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鈴木真砂女小論 ―切れと平易と
堀口 希望

 鈴木真砂女が亡くなったのは平成十五年三月だから、すでに八年が過ぎた。というと、真砂女に私淑したとか、可愛がられたとかの関係があっての感慨のように受け取られるかもしれないが、そのようなことは全くない。真砂女の顔を見たのは一度だけ。彼女の営んでいた「卯波」という銀座一丁目の小料理屋のごく狭い座敷を借り、数名で歌仙を巻いたときだけである。そのときのにこやかなお顔を今でも思い出す。
  私は平成七年に読売文学賞をとった句集『都鳥』が好きであった。その頃の私は今と違い、「切れ」は俳句の絶対条件であると考えていたので、真砂女の切れのきちんとした俳句に惹かれていたのかと思う。『鈴木真砂女全句集』(平成十三年・角川書店。以下『全句集』という)も通読した。
  その後、「切れ」についての私の考えは大分変わったが、真砂女の俳句、特に『都鳥』は今もいいと思っている。
  今般、十年ぶりに『全句集』を再読し、昔のメモなども引っ張り出したりして、真砂女俳句について考えてみた。本稿はいわば私の備忘録である。

 俳句に限らず小説でも絵画でも、それが作品としてひとたび世に出れば、それは作者の個人事情から離れ、独立した一作品として鑑賞されるべきだろうと思う(異論もあろうが…)。真砂女については、巷間その恋愛関係が話題になり、小説に書かれたり、テレビなどでも取り上げられたが、本稿においてはそれらについては敢て触れず『全句集』の末尾にある略歴のみを最少の知識として参考にしたい。

 四十一歳(昭和二十二年)で久保田万太郎の「春燈」に初投句した真砂女が第一句集『生簀籠』を出版したのは四十九歳(昭和三十年)、第二句集『卯波』を出したのは五十五歳(昭和三十六年)であった。彼女の人生にとって、二十三歳(昭和四年)で結婚してからこの頃までが最も波瀾にとんだ時期だったのではないだろうか。夫の失踪、義兄(亡姉の夫)との再婚、家業の旅館の女将としての生活、大場白水郎主宰の「春蘭」のもとでの作句開始、海軍士官との生涯の恋、久保田万太郎の「春燈」への参加、旅館の消失、再建、夫側からの離縁宣告、小料理屋「卯波」の開店等々。
  その後は周知のように、小料理屋「卯波」は繁盛し、「春燈」のもとで俳人としての地歩を確立し、句集も『夏帯』(六十三歳)、『夕蛍』(七十歳)、『居待月』(八十歳)、『都鳥』(八十八歳)、『紫木蓮』(九二歳)と次々に出版している。その間、『夕蛍』で俳人協会賞を、『都鳥』で読売文学賞を、そしてまた『紫木蓮』で蛇笏賞を受賞している。羨ましい健康とエネルギーの持ち主だったと言わざるを得ない。

