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参考図書室

蕪村絵画考―双幅「後赤壁賦・帰去来辞図」を読み直す―   紅 谷 愛

 序
与謝蕪村の俳諧に関する研究は数多くされており、現代では世の中の多くの人が俳人蕪村という風に彼を捉えているだろう。しかし彼は、画業を本職とし、それで生計を立てていた。私は、以前から江戸時代の文化に興味を持っており、与謝蕪村が絵師として活躍していたことを知ったとき、非常に驚いた。そして、彼の描く柔らかな人物描写に惹かれ、調べてみたいと思った。彼の作品は俳画と呼ばれるものが大変有名であるが、本稿では、彼の文人画に焦点を当てる。なぜなら、『近世文藝』九一で蕪村の「武陵桃源図」について、先行の芳賀徹氏の説を中心に検討を加えた〈安永十年与謝蕪村作「武陵桃源図」を読む〉と題した山形彩美氏の論文を読んだからである。この論文では、今まであまりされてこなかった、画と漢詩の両面から作品を解釈するという手法をとっている。その新しい解釈の仕方に、私は興味を持ち、違う作品ではどうなのであろうか、と疑問に思った。そこで、「武陵桃源図」と同じく、中国古典の画賛である「後赤壁賦・帰去来辞図」に的を絞り、論文のテーマとした。
  「後赤壁賦・帰去来辞図」は逸翁美術館に保存されているもので、その制作年月日等は『蕪村全集』にも記載されていない。しかし、その印から、蕪村作ということは間違いない。
さて、本稿は両幅に題された蘇東坡の詩・陶淵明の詩と蕪村の画との関連性を考えながら、「後赤壁賦・帰去来辞図」の読解を試みたものである。私はその画と漢詩の関係から右幅の杖を持った人物を蘇東坡、左幅の車に乗った人物を陶淵明と判断した。しかし絵に描くほど蕪村は蘇東坡と陶淵明のことを尊敬していたのかと疑問に思ったため、蘇東坡と陶淵明の生涯、さらに蕪村と蘇東坡・陶淵明の関係性について具体的な作品を取り上げながら調べた。そして、それらを踏まえて、本図の解釈を試みた。
また、本図は双幅ではなく、別々の作品だということを提言する。なぜなら、漢詩、絵どちらにも関連性が見られないからである。そして用紙の大きさが同じではないというところにも着目した。とにかく、漢詩と画を複合的に読み解くことができれば、より一層鑑賞を楽しむことができることは間違いないであろう。よって、それを力不足であるが試みたのが本稿である。


