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参考資料室
杉浦明平「『薄っぺらな城壁』をめぐって」を読む
伊藤 無迅

本資料は、2016年9月10日に実施した掲題名の「論文を読む会」の資料です。
本論中に表記のある「テキスト」は本コーナーには登録していません、ご興味のある方は以下を参照ください。
 ・文芸読本『正岡子規』(河出書房新社、昭和58年3月11日)
  に収載された杉浦明平「『薄っぺらな城壁』をめぐって」

  ◆ はじめに
 このところの「論文を読む会」で正岡子規に関する調査・研究の発表が相次いでなされた。私は予てから子規の文学革新の激しさはどこからくるものか不思議であった。子規の著作や子規研究書を読んでも、いまひとつ納得できなかった。しかし杉浦のこの小論を読み、子規が筋金入りの文学革新者であったことが分かった。本論は*で区切られた八節からなる。杉浦の文は文体や漢字に新旧のものが入り交じり、かなり読みにくい。このため例によって箇条書きの要約を試みた。
 凡例として、冒頭の「・」は本論の箇条書要約、「*」は発表者注、「◎」は発表者による節の総括となる、なお傍線は発表者による。

  ◆「歌よみに与うる書」掲載までの経緯 《第一節のまとめ》
・子規の「六たび歌よみに与うる書」のある一文は子規の数多ある文章の中で最も有名で、数多く引用されてきた。実際、読むと感動的でさえある。 →(テキスト@参照)
・この文には子規の改革への情熱がたぎっている。子規は短歌革新にあたり悲壮な覚悟を持っていた。→(テキストA参照)
・つまり子規が目指す短歌革新は、「日本」新聞の社外のみならず、社内にも反発者が出ることが予想された。
・子規は短歌革新に際して、すでに与謝野鉄幹が着手(新詩社)していたが、それとは全く異質な改革になることを最初から予想していた。
鉄幹の世界が、完全に政治から遊離された星と菫の世界であるなら、子規の世界は当時の国民主義運動の中に、その文学と文学論との支えを見出していた。
・俳句の改革は比較的容易だった。理由は、改革の敵は広く根深く庶民の間に巣食っていたが、何も権力的バックをもたない市井の宗匠であったからだ。(もっとも宗匠性は子規の月並排撃で一旦は屈服したが、その後、絶えず扮装新たに再生産されている)
・これに対し和歌(短歌)は伝統的に古い権力、とりわけ天皇家と伝説的に結び付き、中でも景園派は明治に入り旧堂上華族と合体し宮中御歌所なるものに巣食っていた。つまり天皇制と重なることで御歌所は直接の攻撃を避けてきた。
・俳句改革に比し、短歌改革は多かれ少なかれ旧い権威に抵触せざるをえない運命にあった。
・故に新聞「日本」に「歌よみに与うる書」を発表するまで数年の曲折があった。子規は、まさに「死を決してやる所存」で臨んだ。

