表出への意志からは、かような智的興味は起らない。従って、和歌形式といふものが、十分に発達し、表現様式や修辞がある程度までの発展をとげて、いわゆる詞花言葉を翫ぶという境地になって、かかる形式は発生して来ると考へられる。家持の時代は、そうした時代の曙の時代であった」「すなわち「ひとりなるべし」は、「独りなるべし」と「樋取りなるべし」との掛詞である。佐保川の水を堰いて、樋をもって導き灌漑して作りあげた田の収穫(早飯)なら、それは正に樋取り(樋の力で以て収穫した)というべきだらうとの、言語的な洒落が用いられているのである。かように知的興味をもって、自分の言いかけに対して相手がどう出るか、どう答えてくるか、と言う点に、感興を持って言いかける形として連歌は発達した」(能勢朝次「聯句と連歌」、『能勢朝次著作集』第七巻所収 思文閣出版)

  今ふと浮かんだのが、一九九八年作の「宙返り何度もできる無重力/湯船でくるりわが子の宇宙」、「同/水のまりつきできたらいいな」、「同/乗せてあげたい寝たまま父さん」のよく分る付合。尼の句のように「・・・を」と言い余さず一句として独立させた宇宙飛行士・向井千秋さんの上の句もよかったが、灌漑稲作農業から生まれた十三世紀程前の佐保川の付合(問答)も実に味わい深く感じられてくるのである。
参考文献 島津忠夫「連歌源流の考」、『島津忠夫著作集』第三巻所収 和泉書院/櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版

(俳句雑誌『蝶』208号(2014年7・8月))