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私の好きな芭蕉の手紙X(芭蕉と西鶴)
安居 正浩

一.はじめに
 芭蕉自身の感情が一番素直に表れている手紙は、元禄五年五月七日付の向井去来宛の書簡だと私は思う。その中にこんな一節がある。

    一、 団水こと、貴宅へ参り候よし、そのままになさるべく候。
      定めて是非の凡俗たるべく候。
(現代訳)
 団水(北条団水)というものが、あなたの家を訪ねたとのことですが、そのまま相手にしないでいいでしょう。どうせ理屈だけは得意な俗人でしょうから。

「北条団水とは」
江戸前期の俳人・浮世草子作者。京都で著名な俳諧点者の一人。井原西鶴の門人。西鶴の遺稿を編纂・刊行。著「団袋」などのほかに、浮世草子「昼夜用心記」「日本新永代蔵」など。1663〜1711(広辞苑)

 文面からみると少し前の手紙で、去来から芭蕉に北条団水が、自分の家に来たことを報告したようだ。それに対しての芭蕉の態度は「相手にするな。理屈だけ得意な俗人だろうから」とけんもほろろである。西鶴の一番弟子で京都俳壇ではかなり名をなしていた北条団水の訪問は、去来にとってそれなりのニュースであったはずである。なのに芭蕉は何故これほど冷たい回答をしたのか。芭蕉に団水の師匠である西鶴のことが頭をよぎることはなかったのか。芭蕉と西鶴はどんな関係にあったのだろうか。それぞれ弟子である宝井其角や北条団水のこともまじえて考えてみたい。

二.芭蕉と西鶴の接点

「井原西鶴とは」
江戸前期の浮世草子作者・俳人。本名平山藤五。大坂の人。西山宗因の門に入って談林風を学び、矢数俳諧で一昼夜2万3500句の記録を立て、オランダ西鶴と異名された。師の没後、浮世草子を作る。(中略)作「好色一代男」「好色一代女」「世間胸算用」、俳諧に「大句数」「西鶴大矢数」など。1642〜1693(広辞苑)

 芭蕉の生まれは一六四四年(寛永二十一年)、西鶴はその二年前の一六四二年(寛永十九年)生れ。死亡は芭蕉が一六九四年(元禄七年)で、西鶴はその一年前の一六九三年(元禄六年)とほとんど同時代を生きている。ただ有名になったのは西鶴が先であった。西鶴の俳諧での活躍は延宝期の一六七三年頃が頂点と見られ、芭蕉は天和期の一六八三年以降と考えられる。芭蕉が有名になったのは西鶴に遅れること約十年である。それを考えると芭蕉が西鶴をまず意識したと考えるべきであろう。

芭蕉が西鶴について触れた記述をまずを見てみよう。

@ 『去来抄 故実』に次のような文章がある。(一部抜粋)
先師曰く、世上、俳諧の文章を見るに、あるいは漢文を仮名に和らげ、あるいは和歌の文章に漢意を入れ、詞あしく賤しくいひなし、あるいは人情をいふとても、今日のさかしきくまぐままで探り求め、西鶴が浅ましく下れる姿あり。わが徒の文章は、慥に作意を立て、文字はたとひ漢意を借るとも、なだらかにいひつづけ、事は鄙俗の上に及ぶとも、懐かしくいひとるべし、となり
(現代訳)
 芭蕉先生が言うには、世間の俳諧の文章を読んでみると、あるものは漢文を仮名にしてわかりやすくし、あるものは和歌的な文章に漢文を入れ、文章が下手で洗練されていない言い方をし、あるものは人情について述べるとしても、今日のこざかしい人情をすみずみまで捜し求め、西鶴のようにみじめで落ちぶれた表現になった姿の文章があります。私たち蕉門の文章は、創作上の意図をはっきりし、文字はたとえ漢字・漢語を借りてもすらすらと言い続け、内容がいなか人や俗人の生活に及ぶとしても親しみがもてる表現をするべきです、とおっしゃいました。

