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参考図書室

能村登四郎と水原秋桜子                  安居正浩

はじめに
 『出航』の編集長堀口希望さんに、こんな句がある。

 師の師の師その師の師なり獺祭忌  希望

 森岡正作主宰の師が能村登四郎、その師が水原秋櫻子、そのまた師が高浜虚子、そして正岡子規となるのだろう。俳句を考える上で、師系からのアプローチも面白い方法の一つである。

 能村登四郎が水原秋櫻子の「馬酔木」に入会したのは、昭和十四年であった。それから四十二年間「馬酔木」に在籍する。登四郎の弟子である森岡主宰や私は、形の上では水原秋櫻子の孫弟子ということになるのだが、「沖」や「出航」の中ではあまり秋櫻子が話題に出なかった。
登四郎が秋櫻子の事を話さなかったこともあるが、私たち弟子の目から見て登四郎と秋櫻子の句風が大きく違って見えたこともあるだろう。

 高嶺星蚕飼の村は寝しづまり   秋櫻子
 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々  秋櫻子
 梨咲くと葛飾の野はとのぐもり  秋櫻子

 長靴に腰埋め野分の老教師  登四郎
 子にみやげなき秋の夜の肩車  登四郎
 白地着て血のみを潔く子に遺す  登四郎

とりあえず二人の第一句集『葛飾』と『咀嚼音』の句を三句ずつあげてみたが、皆さんの印象はどうだろうか。
 今回は秋櫻子と登四郎との共通点をさぐりながら、二人の師弟関係の一端でも見えてくればと思っている。

一.俳句を始めたきっかけ
 秋櫻子も登四郎も本格的に俳句に取り組む前には短歌の世界にいた。
 秋櫻子は歌誌「朝の光」に参加し、窪田空穂から和歌の指導を約二年間受けていたし、登四郎は国学院大学在学中に歌誌「装槇」の同人となり、釈超空(折口信夫)の間接指導受けていた。
 俳句へ変わるきっかけについては、それぞれ自著で明らかにしている。
秋櫻子は
  東大の二学年の試験前、図書館で勉強しつつ、退屈のあまりに借りて読んだ
  高濱虚子の著書『進むべき俳句の道』は、私の俳句観を全く訂正せしめる内容を
  持ってゐた。それはホトトギスの主要作者の句を評釈したものであるが、中でも
  渡邊水巴、村上鬼城、前田普羅、飯田蛇笏などの句には精彩があり、殊に新進原石鼎
  の華麗にして新鮮なる作風は私の心をつよく惹きつける力があった。
  「今日の俳句とはこのやうなものか」と思ひ、私は試験勉強を忘れてその書に読み耽った
  (『高浜虚子、並に周囲の作者達』)
虚子と俳句に興味をもった秋櫻子は「ホトトギス」を買って読み始める。

一方登四郎は
  二十九歳の独り身はやはり孤独でした。この時、私はふと水原秋櫻子に『葛飾』という
  句集のあることを思い出しました。そして読んでみると、弘法寺や真間などが詠まれ、
  水路や桃畑や梨棚が美しく描かれていました。しかも、その俳句のスタイルが明るくて
  新鮮でした。(中略)俳句というと、宗匠頭巾をかぶった老人がへちま棚や梅に鶯を詠む
  ものだというイメージがありましたが、秋櫻子の俳句には新鮮な油絵の具のような匂い
  がありました。秋櫻子の主宰する「馬酔木」という俳句雑誌を書店で開いてみると、俳句
  にあるはずの「や」や「かな」などの切字が殆どないことに一種の驚きを感じました。
  そんなことで、私は「馬酔木」で勉強することに決めたのです。十四年の夏のことでした
  (『NHK俳句入門 能村登四郎俳句の楽しみ』)

 二人ともまず短歌からスタートした。しかし自分の持つイメージとまったく違う新鮮な俳句に出会い、その衝撃で短歌から俳句に転向した点で共通している。
 ただわずかな期間であったが、短歌の経験はその後の二人の俳句に大きな影響を与えたと思われる。

二.俳句の作り方
秋櫻子の有名な句に
 桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな  秋櫻子

がある。秋櫻子は東京の出身で帰省する故郷を持たない。この句は「帰省」という題で作った句。自句自解で次のように言う。
  山登りする時によくこうした炎天の桑畑を通った。さうして俳句を作るときの材料として
  頭にしまひ込んで置いた。それをここで記憶から取り出し、仮に帰省する自分をそこに
  立たせて詠んだ(『水原秋櫻子選集・第四巻』)

登四郎は
  私は旅に行く時も、吟行の時も殆ど句帖のようなものを持って行かない。見たものや
  風景を頭の中に刻みつけて帰り、二、三日してから思い出して作る。だから見た瞬間
  句になったという例は少ない。忘れたものはそのままで印象の深かったものだけが残る。
  見た景をすぐ文字に写すということが何故か不安で、一度心の底に沈めて濾過された
  ものでないと納得できない(「素材より表現」)
確かに登四郎が吟行会の時でも手帳を片手にしているのを見たことはない。われわれはそれを登四郎が格好をつけているだけであって、本当はトイレで手帳を出して書き付けているのではないかと噂したものだった。
 登四郎は江戸っ子の粋に通じるダンディズムを終生見せ通した人だったので、本当のところはわからないが、見たものそのままを句に詠む人でなかったことは確かである。
 このように秋櫻子の作句方法は登四郎にそのまま引き継がれたと言ってよい。


続く>>