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参考資料室
連句を楽しむ その五
市川 千年

 第四十回『俳諧時雨忌』張行の案内が九月下旬、自宅に届いた。「一日、翁に捧げる俳諧之連歌を巻く楽しみを共にいたしたく」としたためられている。今年は、十二月八日(日)東京都北区王子某所で開催され、張行に先立ち、出光美術館の別府節子先生が、芭蕉の筆跡などについて講演されるそうだ。「可能なら来て頂戴!!」と俳諧時雨忌事務局(東京義仲寺連句会草門会)の方のメッセージもあった。久々に、生の付合の場に臨むべし!さっそく、一泊航空便を予約した。
  俳諧時雨忌については、昭和四九年に東京義仲寺連句会の連衆となった眞鍋呉夫氏(俳号・天魚 大正九〜平成二四)による第六回俳諧時雨忌のお誘いの文章を引用させていただこう。眞鍋氏には、味元昭次代表が先号の『蝶』でとりあげられた折笠美秋氏の遺句「なお翔ぶは凍てぬため愛告げんため」に和した「春あられ折笠美秋なほ翔ぶか」の句がある。

  本昭和五十三年戊午時雨月十二日は、俳諧の祖師芭蕉翁の没後二百八十五年に当ります。よって東都におきましても、昭和四十六年以降五回にわたって行われましたまま中絶中の俳諧時雨忌を復興いたし、心を新たにして清雅な鎮魂の行事と致したく存じます。即ち、はいるに易き俳諧の道を造化の根源まで歩きつめた祖翁の偉業を追慕し、以て蕉風俳諧本有の素志を承け継ぎ承け渡したき一念からにほかなりません。何卒お力添えの程願上げます。
     昭和五十三年九月

 第六回俳諧時雨忌は、昭和五三年十月十五日(日)午後一時〜八時、新宿区の俳句文学館で開催され七十名が参集。暉峻康隆教授の講和の後、ただちに八席に分かれて歌仙興行を行なった。俳諧時雨忌では、所属結社・グループに関わりなく、参加者がいくつかの座に分かれ、芭蕉の句を発句としていただき、その座の捌きが脇を付けて、脇起り歌仙等を巻いていくのが習わしになっている。
  私が初めて参加したのは、連句を始めて一年ほどたった平成八年第二三回俳諧時雨忌。この時は三六名が参集し、六席に分かれ、全席歌仙を満尾した。私は、初対面の都心連句会の土屋実郎捌の席についた。そして、歌仙は次のように展開。
   櫓の声波を打つて腸氷る夜や涙  翁
    年惜しみつゝ頼る頬杖       実郎
   公園に遊ぶ父と子着膨れて     博
    黒いバケツが風に転がる     春眠子
   月今宵鼓あぶりて序の舞を     浩司(まだ千年ではない)
と、月の座をいただけた。また、ウラの月の座からは、
   手術して視野明瞭に月涼し     丹花
    崩し癖にて決める真蹟      浩司
   外国にHAIKUをひねる人のふえ 博
    箸を上手に使う通訳        しげと
   花筏水惑星に充満す        浩司
    熊穴を出て欠伸三回       春眠子
  と、花の座をもたせていただけた。
続いて、名残のウラに入って、
   春闘の拳をどこへ上げようか    実郎
    大臣答弁しどろもどろに      博
   少年の心そのまゝ野茂の夏    浩司
  と、この年大リーグで活躍したトルネード投法の野茂英雄投手の時事句で前句二句の世界から向付で転じると、
    踏み出す先は恋の浮橋      春眠子
   くらやみに迷ふ五体のまゝならず  しげと
と、響付の恋の句を打たれてしまった。「少年の」の付句が恋の呼び出しの句となったわけだ。全員初対面の方々に囲まれて、四苦八苦の状況だったが、一期一会の連衆の紡ぎだす付句に反応しながら連句修行をすることができた。

  鞍壺に小坊主乗るや大根引     翁
    陽は金色に冬ぬくき里       牛耳

 この付合は、昭和四八年九月二三日、東京厚生年金会館で開催された第三回俳諧時雨忌の付合。
  その名残のウラからは、次のような展開も・・・
   万愚節対話のなかに大地震     牛耳
    日本列島改造の本          棟九郎
   土建屋の角さんつひに首相たり   牛耳

 牛耳(ぎゅうじ)こと野村牛耳氏(明治二四〜昭和四九)は、私の連句の師だった村野夏生氏の先生に当る方で当時八二歳。大正六年、大阪朝日新聞の懸賞小説に一等入選(題名『明けゆく路』筆名・野村愛太郎)。その時の審査員の内田魯庵、幸田露伴両者の俳論に興味を抱き俳諧に親しむようになった。昭和十五年、従軍作家の一員として南支に従軍。眼前にて無辜の母子が銃弾に倒れるのを目撃し、無常を感じ、小説を断念。児童文学に専心した。昭和十八年、五二歳の時、信州にあって蕉風俳諧を孤守する根津芦丈翁(明治七〜昭和四三)と初めて会い、芦丈捌きで半歌仙を二巻巻いている。佐川町出身の探偵小説の父・森下雨村(明治二三〜昭和四〇)とも交遊しきりだったという。(参照『野村牛耳連句集 摩天樓』 昭和五〇)
 牛耳氏の先生だった芦丈翁は、「俳諧(連句)は茄子漬の如し、つき過ぎれば酢し。つかざれば生なり。つくとつかざる処に味あり」という言葉を残している。(『芦丈翁俳諧聞書』東明雅 平成六)
 この付く付かないということに関して、草門会の山地春眠子氏は「連句は付き合った二つの句の間に漂う何物かを各人が味わうものですから、前句と付句があまりピッタリしていては(意味的・論理的に結合されていては)それこそ味も素っ気も出て来ません。・・・発句に対する脇のようなぴったり型の付句ではなく、脇に対する第三のような飛躍型の付句が望ましいのです」と述べている。(『現代連句入門』沖積舎 平成六)
 私は、付ける(転じる)ということは、前二句の世界とは別次元の新しい世界を自在に切り開いていく行為だと感じている。

   冬うらゝ死に下手昼も寝てばかり   芦丈仏
    春まつ梅の猶かたき縁        朽 葉
   垣の外水の流るゝ音たてて      瓢 左

(俳句雑誌『蝶』204号(2013年11・12月))