 注目すべきは、西鶴のことを俳諧の文章との限定はあるが、「浅ましく下れる姿あり」と言っていることである。元禄五年五月七日付 芭蕉の「向井去来宛書簡」に、点取俳諧の点者を批判して「さてさて浅ましく成り下がり候」とある。芭蕉の点取俳諧嫌いは有名であり、ほぼ同じ言葉が使われていることは、西鶴への批判もかなり強いものであったと考えざるを得ない。

A 次に芭蕉から曲水に宛てた手紙を見る。

元禄五年三月二十三日付 曲翠宛書簡(一部抜粋・読みくだし文)
秋になり候はば貴辺などと、西鶴が胸算用いたずらになるなと願ふ事に候。
(現代訳)
秋になればあなたの元になどと思っておりますが、西鶴の『世間胸算用』の胸算用が無駄にならないようにと願うことです。

 胸算用という言葉を出すのに「西鶴の」を洒落てつけたもので、直接西鶴をどうこう言っているわけではないが、芭蕉が西鶴のことを意識していたことの証明にはなる。

一方西鶴が芭蕉に触れた記述は

@ 『西鶴名残の友』(巻三の四)で
又武州の桃青は、我宿を出て諸国を執行、笠に「世にふるはさらに宗祇のやどりかな」と書付、何心なく見えける。これ又世の人に沙汰にかまふにもあらず、只俳諧に思ひ入りて、心ざしふかし
(現代訳)
 また江戸の桃青(芭蕉)は、わが家を出て諸国を行脚し、笠に、「世にふるはさらに宗祇のやどりかな」と書きつけ、すべて無心のように見える。これもまた世間の人の評判などは気にかけず、ただ俳諧を一途に思い込む志は深い。

と、芭蕉の俳諧に打ち込む姿を褒めているように見える。

A また『俳諧秘蔵抄』(柿衛文庫)では
 芭蕉の
  辛崎の松は花より朧にて
の句について
 此句連歌也と西鶴が嘆じたるなれど桃青は全身俳諧なるものなりと其角が一言に閉口して答なし
の記述がある。
(現代訳)
 この句は俳諧ではなく、連歌であると西鶴がけなすと、其角は桃青(芭蕉)は全身俳諧である人だと反論して、西鶴は閉口して後を継げなかった
 というやりとりも記している。一旦芭蕉の句を発句ではないと批判したものの、其角の反論に特に反撃するようなこともなく、矛を納めている。

B また『西鶴名残の友(巻二の四)』で
 当流仕うまつる俳諧は、連歌を知らずして、皆推量の沙汰なれば、百韻に六十句は連歌の仕立といへり。これはあさましき事ぞかし。連俳の分ちなくては何を以て俳諧と申すべきや
(現代訳)
 今はやりで行っている俳諧は、連歌を知らないで皆推量でやってしまうので、百韻のうち六十句は連歌の仕立てになっていると言える。これは嘆かわしいことである。連歌と俳諧の違いがなければ、何をもって俳諧と言えるだろう
と蕉門批判とも思われる言葉を残しているが、直接芭蕉の名前が出ているわけではない。

 二人の対応は分かれている。俳諧の文章に限定されているとは言え、芭蕉がはっきり西鶴を批判しているのに対し、西鶴は芭蕉について真っ向から敵対せず大人の対応をしているように見える。私はここに早い段階で有名人となった西鶴の「ゆとり」を見る。

