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参考資料室
芭蕉とバナナ ―兄への手紙―
伊藤 無迅

 拝啓 未曾有の災害でした、未だ余震が続いていますが、その後家の方はどうですか。屋根瓦が落ち、塀の倒壊があったと聞きましたが、他は大丈夫でしたか。とにかく未だ余震が凄いので本格修復は、もう少し見合わせた方が良いかもしれない。新聞によると大震災後の余震は過去の記録では一年半ぐらい続くらしい。原発の方も、まだ予断を許さない状況だし、いつでも飛び出せる状態で準備しておいた方がいいと思うよ。
 こんなとき暢気な話をすべきじゃないと思うが、終始気を張りつめるのも疲れると思うから今回は、気分転換に罪の無い話をしたいと思う。

 さて、三月の旅行のとき、大津の義仲寺に行ったよね。その時、兄貴が「芭蕉はたしか、バナナの木だよな」と、誰に言うともなく呟いたのを覚えているかな。あのとき俺は一瞬ドキッとした。と言うのは数年前、ある友人から同じ質問を受けたからだ。しかしその時は答えられなかった。思えば俺は芭蕉を敬愛し、俳句を楽しんでいるにも拘らず、肝心の芭蕉という植物については、何も知らないことに気づき、そのうちに調べようとその時は思った。しかし、すっかり忘れていた。だから、あの時は悪いと思ったけど聞こえない振りをして、その場を離れた。
  ところで、前にも話したけど義仲寺は、俺の積年の想いが募ったところで、間違いなく今回の旅のクライ・マックスだった。その想いを叶えるため、少し大袈裟だけど、事前に義仲寺で行う幾つかのアクション・プランを立てていた。その一は、数ある石碑の中から三浦義一の碑文を探して撮影する事だった。三浦義一と言っても知らないと思うが、戦中・戦後を通じて日本の政・財界に隠然たる力を持っていた人で、ロッキード事件で有罪となったあの児玉誉志夫と並ぶ、知る人ぞ知る右翼の超大物だった人だ。偉そうに言っているが、俺もまったく知らなかった。実は、ある俳句の会で、お世話になっている人に、義仲寺に行くと話したら、親切にもその資料を送ってくれた。それによると、三浦義一は、戦後廃寺寸前であった義仲寺の再興に尽力したという、世間にはあまり知られていない事実があるとのこと。その功績を讃える碑文が、義仲寺の石碑群の中にあり、これを探し出し撮影する事が目的の一つだった。しかも、この碑文は碑の背面に刻んであるらしく、その撮影にはある程度の困難が予想されたていた。また他の碑についても、その位置関係を確認しながら撮影するという作業があった。また、あの頃は日没も早く俺は少々焦っていたのだ。
  しかし兄貴は、興味をもったら、がむしゃらに行動する妙な性癖があるので、正直俺には悪い予感があった。そこへちょうど、寺のパンフレット(俳聖「芭蕉」と義仲寺の関係を書いた説明資料)を参拝者に手渡すため、永井さん (名刺には義仲寺執事)が社務所から現れた。そして俺の予感は直ぐ現実となった。兄貴は早速、永井さんに歩み寄り、持ち前の大声で「芭蕉はバナナの木でしたか?」と、いきなり永井さんに質問を浴びせた。永井さんは、俳聖「芭蕉」への質問かと思いきや、「芭蕉はバナナか?」との質問に、虚を突かれ目を白黒させていた。そして、うろたえ気味で何か話しているのを、私は碑を撮影しながら見ていた。どうやら永井さんも私同様、この件について明確な答えは持っていなかったようだ。ひるむ永井さんを尻目に、兄貴は滔滔と「芭蕉はバナナの木である」という自説を展開しだした。遠くでこの様子を見ていた俺は、永井さんに申し訳ないと思いながらも、そのまま撮影を続けた。しかし本来なら俺が対応すべき問題を、永井さんに押しつけた格好となり、内心は忸怩たる思いで一杯だった。
  帰宅後、大震災の余波でこの一件は、また忘却していた。七月、久しぶりに東京都江東区の芭蕉記念会館で句会があり出席した。そのとき会館の入り口に立派な芭蕉が数株あるのに気がついた。<写真1> 

<写真1>


そして、義仲寺での、あの一件を、まざまざと想い出した。

 あらためて自宅周辺を見てみると、結構あちこちに芭蕉が生息していることに気がついた。なかでも旧川越街道沿いにある某不動産屋のものは、実に立派なもので、店舗の左右に大きな葉を広げていた。先日写真を撮ってきたが、その横には、「沖縄県石垣島の島バナナです」と書いた、この木(厳密には木ではなく多年草だけど)の出身地を示す立看板があった。<写真2>              
 バナナの木は不動産屋の店舗を挟むように二本あり、写真では分りにくいが、どうも左側<写真3>が右側<写真4>に比べ、約半分ぐらいの高さしかない。このため、低い方は石垣島のバナナではなく当地産のものではないか、という疑問が生じてきた。そこで店の人に聞いてみたところ、右側の丈の高い方は冬場の寒さ対策のため温室で囲ったが左は囲わなかった、とのこと。近づいてよく見ると双方の差は高さだけではなく、丈の高い方には大きな茶色の花が咲き、その元にはバナナの実らしきものが二段ほど房なりに付いていた。<写真5>しかし丈の低い方には、実はなく花さえ見当たらない。