第一章 蘇東坡
   第一節 蘇東坡の生涯

宋の蘇軾(一〇三二―一一〇二)、字は子□、号は東坡居士、蘇東坡の名で人々に親しまれ、坡公・坡仙などと呼んで敬慕される。いわゆる唐宋八大家のうち三人までが蘇氏父子で、父の蘇洵を老蘇と呼び、弟の蘇轍を小蘇と呼ぶに対しては大蘇であり、弟を次公と呼べば兄は長公、そして死後、南宋の孝宗から贈られた諡で蘇文忠公と呼ばれることもある。
政治家、文学者、万能の芸術家、そして居士(禅信奉者)、それが蘇軾である。まず政界の巨頭としては欧陽脩を師として、旧法党(保守派)に属し、王安石らの新法党(改革派)に対抗した。黄州に五年、南海の地に、それも海を渡った海南島の三年を含む七年の、配所の生活に、その日の食物さえ自ら耕して得なければならない苦しみを嘗めたのも、この党争のためであった。しかし、彼の文学者、そして芸術家としての名は、政治家としてのそれをはるかに凌駕する。父および弟ともに唐宋八大家に数えられるのは、欧陽脩の提唱した古文復古の運動の陣営に参じ、行雲流水のごとく、行くべき所に行き、止まらざるべからざる所に止まる、と自らもいう軽快な達意の文を駆使した散文の実績によってである。蘇氏兄弟が受験した嘉祐二年(一〇五七)の科挙の試験は、欧陽脩が知貢挙(試験委員長)であった。そこで試験管の梅尭臣が推薦してきた一篇の作文を読んで欧陽脩はたいそう感心し、この答案を第一番に及第させようと思った。しかし、その余りの出来ばえから、この文は自分の門下の曾鞏のものではないかと疑い、第二位に置いたという。その文が蘇軾のものであったことは言うまでもない。こうして蘇軾は文壇からも官界からも欧陽脩の直系の弟子として認められるようになる。詩はまた地をも負い、海を盛涵るといわれるほどに各体に長じ、心が常に平静で、音律もそれにつれて調和している、と自らいう流動性をもつ名篇は、先輩の梅尭臣の高淡≠もってしても、まだ突き破りきれなかった壁を破って宋詩の新生面を開いた。詞(詩餘)においても豪放の趣をそなえる新しい境界を開いた。文人が書画を嗜むことは宋代以後の特色とされるが、蘇軾は特に書家としても高く評価され、南宋の乾道四年(一一六八)に四川省の成都で集刻された西楼帖も、一部は今に宋刻を伝える。また、『黄州寒食詩巻』のように、真跡が伝わるものさえある。楷書は唐の顔真卿を学んで雄渾な筆致を見せ、行草には暢達な風格がる。画では文同と並ぶ水墨画の名手として知られ、ことに「東坡竹石図」のように、竹を描いては名品と称せられる。題画の詩は杜甫に始まるが蘇軾に題画の詩が多く、題画詩の中に優れた作があるのも、単に杜甫の体に学んだだけではなかったからであろう。茶道の上にも深い嗜みを持ち、蘇軾の思想の遍歴、特にその禅において到達した境地に至っては、決して軽々に語ることは許されない。
このように多才な蘇軾が生まれ、生きた時代は、北宋の最も華やかな時代である。石炭の普及、印刷技術も木版印刷へと発達普及し、北宋国家の華やかで、なにより平和な時代に蘇軾は生きたのである。
    吾が家は 蜀江の邊
    江水は 緑なること藍の如し
  宋の仁宗の景祐三年(一〇三六)十二月十九日、四川省眉山県の紗穀行にあった蘇家に蘇軾は生まれた。眉山県は起伏に富む四川盆地に、蜀江、つまり眉山山脈の水が流れ出てきた岷江の川岸に沿う街である。暖かく、水利、自然の気候環境に恵まれている上、蜀の桟道を通って古くから陝西省との交渉があって、成都付近の扇状地などは二〇〇〇年の昔に用水路が作られ水田が開かれていたという。山間ではあるが、豊かな物資に恵まれて独立した文化圏を形成していた土地である。
  蘇家の系譜は唐の蘇味道まで遡るという。蘇味道は唐の欒城県の人、則天武后の朝に宰相にまでなったが、ことなかれ主義で功はなく、後に罪に坐して眉州の刺史に謫されてこの地に死んだ人である。蘇家のあった紗穀行の行とは同業者の集まりをいう言葉であり、紗穀とは絹であるから、綿の産地として名高い成都にも近く、そこは織物業者の街であったろう。しかし蘇気もまた織物の売買を営んでいたと断定できる材料はない。むしろ後年の蘇軾の詩からみると、より多く士への親しみをもつものを、感じることができる。「呉中田婦の歎」(※1)「雨中天竺霊観音院に遊ぶ」(※2)にみられるように、彼の詩に描かれる農民の姿などは、単なる傍観者の位置からでは描ききれるものではなく、その生活・労働の中に没入した親しみがこもっている。薬草の知識が豊富ことや、晩年、北回帰線を越えた恵州や、海南島は儋子の、瘴癘の地の生活を無事に生き抜いたことから、その幼時の環境が織物などはむしろ程遠いもので、もっと大地の泥にまみれて鍛えられた底力があってのことかと思う。
  蘇軾には景先という兄があったが、蘇軾が三歳のときに没したため、三つ年少の弟、轍と二人兄弟となり、この二人は終始変わらぬ美しい兄弟愛に生きる。次に姉妹である。これは女性についての記録を家譜にもほとんど残さない中国の習慣の犠牲になって分かりにくいところが多いが、蘇軾の場合二人の妹があって、一人は柳子玉(名は瑾)の子の仲遠に嫁ぎ、もう一人は表兄の程正輔(名は之才)に嫁いでいる。父の洵は蘇軾が生まれた年二八歳であったが、その頃から発憤して本格的に学問をはじめ、粗食が十歳になった慶暦五年(一〇四五)から三年ほど、官游という官史生活の見習いの遊行に出掛けた。よって蘇軾の幼少時の薫育ほとんど母の程氏によったと考えてよい。県の名門程氏から迎えられた蘇洵の妻は教養があり、夫の留守中には子どもに書物を教えている。しかしそれよりも注意したいことは、この母が篤く仏教を信仰していた心根の優しい婦人であったことである。後年の蘇軾が、知事となっては常に心から吏民の幸福をはかり、転任の時には馬の鞍をはずして引き止められるほど吏民に慕われること、また遠い謫貶の地に在ってはいよいよ花や鳥に愛情を集注して刻明な描写を残すこと、そこに私たちはこの子を育んだ母の愛が、その子にどこまでも困難と戦い生き抜く力を与えるとともに、その子を通してひろく人々の上にあたたかい光となって降り注ぐ様を見ることが出来る。後に天子が親しく行われる試験に及第するが、まもなく郷里に残してきた母が亡くなったという報せで、父子みな蜀の故郷へ帰って喪に服した。喪があけて、再び都を目指しての船旅から蘇軾の詩は始まる。
再度、都に上ったのは二十四歳、そして二十六歳で鳳翔府簽判となって陜西省鳳翔府に赴任したのが官吏生活の始まりで、杭州通判、密州の知事、徐州の知事を歴任して、湖州の知事となってまもなく、これまでに作った詩で朝廷をそしっているものがあるという罪で、投獄された。四十四歳のときである。覚悟した死刑を免れて流されたのは湖北省の黄州であった。黄州五年の生活に彼の詩藻はいよいよ清み、かの「前後赤壁賦」をはじめ珠玉の名篇を残す。罪を許されて都に帰ったのは五十歳、中書舎人・翰林学士知制そして天子の侍読でもあった。しかし自ら乞うて再び杭州の知事となり、潁州・揚州・定州と知事を歴任したが、険悪な党争の繰り返される中央では、彼が先に翰林学で天子の制命を掌り、しばしば朝廷を誹謗していると上書きするものがあって、あらゆる官職を剥奪して広東省の恵州に、さらに海南島の儋に流される。南海に足掛け七年の生活を送った六十五歳の春に哲宗の死とともに政界が一時的な変化を起こし、許されて海を渡り、大庾嶺を超えて中原の地に帰り、常州で亡くなった。六十六歳、建中靖国元年(一一〇一)の七月二十八日であった。