 ただここまでの資料で、二人の関係を結論づけるのはちょっと早計かもしれない。そこで芭蕉と団水・西鶴と其角、それぞれ相手の弟子とのつながりについても見てみたい。

三.芭蕉と北条団水の接点
芭蕉の団水への対応は前述した向井去来宛の手紙に見られるように、一刀両断に切り捨てており、団水への評価ははっきりしている。

 一方団水は芭蕉のことをどう考えていたか。

@ 元禄三年に団水が撰をした『俳諧秋津嶋』には
  ひとつ脱でうしろにおひぬ衣かへ  翁
がある。ここで団水は作者の芭蕉を「翁」として記している。

A また同じ団水の『特牛(こというし)』にも「俳隠逸の芭蕉翁あり(世俗を逃れ俳諧の世界に芭蕉翁がいる)」との記述が見える。

B 同じく団水の『俳諧くやみ草』の中の連句で、
   伊賀越や郷侍の春を得て   春澄
   芭蕉が風の徳を吹らん    団水
   うたかたの水は日夜に流れ行 千春
もあり、芭蕉の徳を慕っているのが見える。
 「翁」と尊称を使っていること、また慕っている句を見れば団水は間違いなく芭蕉に敬意をもっていたことになる。だからこそ去来の家も訪ねたのであろう。芭蕉の弟子の丈草とも交流があったようだから、蕉門に対しても親しみを感じていたに違いない。
それなのに面識がなかったであろう団水に、何故芭蕉は冷たい反応をしたのであろうか。
 その理由の一つとして京都俳壇を毛嫌いしていたことが考えられる。元禄三年の芭蕉の歳旦句「誰ひとの菰きてゐます花の春」に対し、京都の他流の俳人たちは、元旦に乞食の句は非常識だと非難した。芭蕉は徳在る人が身をやつして乞食の姿をしているのを詠んだのであって、京都にわかる俳人はいないのかと反発したことなどがあった。

 二つ目の理由として芭蕉の点取俳諧嫌いであることが挙げられる。西鶴も団水も押しも押されぬ点取俳諧の宗匠であった。

 三つ目の理由として団水が井原西鶴の一番弟子で有ることである。手紙だけを読むと、団水本人を嫌っているように見えるが、其の師匠の西鶴への気持ちも影響していた可能性が十分ある。

四.西鶴と宝井其角の接点

次に西鶴と其角の関係について見てみたい。
「宝井其角とは」
江戸前期の俳人。本姓、竹下(たけもと)。母方は 榎本。近江の人。江戸に来て蕉門に入り、派手な句風で、芭蕉の没後洒落風をおこし、江戸座を開く。蕉門の十哲の一。撰「虚栗」「花摘」「枯尾華」など。1661〜1707(広辞苑)

 其角と西鶴の出会いは一六八四年(貞享元年)の大矢数興行において、其角が後見をつとめた時であると思われる。

@ 其角自選の発句集である『五元集』には「住吉にて西鶴が矢数俳諧せし時に後見たのみければ」の詞書のもとに「驥の歩み二万句の蠅あふぎけり」と其角が詠んだと伝える。驥は一日千里を走るという駿馬をいうが、これは西鶴の才能を称えて言っている。句解は
「二万句興行の西鶴に寄ってくる蠅を邪魔にならぬようあおいだ」ということだろう。

そして、四年後の一六八八年(天保元年)十月に、其角は西鶴に再会して
  辛崎の松は花より朧にて
句について前述した連歌か俳諧かのやりとりがあったという。

A この時に其角は西鶴の自宅を訪ねているのだが、その様子を、西鶴は『西鶴名残の友(巻四の四)』で、次のように記している。

 我はひとり淋しく雀の小弓など取出して手慰みするに、竹の組戸たゝきて、亭坊〳〵 (ていぼ)とよぶ声関東めきたり。誰かと立出るにあんのごとく其角江戸よりのぼりたる旅すがたのかるく、年月の咄しの山、富士はふだん雪ながら、さらに又おもしろくなつて、露言・一昌・立志・挙白などの無事をたづねて嬉しく。一日語るうちに互いに俳諧の事どもいひ出さぬもしやれたる事ぞかし。
(現代訳)
 自分(西鶴)は独り淋しく玩具の小さい弓などを取り出して慰んでいた。すると、竹の組戸を叩いて、「ご主人、ご主人」と呼ぶ声がした。関東めいた訛があるので、誰だろうと出てみると、案のごとく江戸より旅姿も軽く、其角が上って来たのであった。長年の山と積る話をしたが、道中眺めた富士はいつも同じ雪の姿というが、さらに話が面白くなって、露言・一昌・立志・挙白などの無事を聞くのもうれしく、一日話している間に、お互いに俳諧のことなどは言い出さないのも気のきいたものである。