真砂女の『全句集』を通読してその特徴を記せば次のようになろうか。
一、テーマ別分類
  まず、句をテーマ別に分類してみよう。
    @ 女将としての句
  『生簀籠』では海辺の旅館の女将としての生活句が圧倒的に多いが、『卯波』以後はそれが銀座の小料理屋の女将としての生活句に変わるだけで、女将としての生活句は終始この俳人のペースである。そして、真砂女俳句の真骨頂はこの女将としての生活句の中にある。言い換えれば、佳句といえるものはこの中(と、次に触れる郷里安房鴨川の句)
に多く含まれるように思うのである。日常茶飯の実景や感慨を、あまり感情移入せず淡々と平易に詠んでいながら、生きることへのしみじみとした気持がおのずと滲み出ているのである。
   章魚うすくそぐ俎の余寒かな    (『生簀籠』)
   ゆく春や身に倖せの割烹着     (『卯波』)
   板前の仕事着白くしぐれけり    (同)
   晩涼や桶に泥鰌の浮き沈み     (『夏帯』)
   地玉子の殻のたしかさ風光る    (『居待月』)
   今生のいまが倖せ衣被       (『都鳥』)
   虎落笛客去りし身の置きどころ   (同)
   しぐるる夜客の一人に寂聴尼    (『紫木蓮』)
  『生簀籠』から『紫木蓮』まで四十三年経っているが、句だけ読めばとてもそうは思えない。
    A 安房鴨川の句
  郷里安房鴨川を詠んだ句が多いのも特徴の一つであろう。
五十一歳で郷里を離れてからは(というより、追い出されてからは)さすがに少なくなるが、それでも終生郷里を詠んでおり、佳句が多い。
   初凪やもののこほらぬ国に住み   (『生簀籠』)
   生簀籠波間に浮ける遅日かな    (同)
   あるときは船より高き卯波かな   (同)
   秋風や汐重りして生簀籠      (『夏帯』)
   春潮に逃げ足早き鮑ゐて      (『都鳥』)
   砂噛んで果つるほかなし秋の風   (同)
   安房上総鬼の逃げ場は闇の海    (『紫木蓮』)
   太平洋の波に乗りたる雛かな    (同)
    B 恋を詠んだ句
  三十一歳で妻ある海軍士官と恋仲になり、相手が病死するまで四十年間にわたって不安定な不倫の関係を続けた真砂女であるから、特に『卯波』に恋心を詠んだ句が多い。
   羅や人悲します恋をして      (『生簀籠』)
   落葉焚く悔いて返らぬことを悔い  (同)
   罪障のふかき寒紅濃かりけり    (同)
   男憎しされども恋し柳散る     (『卯波』)
   蛍火や女の道をふみはずし     (同)
   すみれ野に罪あるごとく来て二人  (同)
   冴返るすまじきものの中に恋    (『夏帯』)
   わが恋や秋風渡る中にあり     (同)
のごときである。「羅や」のような真砂女俳句を代表する佳句もあるが、概して甘く観念的で、俳句としては成功していないように私は思うが、いかがであろうか。恋のさなかに恋を詠むというのはむずかしいのであろう。
    C旅の句
  『生簀籠』『卯波』には旅行吟や吟行句の類は殆んどない。
『生簀籠』は昭和三十年の出版であるが、収録されているのは昭和二十二年から二十九年にかけての句であるから、旅行・吟行の時代ではなかったであろう。また、『卯波』は昭和三十六年出版で、昭和二十九年から三十五年にかけての句が収録されているが、この間に家業の旅館の全焼と再開、夫との離別(放逐)、小料理屋「卯波」の開店があるのだから、これも旅行・吟行どころではなかったに違いない。
  旅の句が多くなるのは第三句集『夏帯』からである。「卯波」の経営が軌道に乗り、恋人との関係もそれなりに落ち着き、「春燈」あるいは俳壇における地歩も固まってきたことの反映であろう。
   ゆく秋や宿の夜毎のきりたんぽ  (『夏帯』)
   祇王寺の細みち暮るる二日かな  (同)
   麦秋や湖へそゝげる細流れ    (同)
   猛り鵜にすでに秋立つ水なりけり (同)
   紙を漉く水音こそは秋の音    (『夕蛍』)
   一茶の墓物知り貌に梅雨の蝶   (『紫木蓮』)
  『紫木蓮』は真砂女八十八歳から九十二歳までの句であるが、この間だけでも彦根、京都、須賀川、松山、長良川、岡山、北九州、伊豆、伊香保、碓井峠と、それこそ席の温まる暇もなく句会や講演に出かけている。
    C 人事一般の句
  最後は上記以外の句である。日常の出来事や感慨、子供のこと、師である万太郎のこと、波郷や三鬼のことなど句材はまちまちである。
   子のきものたつぷり裁ちぬ柿若葉  (『生簀籠』)
   夜に入りて河匂ひ来る卯月かな   (『夏帯』)
   湯で割つてのむウィスキー西東忌  (『居待月』)
   今更に師は玲瓏の露の人      (『都鳥』)
   読初や陽をいつぱいに南縁     (同)
   野蒜掘るあしたのことは考へず   (『紫木蓮』)
   恋猫に刃傷沙汰のありにけり    (同)
以上、俳句のテーマ面から五分類してみたが、次に表現方法あるいは句風の面から見てみたい。
  二、句風・表現方法の特徴
    @『切れ』
  真砂女俳句の特徴の一つは、「切れ」がしっかりしており、
いかにも俳句らしい俳句になっていることである。
  かつて私はその「切れ」に魅せられていた。しかし「切れ」についての私の考えはその後大きく変化した。現在の考えについては俳句雑誌『沖』平成二十二年十月号に「現代俳句の切れについて」の題で掲載されているが、結論を一言で言えば次の二点である。
A 子規の俳句革新運動によって興った俳句は、それまでの発句ではない。季語を伴う五七五定型の詩である。したがって俳句は発句の絶対条件だった「切れ」に拘束される必要はない。
  B しかし、「切れ」は僅々十七字の俳句が詩たり得るためのすばらしい修辞法である。言葉の節約・省略・飛躍を可能にし、調子を整え余韻を醸す効果もある。
  私の現在の「切れ」についての考えを基にして真砂女の
俳句を読めば、「ここまで『切れ』に拘るか!」と思うこと
も事実である。しかし、きちんとした「切れ」こそが真砂女俳句なのである。
  真砂女俳句を読むと、「や」「かな」「けり」などの切字で
切れる句が多いことにまず驚く。一例を示すと
   短日やひくき波のむ高き波     〈『生簀籠』〉
   鳶の餌に波先迫る野分かな     (『卯波』)
   亀鳴くや月の半ばの金工面     (同)
   午後よりの風の柳となりにけり   (『夏帯』)
   白魚の身ごもりゐるがあはれかな  〈同〉
   船の灯に海老の目光る夜寒かな   〈同〉
   麨や胸三寸に籠る鬱        (『居待月』)
   魚おろすきつ先秋気集めけり    (『紫木蓮』)
等である。そして切字によらない場合でも、例えば
   鰤網を納屋にをさめて春惜しむ/  (『生簀籠』)
   朝降つて朝やみし雪/一の午    〈『都鳥』〉
忘れ傘客に又貸し/傘雨の忌    (『紫木蓮』)
のようにはっきり切れているのである。
  ちなみに第一句集『生簀籠』百六十八句のうち、「切れ」がない、あるいは甘いかなと私が思うのは次の二句のみであった。
   夏痩せの指の指環の赤き玉     (『生簀籠』)
   焚火して日向ぼこして漁師老い   (同)
  なお、第七句集の『紫木蓮』四百七十二句を見ても「切れ」が甘いと思われるものは次の他ほんの数句であった。
   針塚のうしろの山の深眠り     (『紫木蓮』)
   師の句碑は鬼灯市の薄闇に     〈同〉
   房総の山が吐きだす杉花粉     (同)
    A平易
  真砂女俳句の特徴として第二に挙げるべきは句意が平易明快であるということであろう。それはこれまでに私が掲げた例句を見ても分かるであろう。実際のところ『全句集』を通読しても難解な句は皆無なのである。女将としての正業、日常生活、安房鴨川の自然、旅行などを通しての感慨を、一句の中にあまり大盛りにせず、物に即し、頭で捏ねまわさず、素直に表現しているからかくも平易な句になるのではなかろうか。
  私はかねがね、最近の俳句界は新発見やうまい句を性急に追求するあまり、技巧的かつ難解になりすぎてしまっているように思うのであるが、真砂女の句は終始一貫平易であった。図書館の書棚を覗くと、今をときめく正木ゆう子などと並んで真砂女の句集が結構揃っているのも、私のような素人作句者や純粋読者に真砂女のファンが多い所為かなと思う。それはこの平易さと無関係ではないのではなかろうか。
   B句風の一貫性
  第三の特徴は、第一句集から第七句集に至るまで句風にドラスティックな変化がないということであろう。ときに恋の句が多く、ときに旅行句が多く、また入院のときはそのような句が多いということはあるが、詠みぶりはほとんど変わっていない。先に述べたように第一句集『生簀籠』から第七句集『紫木蓮』までに四十三年経っているのであるが、句だけ読めばとてもそんな長い年月が経っているとは思えない。たとえば『生簀籠』の冒頭の句
    初凪やもののこほらぬ国に住み
の次に『紫木蓮』の
    鯊釣りに女も交じる小春かな
を置いても少しも違和感がないし、『生簀籠』の
    章魚うすくそぐ俎の余寒かな
に『紫木蓮』の
    新涼や刃物三丁研ぎすまし
を並べても全くおかしくないのである。
  以上、真砂女俳句の特徴を列挙してきたが、これを私なりにまとめて言えば、「実生活上の些細な出来事や感慨を、平易な言葉で、きちんとした俳句形式に盛り、それを六十数年貫いた俳人」ということになろうか。