◎子規の文学論には、新聞「日本」、つまり政治思想団体である国民主義派(通称「日本」派)という居場所があった。

  ◆ 子規が在籍した「日本」新聞社とは 《第二節のまとめ》
・新聞「日本」は、明治二十年代に現れた福本日南、杉浦重剛、三宅雪嶺、志賀重昴等の伝統的国民主義者の機関紙(プロパガンダ紙)であった。
・ブルジョア民主主義革命の綱要をもつ自由民権運動が政府の弾圧と買収工作で敗退した後、鹿鳴館時代と呼ばれる屈辱的な官僚的欧化主義が生まれた。これに対抗するため、没落士族地主を基盤にした平田篤胤系の神国思想や、青山半蔵等の抱懐していた極右反動の超日本主義、通称「高天原派」が台頭した。
・この対立する二グループの間に、「修繕者」として「日本」派(国民主義派)が出てきた。
・「日本」派の最も憂えていることは、日本の近代化が立ち遅れ、西洋列強の植民地化の危機が目前に迫っていることであった。
・また「日本」派は主に資金調達面から、近衛篤麿、谷干城、三浦梧楼等の維新のどさくさで一旦は政権の一端にかじりついたが見事撥ね退けられた反ブルジョア派地主的改革派の一団とも繋がっていた。
・例えば谷干城(当時貴族院)は、官僚と三井三菱等財閥の癒着が政治腐敗を招き人民へ苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を引き起こしていると攻撃した。しかし本心は地主的利害に基づくものであった。
・このため「日本」派は、ややもすれば、地主擁護的(子規に即していえば農村性)色彩の濃い国粋主義に傾斜しがちだった、
・この農村性は、子規に関して言えば、都会(江戸時代の町人文化、子規はそれを腐敗と見ていた)批判につながり、地主的な框を超えて十七、八世紀に欧州で起こった国民文学への展望という自分の文学運動のあと付け理論に繋げている。→(テキストB参照)
・新聞「日本」が、しばしば発禁を食らったのも右(地主擁護的色彩の濃い国粋主義的主張)の攻撃が激烈であったことで、特に国分青崖の漢詩時評が熾烈を極めていた。
・陸羯南(「日本」新聞社社長)の初期の論策『近時政論考』(明治二十三年)には、

・国民の富と独立自由の人民がない国は、外国に向かって独立自由ではありえない。
・国内で専制政治、財閥擁護、人民搾取が公然と行われていては後進国日本の真の独立は達成せず、欧米諸国と平等な条約締結はありえない。

を掲げ、内において国民の統一を固くし、外へは国権独立を守り進んでその拡張を期すべきであると主張している。
・また羯南によれば、日本は明治まで真の国民統一はなかった。明治維新で王政復古がなり、封建専制から国民は解放され特権主義から平等主義に入る道を開いた。この自由は国民の能力を進歩させ、平等は国家平安を保ち、国民の志望を満たすに必要と説く。
・一方において、自由平等は国権拡張の手段で、国家をまとめ引き締めるため専制は必ずしも不要ではなく、むしろ天皇の大権こそ強化されるべきという(井上清『天皇制』より)。
・右の矛盾はブルジュア民主主義革命の見通しを伴わない愛国主義の必然的特性に他ならない。
・その結果、羯南および新聞「日本」は次第に国粋主義的傾向を深め、日清戦争が始まると自由独立は捨てて、もっぱら領土拡張政策侵略政策に喝采を送り始める。(子規も進んで従軍する)
*〈発表者注〉→私は長い間、子規のこの従軍行動と俳句革新の関係がどう結びつくのか疑問だった。碧悟桐の子規回想録や松井利彦の子規解説本を読んでも、いま一つ納得いかなかったが、本論で納得した。

◎明治二十年代の日本は、国際的に現代と比較にならないほど緊迫していた。日清戦争(明治二十七、二十八年)に勝利したが、ロシア南下の脅威はさらに高まるという緊迫した時代背景があった。