※1
呉中田婦歎  呉中田婦の歎
  今年 粳稻 熟苦遲  今年 粳稻 熟すること苦だ遲し
  庶見 霜風 來幾時  霜風を見るに庶からんか 來るは幾時ぞ
  霜風 來時 雨如瀉  霜風 來る時は 雨 瀉が如し
  把頭 出菌 鐮生衣  把頭 菌を出し 鐮は衣を生ず
  眼枯 涙盡 雨不盡  眼枯れ 涙盡きて 雨は盡きず
  忍見 黄穂 臥泥  見るに忍びんや 黄穂の 泥に臥するを
  芽苫 一月 隴上宿  芽苫 一月 隴上に宿す
  天晴 穫稻 隨車歸  天晴れ 稻を穫り 車に隨って歸る
  汗流 肩赬 載入市  汗流れ 肩赬く 載せて市に入る
  價賤 乞與 如糠粞  價賤く 乞與すること 糠粞の如し
  賣牛 納税 拆屋炊  牛を賣り 税を納れ 屋を拆いて炊ぐ
  慮淺 不及 明年飢  慮は淺くして 明年の飢えに及ばず
  官今 要銭 不要米  官は今 銭を要して 米を要せず
  西北 萬里 招羌兒  西北 萬里 羌兒を招く
  龔黄 滿朝 人更苦  龔黄 朝に滿ちて 人更に苦しむ
  不如 却作 河伯婦  如かず 却って河伯の婦と作らんには

 今年はうるち米の熟するのがひどく遅れている。そろそろ霜がおり、風の吹く季節、それがいつやってくるかと、ひやひやしていた。いよいよ来たなと思った時、今度はどしゃ降りの雨。把の頭にはきのこが生え、鎌の刃には銹がついてしまい、泣けて涙が出尽くし、眼の中はからからに乾いても、雨のほうはいっこう尽きそうにない。黄色く色づいた稲穂が泥の中にたおれ伏してゆくさまは、とても見てはいられるものではない。茅で編んだ苫の仮小屋を建て、もうひと月も田のあぜにとまりこみ、晴れ間を見ては稲を刈りとり、車のあとおしをして帰って来た。汗は流れ肩は赤く腫れあがっている。その肩に収穫を載せて市場に運びこんだのに、値は下がっていて、糠か砕け米かのように、くれてやるに等しかった。牛を売って税金を納め、屋根をはがして炊事する。浅はかな私たちの思慮では、来年の飢のことまで考えてはいられない。おかみではいま、銭を出せとおっしゃって、米はおもとめにならない。なんでも万里のかなたタングート族の侵入が警戒されているとか。朝廷には漢の龔水や黄覇のようなりっぱな臣下がいっぱいおいでなさるというのに、わたしら人民の苦しみはいっこうに救われない。これくらいなら、いっそ黄河の神様のお嫁さんにしてもらったほうがましでござる。

※2
   雨中遊天竺靈観音院  雨中天竺霊観音院に遊ぶ
  蠺欲老  麥半黄   蠺老いんと欲し 麥半ば黄ばみたり
  前山 後山 雨浪浪  前山 後山 雨浪々たり
  農夫 輟耒 女癈篋  農夫は耒を輟め 女は篋を癈す
  白衣 僊人 在高堂  白衣の僊人 高堂に在り

蚕は繭をつくりはじめ、麦は半ば黄ばんでいる。前の山にも後ろの山にも、ザアーという雨おと。男は鋤く手をとめ、女は思わずかごを手放す。〔びしょぬれの農夫たち〕白衣をまとった仙人さまは、りっぱなお堂の中でそしらぬお顔。