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参考資料室
連句を楽しむ その四
市川 千年

馬を洗はば馬のたましひ冱(さ)ゆるまで人戀(こ)はば人あやむるこころ
櫻桃(あうたう)にひかる夕(ゆふ)べの雨かつて火の海たりし街(まち)よ未來も
ただ一(ひと)燈(ひ)それさへ暗きふるさとの夜夜(よよ)をまもりて母老いたまふ

 右にあげた短歌は恂{邦雄(大正九〜平成十七)の作品である。この「前衛短歌の巨匠」といわれた歌人・塚本邦雄が歌仙との出会いを次のように語っている。

「・・・孤独の行きつく先は自問自答、的確な自己発見などできるはずもなく、その蒙を啓いてくれるのは他者以外にあるまい。私を「歌人」たるべく啓発してくれた最初の師は、土蔵の奥の長持の中の歌仙帖だった。母の父は明治中期、琵琶湖畔の俳諧の宗匠で柳桃居如水なる号を持ち、点者として年中処々に招かれていたらしい。主催した連歌の、その都度の巻は何千とあったろうが、その一部を母が形見として譲りうけたものと思われる。・・・・・歌仙の巻は今も覚えている。「長刀も月も鉾(ほこ)なり祗園の会(え)」「氷欲しがる稚児をたしなめ」「厨より宵越しの酒持ち出して」と、かなり明晰な文字で、発句・脇・第三、季は夏・夏・雑であり、第三「て」止めも尋常、かなりの技倆だとその後気がついた。・・・・それらの句をなした「連衆」が、わが家から大して離れていない塗師屋(ぬしや)の主人で、仕立屋の総領、菩提寺の役僧等と知ると、私は急に競争意識が生まれて、ノートに独吟を試みた。・・・どうやらこの当時、私に私をめぐりあわせてくれたのは、長持の中の歌仙の巻であったらしい。その時点で五七五の長句と七七の短句の有機的な接続・連係が、意外な効果を生み、全く架空の世界を、実際に経験した以上に活写することを、ぼんやりとではあるが意識した。・・・」(塚本邦雄「自分と出会う 私の「顔」を写し出した書簡」平成七年十一月二八日付朝日新聞)

  前号で、蝶同人の竹村脩氏のご自宅の「土蔵」から出てきた幕末の付合を、佐川の古文書の会の方々の助けをお借りして紹介したが、明治の世でも、生活の中で俳諧を楽しんでいたことが塚本の文章から伝わってくる。
  連句の楽しみは、詩人の谷川俊太郎が大岡信との対話で述べた、「歌合にしても連句にしても、あるいはもっと広く考えて、柿本人麻呂が神前で歌を奉納する場にしても、相聞歌のような男女間の歌のやりとりにしても、それらすべてが広い意味での「うたげ」の場といえると思うんだよね。ということは、近代以前の日本の詩というのは、ある限定されたコミュニティーのなかで、だいたい自足して完結していたということだと思うんだ。そのなかに、競い合うゲームのおもしろさもあり、自分の感情を伝えてそれに応えてもらうというウイットとかユーモアのおもしろさもあるという、豊かな楽しみを持っていた。そういう小さなところで、うまく詩が成り立っていたという感じが強いよね。」(『詩の誕生』(読売選書 昭和五十年)という認識ともなるだろうか。
  さて、時代を一気に天正十年(一五八二)五月二四日に巻き戻そう。この日、明智光秀は子息の十兵衛光慶(みつよし)と家臣の東六郎衛行(ゆき)澄(ずみ)を従え、京都の愛宕山へ参詣し、当代隋一の連歌師里村紹(じょう)巴(は)一門と連歌の会を催した。

  時は今天(あま)が下しる五月(さつき)かな    光秀(夏)
    水上(みなかみ)まさる庭の夏山      行佑(ぎょうゆう)(夏)
   花落つる池の流れをせきとめて  紹巴(春・花)

 後に愛宕百韻として知られることになるこの連歌は、光秀が「人」を天下という熟語の下に賦したとも読み解かれている賦(ふす)何人(なにひと)連歌(れんが)の発句で始まった。脇を付けた行佑は愛宕西之坊威徳院住職。この百韻の先を少し見てみよう。
  三表三句目(53句目)から
   しほれしを重ね侘びるたる小夜衣 紹巴(雑・恋)
    おもひなれたる妻もへだつる  光秀(雑・恋)
   浅からぬ文の数々よみぬらし   行佑(雑・恋)
    とけるも法は聞きうるにこそ  昌叱(しょうしつ)(雑・釈教)
   賢きは時を待ちつつ出づる世に  兼如(けんにょ)(雑・人倫)
  心ありけり釣のいとなみ    光秀(雑)
  三裏三句目(67句目)から
   契り只かけつつ酌める盃に    宥源(ゆうげん)(雑)
    わかれてこそはあふ坂の関   紹巴(雑・山類)
   旅なるをけふはあすはの神もしれ 光秀(雑・旅神祇)
名残の裏七句目(99句目)から
   色も香も酔をすすむる花の本   心前(春・花)
    国々は猶のどかなるころ    光慶(春)

 光慶の句はこの挙句のみ。光秀親子の肉声が伝わってこないだろうか。「心ありけり釣りのいとなみ」とは釣り糸を垂れ世を避けていた太公望の故事のことだろう。愛宕百韻が巻かれて十日もたたない翌月の六月二日、本能寺の変勃発。
  俳言(俗語、漢語、当世の詞等)を用いない連歌については、浜千代清教授の「芭蕉と連歌」(『浜千代清編 芭蕉を学ぶ人のために』世界思想社 平成六)から引こう。

「・・・つまり連歌における変化は、なんとなく変わっていったり、変わればそれでいいというようなものではなく、変化そのものを、換言すれば無常の世を具現することにあったのである。このことについて良基は次のように述べてている。

連歌は前念後念をつがず(前の思いは一瞬の間も後へ尾を引くことはない)。又盛衰憂喜、境をならべて移りもてゆくさま、浮世の有様にことならず、昨日と思へば今日に過ぎ、春と思へば秋になり、花と思へば紅葉に移ろふさまなどは、飛花落葉の観念もなからんや(この世の無常を心に観じ思うこともどうしてないことがあろうか)。(『筑波問答』二条良基)

すなわち、無常を嘆く和歌に比して、連歌は無常を具現して互いに共感することによって、現実の無常を超える仏の知恵に近づくことができるというのである。この考え方は後に心敬によって仏道連歌道一如論にまで高められるのであるが、乱世に連歌が隆興した要因の一つであった。」

 終わりに、塚本邦雄の短歌をもう一首。
夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちをおもひ出づるよすが

(俳句雑誌『蝶』203号(2013年9・10月))