  ◆「日本」新聞社と子規の関係(その1)《第三節のまとめ》
・子規は明治二十五年「日本」に入社した。
・陸が子規を招いたのは単に個人的関係(子規の叔父加藤恒忠の依頼)からではない。「日本」派的運動強化の必要性があり、子規が文学政策の担当者として適格者だったからである。→ (テキストC参照)
・子規はこの国粋的国民主義者達の要望に十二分に応えた。それまでその任にあった小中村(義象)や落合(直文)等の国文学者(両者とも日本新聞社の嘱託)は、雅文は書けても国民の呼吸を芸術的に再現する能力はなかったからである。
・その点、子規は少年時代には母方の漢学者から漢学を学び、青年時代には矢野龍渓の政治小説や『書生気質』、『浮雲』など近代小説の萌え出る勢いに魅せられて友人たちと「毎日のごとく必ず会合して文学の事などを話し合」い、盛んに「西洋小説の研究など」(中川四明、藤井紫影の追憶、『子規言行録』から)の経験をしていた。
・このように子規は新旧文学の洗礼を受けたのち庶民文学たる俳句に傾倒したのである。
・さらに「日本」派にとり、文学革新は伝統的な詩形をもつ俳句・短歌でやりたかった。→ (テキストD参照)
・つまり、子規の資質と「日本」派の要求(方向)は、ドンピシャと合致していたのである。
*〈発表者注〉「日本」派とは、元々が政治団体「国民主義派」への呼称で、その機関紙である新聞「日本」から命名された。その後子規が同紙上で俳句革新を主導したため俳諧旧派に対し便宜的に「日本」派と呼ばれた。つまり「日本」派は、政治思想面と俳諧革新面の双方で使われた呼称である。
・さらに、子規は「日本」派に歓迎される重要な、もう一つの資質があった。それは子規のもつ階級性で「日本」派の人々と合致していた。
・この階級性(解体された旧武士団、士族不平派)は、子規を知るうえで重要である。本論では次の三点が上げられている。
 @ 子規はあくまで不平士族派たるの域を脱しえなかった。
 A 町人への差別観念を失っていない。
 B 上京後も旧藩主への礼を守っていた。
この武士気質こそ三浦雪嶺、杉浦重剛等の国民主義派の主要メンバーや論客と基盤を一にするもので、そのまま通じ合える要素だった。
・さらに子規は元来、政治に強い関心を示す性格を有していたようである。→ (テキストE参照)
・また日本派の主張は往々にして反動的で野党的であった。子規の偶像破壊もその中(国民主義派)で行われた。彼の眼に権威はありえなかった。権威と戦うことが彼の全生命であった。だから当時のアカデミズムの本山「帝国文学」から受けた子規批判は、子規にとり名誉以外の何物でもなかったのである。→ (テキストF参照)

◎一般的に子規は叔父加藤恒忠と陸の関係で「日本」新聞社に縁故入社したとの印象が強い。しかし実態は陸が子規の資質を充分評価した上入社させた。また子規も「日本」派(国民主義派)の政治的思想に共鳴し行動していた。つまり立派な国民主義者の一員であった。

  ◆ 「日本」新聞社と子規の関係(その2)《第四節のまとめ》
・以上、陸羯南にとり子規採用は見込み違いでなかったことを述べた。つまり子規は、立派な「日本」派の文学的イデオローグだった。
・その点をもっとも鋭く示しているのは子規の文体に他ならない。
・明治二十年代は言葉の革命が進行していたことを我々は知っている。
・近代国民国家たるには、数多の方言から一つの国語の創出が必要で、その創出は本来国民が行うものであった。しかし日本は明治政府から標準語として押し付けられるという悲しむべき実態があった。
・文学においては、何とか国民側でと、言文一致運動が起った。とりわけ小説では、近代的リアリズムが口語体を強力に要求していた。
・しかし、ジャーナリズムや、その他一般には未だ言文一致=口語体は採用されておらず和文脈と欧文直訳体が全てであった。
・その中で「日本」派の文体は斬新で、後に漢文崩しのそれから、今日の口語的発想法に移る過渡的役割を務めたと評価されるほどであった(長谷川如是閑『ある心の自叙伝』による)。
・漢語を多く混えた文語体から作り出された簡潔、直截かつ雄勁(ゆうけい)な子規の文体は、まさしくこの「日本」派系文章のもっとも高い精錬された姿にほかならなかったのである。
*発表者注 → 文体改革に関する子規の功績は、俳句・和歌革新と並ぶ大きな功績である。むしろ文体改革面を大きく評価する説もある。
→ (テキストG参照)

◎子規は「日本」派の文学的イデオローグとして俳句・短歌革新のほかに、小中村や落合では不可能であった文体改革の能力をも有していた。思うにこの文体革新能力は、他の新聞より読み易いという点で新聞「日本」の購買数拡大に大いに貢献したのではないかと思われる。
このような子規の貢献を知ると、出勤せずとも病床で十分に仕事が出来たことが頷ける。またこの子規の資質は余人に代えがたいことから、出社せずとも子規の社内での存在価値は失われなかったこと、自分の仕事に自信と誇りを持っていたことが分かる。そのような自意識の表れの一つが、生前に自分の墓碑に月給の金額を記した行為かとも思われる。