 西鶴らしいリズムの良い楽しげな文章である。二十歳前後離れている若い蕉門の俊英其角にいかに親しみを持っていたかが伝わってくる。この二人は、談林の師匠と芭蕉の弟子という関係を乗り越えた軽やかな付き合いが感じられる。

B また其角の『句兄弟』には
西鶴の「鯛は花は見ぬ里もありけふの月(鯛も桜の花も見られぬ里はあるでしょうが月はどこでも楽しめますよ)」を兄句として、其角の「鯛は花は江戸に生れてけふの月(鯛も桜の花もそして月までも江戸にいれば見られますよ)」を置いている。判詞には「末二年浮世の月を見過たり 鶴(人生五十年というが、さらに二年も名月を見ることが出来ました 西鶴)」と辞世の句を挙げて「折にふれては顔なつかし。今は故人の心に成ぬ(思い出すたび西鶴の顔がなつかしい。今は故人と心が一つになっている)」と述べている。ここでも其角が西鶴を慕っていた雰囲気がよくわかる。西鶴と其角との場合は、其角という人物そのものに西鶴が惚れこんでいたと言えるだろう。

五.終りに

 ここまでの資料をもとに四人の関係はどうであったのか。西鶴は蕉門の若手である其角に親しく接し、また一流の俳人として遇していた。其角も西鶴を兄のような感じで慕っていたように見える。一方芭蕉は西鶴の弟子団水を冷たく切り捨てた。だからと言って芭蕉が抱擁力のない人間だと考えるのは早計である。西鶴と芭蕉とは俳諧に対する考え方が基本的に違っていたのである。芭蕉は伝統的な和歌を上回るような俳諧を目指そうとする志を持っていた。数だけを競う西鶴の矢数俳諧や西鶴や団水が宗匠となっている点取俳諧などというものがどうしても許せなかったのである。また其角が西鶴と親しい関係にあったことは芭蕉の耳にも入っていたはずである。芭蕉と其角の師弟関係は最後までゆるぎなかったとはいえ、芭蕉は心穏やかではなかったはずである。どちらにしろ芭蕉が生涯、西鶴を意識していたことは間違いないだろう。

参考資料
『芭蕉・西鶴・近松の文学観』 尾形仂 
『松尾芭蕉(江戸人物読本)』 楠元六男編   
『芭蕉と芭蕉以前』 乾裕幸
『芭蕉書簡大成』今榮蔵
『全釈芭蕉書簡集』 田中善信
『芭蕉の手紙』 村松友次 
『芭蕉論叢―数珠と暦』 山本唯一
『芭蕉と西鶴』 廣末保 
『芭蕉と西鶴の文学―前近代の詩と俗』 乾裕幸  
『西鶴・芭蕉・近松―近世文学の生成空間』 森修
『西鶴・芭蕉・近松―作家的出発の状況』 浅野晃 
『西鶴と芭蕉・其角―連句の役割』 楠元六男
『芭蕉雜爼』 荻野清
『虚栗の時代〜芭蕉と其角と西鶴と』 飯島耕一
『西鶴名残の友の芭蕉評について』 塩村耕
『西鶴続つれ〳〵・西鶴名残の友』 麻生磯次・冨士昭雄
『西鶴と元禄の小説』 楠元六男
『西鶴事典』  江本裕他編 
『北条団水集 俳諧篇上・別巻』 野間光辰他編
『続近世俳人ノオト(北条団水)』 星野麥丘人     
『俳文学大辞典』 普及版 尾形仂他編  
  本稿作成にフェリス女学院大学藤江峰夫教授のオープンカレッジ講義を参考にさせていただきました。
(俳句雑誌『出航』第51号より転載)