<写真2> <写真3>
<写真4> <写真5>


 このケースから判断すると、背の低い方が日本の内地で見られる「芭蕉」と呼ばれるものではないかと思われた。たぶん冬場の寒冷期間が影響し背丈も低く、花も実もつけないように思われる。一方、右側のように温暖な地(この場合は冬場をビニールハウスで囲っただけだが)、例えば石垣島のようなところで育った「芭蕉」が、「バナナ」とも呼べそうである。(現に、この木の場合「石垣島の島バナナ」と看板に書かれているではないか)
 
  しかし植物学的にはどうなのか、
そこで「芭蕉」と「バナナ」を、インターネットで引いてみた。

■ 芭蕉;バショウ(芭蕉・学名:Musa basjoo)はバショウ科の多年草。
   □ 英名をジャパニーズ・バナナと言うが、中国が原産といわれている。
   □ 高さは2〜3mで更に1〜1.5m・幅50cm程の大きな葉をつける。
   □ 花や果実はバナナとよく似ている。
   □ 熱帯を中心に分布しているが耐寒性に富み、関東地方以南では露地植えも可能である。
   □ 主に観賞用として用いられる。花序は夏から秋にかけて形成される。
   □ 実がなることはあまりないがバナナ状になり、一見食べられそうに
      も見えるが食用には不適である。
   □ 琉球諸島では、昔から葉鞘の繊維で芭蕉布を織り、衣料などに利用していた。
     沖縄県では現在もバショウの繊維を利用した工芸品が作られている。
   □ 分類  目;ショウガ目 Zingiberales
         科;バショウ科 Musaceae
         属;バショウ属 Musa
         種;バショウ  Basjoo 
   □ 学名  Musa Basjoo
   □ 和名  芭蕉
   □ 英名  Japanese fiber banana
■ バナナ;バナナ(甘蕉、芭蕉実、学名;Musa spp. )は、バショウ科バショウ属のうち、
        果実を食用とする品種群の総称。また、その果実のこと。
        幾つかの原種から育種された多年草である。
   □ 2008年の全世界での年間生産量は9339万トン。アジアやラテナメリカの熱帯域で
     大規模に栽培されているほか、東アフリカや中央アフリカでは主食として小規模ながら
     広く栽培が行われている。
   □ 分類  目;ショウガ目 Zingiberales
      科;バショウ科 Musaceae
      属;バショウ属 Musa
   □ 学名  Musa spp.
   □ 和名  バナナ
   □ 英名  Banana
以上のこのことから、次のことが読み取れる。
   ◎ 我々が一般に「バナナ」と呼んでいるのは、果実が食べられるものの総称である。
   ◎ 我々が一般に「バナナ」と呼んでいるのは、分類上「属」の和名呼称である。
   ◎ これに対し「芭蕉」は、分類上「バショウ属」に属すが、その一ランク
      下の「種」と呼ばれるものの和名呼称である。
   ◎ 「芭蕉」の実は食用には「不適」とされている。
 このことから、命題「芭蕉はバナナの木である」は、微妙な判断が求められる事になる。すなわち、
   □ 分類学上、「芭蕉」はバナナ属に入っているが、さらにその下位分類である「種」の
     和名呼称である。
   □ しかし一般的な「バナナ」の定義「果実を食用とする品種群の総称」からは外れる。
と言えそうである。従って、前者で判断すれば「芭蕉はバナナである」と言えるが、後者であれば「芭蕉はバナナと呼べない」と言える。

 何だか、ややっこしくなってきたが、芭蕉の英語名 Japanese fiber banana が示すように、やはり「バナナ」で良いような気もする。だから兄貴の高説は正しいと言える。しかし、厳密にいうと正しくないとも言える。

 さて、俳聖「芭蕉」の方だけど、もともとは松尾桃青と名乗って、江戸で俳諧の宗匠をしていた。あるとき自分の職業が嫌になり、当時は江戸郊外であった深川に引っ越してしまった。その庵に弟子の何某が、当時では珍しい観葉植物「芭蕉」を持ってきて庭に植えた。桃青はこの芭蕉が大いに気に入り、その庵を「芭蕉庵」と名付け、自分の俳号も「芭蕉(ばせう)」と変えてしまった。

 ここで、俺の心情から言えば、兄貴には悪いが「芭蕉はバナナではない」と言いたい。

 何故なら、俳聖「松尾バナナ」では、俺にとって(たぶん日本俳壇にとっても)、「しまり」がないし、「けじめ」もつかないからだ。(笑)               

敬具 

<付記>
  上記は、2011年9月27日付の兄への手紙です。
  あの3.11の前日、念願の義仲寺に水戸在住の兄貴と訪問しました。翌日、若狭に向う車中で大震災を知りました。親戚・自宅との電話は全く不通で、その晩若狭の民宿で明かした不安な一夜は、生涯忘れられないものとなりました。