  ◆ 明治二十年代という時代 《第五節のまとめ》
・「日本」派にすれば、日本の軍備は満足できるものではなく、まだまだ薄っぺらなものと考えていた。
・国威を外に示すには強力な国民国家をつくり不平等条約を廃棄し、欧米列強に伍して東亜の弱小国を征服し植民地化することにある。それには、可及的速やかに日本を近代化し近代的軍備で武装することが不可欠な前提条件であると考えていた。
・槍剣弓矢と大和魂だけでは、列強の植民地化に対抗できない。だから万止むを得ず(実際止むを得なかった)、外国から最新鋭の近代兵器を出来合いの形で買い入れて日本を強化せねばならなかった。
・この点で「日本」派は明治政府と一致していた、むしろ一層激越であった。そのためしばしば新聞「日本」は発禁の憂き目に見舞われる。
・しかし、その急激な輸入軍備が大清帝国を打ち破り、領土と賞金を強奪するのを眺めて、彼らは国民の独立自由を忘却して、もっぱら軍備強化のみを礼賛し、一層の軍国化を声高に叫び始めたのである。
・親友の漱石も根底は子規=「日本」派につながるものがあった。子規亡き後、明治天皇崩御のとき述べた「批評家の立場」の文中に、そのことが読み取れる。→ (テキストH参照)
・子規は国粋派のこだわる日本的なもの、すなわち古代的中世的な残存物が西洋近代文明の前でいかに脆いものであるかを、はっきり知っていた。日本の国歌(和歌)が西洋文学の前に、いかに文学的に無価値であるかを「歌よみに与うる書」で情熱的に力説するのである。
→ (テキストI参照) →なお国歌の何が問題かは後節で説明。
・この伝統文学への攻撃は「日本」内部でも物議を醸した。「日本」派的な和魂洋才の根底を覆される危険性があったからである。
・しかし陸羯南達は結局子規の国歌攻撃を許した。理由はそれが新しい酒を盛る新しい革袋ではなくて、古い革袋であったからである。古い革袋には新しい酒を注いても酒は古い味に変わってしまうだろう。
・実際、子規の念頭も、勅撰集ごとき古いガラクタを掃除してその後に健康な伝統に基づいて短歌形態を再強化し、それに国民的抒情を托しようとすること以外ではなかった。新しいジャンルの創造ではなくて国粋の維持というわけである。
・そのためには西洋思想や外国語の輸入をも恐れてはならぬ、否、それのみが古い伝統的詩形に回生の輸血をすることになるだろう。その輸血を避けるものは滅びなければならない。

◎これらの「日本」派内部の議論は「西洋」の輸入を物質面だけでなく精神面も併せて輸入しなければ片手落ちになり、西洋に伍して行けないという考え方に基づくもので、「和魂洋才」や伝統破壊との調和を勘案したギリギリの決断だったと思われる。当時の明治政府の方針である富国強兵、国権拡張を実現するため大胆に西欧文化を採り入れる方向に沿ったもので「日本」派なりの具体的な行動であった。

  ◆ 近代資本主義精神の体現者たらんとした子規 《第六節のまとめ》
・子規が輸入しようとした西洋とは単に洋語だけでなく、もっとふかいもので、かつ具体的なものでなければならなかった。
・福沢諭吉の「西洋事情」は寒村僻地にまで行き渡っていたが、近代化一般云々よりも、まず西洋の機械用具が要求された。具体的な物は、物と共にその物を作った精神をも日本人の心に招来させるからだ。
・子規は典型的な明治二十年代の日本人であった。つまり「西洋(当時最も進んだ文化)」の輸入と消化により次の世代が国民的な文学を創造出来るようにバトンを手渡すという歴史的な役割を担っていた。それを果たすには、思い切り大胆に西洋を持ち込む必要があった(それが明治二十年代明治人の使命であった)。
・もはや一刻の猶予もない、超スピードで欧米に追いつかねばならなかった。外国製の軍艦と大砲で清帝国を破った事実は、この大胆な「西洋」輸入の正しさを裏付けた。
・同様にこの勝利は、物質面に次いで精神面の「西洋」輸入に力を注ごうとした子規たちに勇気を与えた。それは一面、日本人の文化的能力への信頼でもあった。→ (テキストJ参照)
・急激な外来文化の採用は必然的に軋轢を伴うが、これ以外の方法では歴史的な役割は担えないということである。
・子規の「西洋」の内容は様々な段階をもっている。その根底にはロンドン留学中の漱石宛手紙にもあるような強い泰西文化への憧れがあった。
・その興味は蓄音機や活動写真など文明器具に関する子供じみた好奇心からはじまり、最後は近代市民精神への強い共感までに及んでいる。
・蝋管製レコードでラフィング・ソングを聞かされた時の驚きと喜び(ざれ歌を作詞してこれに合わせ歌い笑いこげている)。
・立体眼鏡を贈られると「人は子供だましというかもしれぬが、自分はこれを覗くのが嬉しくて嬉しくて堪らないのである」(『墨汁一滴』)と記している。そこには玩具ではあるが、子規の文学がつねに目指している真実の再現が感じられるからであったろう。
・そのような子規の姿に、チマブエやジオットのリアリスティックな『自然のまま』の絵画に歓喜したルネッサンス期早春の市民たちを連想しても見当外れではあるまい。従って子規が絵画に往々にして情熱的と見えるほどの関心をもったことも不思議ではない。この近代精神と視覚との関係については、すでに中野重治のすぐれた分析が『茂吉ノオト』にある。
・ともかく明治二十年代後半はスコラー的論議より創造、そのものずばりの作品を生産することが要求され始めていた。子規が「文学は文字に縁があるため時に無風流の議論をなす。議論は一時を快にすといえども退いて静かに思えば畢竟児戯のみ」というのも時代の空気であった。そして、そのその要求にもっとも叶う芸術ジャンルが視覚で対象を正確にとらえ再現する絵画であった。子規が「文学者とならんか、画工とならんか、我は画工を択ばん」という背景には時代の空気が濃厚にあったといえる。
・しかしその画とは西洋画であった。日本画に関心がないではなかったが、不折に啓蒙された子規は「空気充満し物々生動す」る洋画に自己の文学的理想と符号を認めたのである(「病床譫言」)。それゆえに「僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう」(「畫」)というときの絵はもちろん「色厚く絵具塗りたる油絵の空気ある絵を我は喜ぶ」という油画以外の何ものでもない。
・また靖国神社の庭園も西洋式を採用するのがいいと言い、舞踊もくにゃくにゃした日本の踊りに厭味を感じて西洋舞踊の輪郭明確で合理的な動きを推すというぐあいに子規は西洋芸術にひたすら傾いていた。
・そしてこれらの根底には近代化ブルジョア化への方向付けという時代の要望が貫いていたといっても過言ではない。たとえば、死が近づきつつあった病床でフランクリンの自叙伝を日課のように読み「日本にも之を読んだ人は多いであろうが、余の如く深く感じた人は恐らく他にあるまいと思う」(『病床六尺』)と言ったのは大きな意味がある。
・というのはベンジャミン・フランクリンこそ近代資本主義精神を体現した典型的な人物だったからである。誠実、時間に正確、勤勉、節制がこれほどまでに記された自伝は他にはないと思われるほどである。
・このような人間の類型は、マックス・ウェーバーによって近代資本主義精神の体現者と定義されている。その行動的特徴は、伝統様式に捉われない合理的で実践的な思考とそれに集中する能力、労働を義務とするひたむきな内向的態度、上記態度と結びついた賃金およびその額を計算せんとする厳密な経済的資質(今でいう原価意識あるいはコスト感覚か)、労働能力の異常な増大をもたらす冷静な自己抑制と節度などである。(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)
子規がそのままフランクリン的人間であるとは言えないが、大きな部分においては重なると言えるだろう。もっともこの時代は資本主義の幼年期にありフランクリンにしても子規にしても、その牧歌的生活を呼吸していたに過ぎない。世界的には並行して血みどろな原初的(資本の)蓄積が進んでいた。他方では未だ健康的な生産意欲に燃える進取的な独立自営農民が「労働の精神」、つまり合理主義、単純な生活、克己心などの美徳を失わない資本制社会の創設期育成期の現世的な気分の中にいた。ビール腹と禿鷹の口をもったブルジョアのイメージは後代に至ってからのものである。
・近代的資本主義精神の体現者足るべきであろうとした正岡子規のたゆみない労働の精神(勤労の精神)は五百木瓢亭著述や子規自身の著述からも多く読み取れる。 → (テキストK参照)
そのような子規の目指す近代的資本主義精神の不倶戴天の敵こそ封建時代の町人気質であったといってもよい。
・江戸町人の非生産性、それは宗匠俳諧に文学的堕落の形で現れている。近代日本の基礎構築に必須となる生産力の拡充を妨げる「通(つう)」や「粋(いき)」や「だじゃれ」に韜晦する封建庶民的しもたや根性を、また生活基盤から全く浮き上がった古代奴隷主的堂上華族の遊芸になり下がった和歌共々を叩き壊すのに子規は、あらゆる情熱を込めたのである。
江戸っ子根性は日本の国力増強の障碍以外の何でありえようか。→  (テキストL参照)
・子規のこの信条は、有名な「ご馳走を食え」という主張にも現れている。東洋流の粗衣粗食論は、西洋列強に数百年立ち遅れた日本を列強との競争場裡に登場させるには、あまりにも消極的な考えではないか。
・それは(粗衣粗食論)それで東洋固有の風雅かもしれないが、健全なる体躯と活発なる精神をもって、文学面あるいは宗教面など社会のあらゆる分野を積極的に発達させようする国家には、相応しくない理屈である。
・怠惰な精神や無精の原因を追究すると、つまりは身体の活動の鈍さが原因で、つまるところ栄養不足に起因している。故に活動的になりたければ、ご馳走を食うのが最良の策である。→以下 (テキストM参照)
・子規のこのようなブルジョア的合理主義精神は、子規の著書『仰臥漫録』や『墨汁一滴』などのいたるところで散見される。例えば墓地を「不生産的地所」とみなし制限を加えるべきとの持論を展開(「墓」)、墓碑や碑銘についても簡素かつ単純にすべきと述べている。
*因みに子規が生前書き残した碑銘は次の通り。
「正岡常規 又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人 伊予松山ニ生マレ東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス 母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ 明治三十□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十円」
私は未だ見ていないが現在、□も、そのままで墓碑銘に刻まれているとのことである。

◎恐らくこの節は、子規を理解する上でもっとも大事な内容が含まれているように思う。子規は日本国民をブルジョア的合理主義精神の持ち主に啓蒙しなければ日本国の将来はないと考えていたようで、その上で文学はどうあるべきかを考え、俳句と短歌の改革に着手したと思う。もちろんこれは陸羯南率いる「日本」派の考えに沿ったものでもあったと思う。

  ◆ 子規の文学革新のゼンマイ 《第七節のまとめ》
・以上のような生産力の拡充こそが国の基盤形成につながる重要な施策である。この基盤が外国の最新鋭軍艦や大砲の購入を可能にし、日本を防衛し、さらにアジア大陸への進出を可能にする。
・つまり「外国の髯づら共」の大砲にも地雷火にも、びくともせぬ国力が養成されるのである。
・しかし欧米に心酔しきっている明治政府は、この方策に耳を貸さず取って付けたような欧化政策を進めている。それでは到底右は達成出来ないというのが、「日本」派の批判するところであった。
・いたずらな外人崇拝は止めるべきである。しかし文学面でも外人崇拝は行き渡っていた。外国文学が日本文学より勝っている以上、嫉妬心と競争心をもち、憤然と彼らと競争しなければならない。だが、日本人は敢えて彼らと競争せず、いたずらに崇拝するのみで、西洋人を見るに人間以上の力を有する者のように見ている。日本文学を天下唯一と信じる国文学者の一派と、西洋文学こそ最上と崇拝する一派は、共に文学の発達を阻害するものである(「關l陂b」)。
・この子規の文章の行間を読むと、国民文学の確立を目指しているよりは、日露戦争に備え日本人の精神的な訓練に気を揉んでいる子規を見出す。ともあれ外国の文学、思想の積極的な輸入は決して日本文学の植民地化ないしは奴隷化を意味しない。逆にそれは植民地化を免れる唯一の方途だったのである。この施策の正しさは、ついこの間の日清戦争が証明したばかりである。
・西洋文明を作り上げた西洋近代思想文学の大量摂取なくして、どうして日本人は封建時代に持てなかった力強い健康で偉大な国民文学を生産し養育することができようか。
・日本伝来の有閑文学のみから組み立てられたヘラヘラのカルタの城の「薄っぺらな城壁」は打倒し一掃して、これに変わる堅牢にして破壊しがたい不動盤石の根を据えねばならない。それが子規を駆り立て戦争に従軍させた愛国主義の発露であった。それは文学における富国強兵策であり、あくまで「日本」派的国粋主義の線を外すものではない。
・それ故に羯南等は敢えて「歌よみに与うる書」の如き爆弾的な和歌攻撃を抑止することなく、その機関紙に掲載することを容認したのである。
子規の「西洋」とは、だいたい以上の内容をもち、彼の文学のゼンマイであった。

◎子規は文学者以前に、明治二十年代の没落士族が有していた気分(憂国)の中に居り、完璧に「日本」派の一員であったようだ。

  ◆ 子規と天皇制 《第八節のまとめ》
・子規は革新に行き過ぎと弊害は付きものと考えていた。しかし実際にはなかった。理由は子規を支持した層は「維新の大業」を成就した同じ田舎者(つまり地租引き下げや米価引き上げによって明治政権の恩沢に潤った地主富裕層)であった。そこは「日本」派的国粋主義の発生基盤であっても革命性は潜在していない。であるから子規の革新的情熱の火では爆発することはなかった。であるから伊藤佐千夫、長塚節のような田舎者が忍耐強く子規の残した文学を培い育てることができた。
・この子規たちの農村性(勤農層)は、西洋の近代性を生み出した独立自営の農民ではなく、半封建的土地所有とそれに伴う高率地代収取と癒着結合した不完全なものであった。つまり天皇制支持の経済的根拠をその身内に深く持っていた。子規の天長節祝賀や皇族哀悼の文章が自然に流れ出ているのはそれゆえに他ならない。
・杉浦はここで、明治天皇とピョートール大帝の比較を行い西洋と日本の近代化の徹底度の差を説明し、日本の近代化の生ぬるさを指摘している。→ (テキストN参照)
*杉浦が、本論を執筆した昭和二十九年は、杉浦が共産党員時代(昭和二十四年〜昭和三十七年)であり、日本の近代化や天皇制に関する偏見が相当程度あると見た方がよいと思われる。
・子規の封建制を帯びた天皇崇拝(杉浦はそう判断している)が、子規文学の文学的視野の狭さと弱さを生んだ。
・つまり、文明の利器に実用を見出したにも関わらず、それに美を見出せなかったのは、子規が述べた文学論と矛盾するところで、子規はこの問題を真剣に対応せず、ありきたりの約束済の美を配合することでごまかしてしまった。
・その理由を「近代文化の精粋というべき機械(利器)に対する文学的把握力の欠如は、この時代の科学の未発達と普及の弱さにも由るが、何よりも絶対主義天皇制に象徴される日本近代化の立ち遅れ」と見る。
・そして、子規は文学(とくに短歌俳句)を花鳥風月からより人間化そうとする志向をひそめながら、ついに完全な近代化に、従って国民的文学の創造にまで到達することができないでしまった。かれの内に天皇制の暗い翳が落ちていたからである。    (一九五四・二・二八)

◎この節は明らかに杉浦の偏りと飛躍が感じられる。杉浦の指摘する近代化立ち遅れと天皇制への考えは、当時の共産党の視点が色濃い、子規が果たした文学的な役割とその功績に直接の関係はないと思われる。〈了〉