 最後に蛇足を承知で各句集から私の最も好きな句を一句ずつ選んでみたい。
    春淋し波にとゞかぬ石を投げ   〈『生簀籠』〉
     あるいは恋の句か。春の華やぎの中に潜むある種
     のいらいらするような気分が出ている。
    ゆく春や身に倖せの割烹着    (『卯波』)
     「卯波」開店の頃の作であろう。「倖せの割烹着」
という生な表現がかえって開店にこぎつけることのできた安堵感を表しているように思う。
    晩涼の桶に泥鰌の浮き沈み    (『夏帯』)
     重い感慨を籠めた句ではないが捨てがたい。真砂女らしい句。
    ひと乄の海苔のかろさや日脚伸ぶ (『夕蛍』)
     「晩涼や」と似た雰囲気の句。これも好きだ。
    白魚の骨まで透ける愁ひかな   (『居待月』)
     清澄な白魚に春愁を感じている。景も句境も詠みぶりも美しい。
    砂噛んで果つるほかなし秋の波  (『都鳥』)
     八十六歳の作。眼前の景と晩年の感慨が渾然一体となり、『全句集』中もっとも好きな句である。
    太平洋の波に乗りたる雛かな   〈『紫木蓮』〉
     安房勝浦の景であろう。雄大な太平洋の波に乗る小さな流し雛。

《参考》
『全句集』の末尾にかなり詳しい年譜が付いているので、この中から要点のみを抽出しておきたい。

・明治三十九年、千葉県鴨川町の旅館「吉田屋」(現「鴨川グランドホテル」)の三女として出生。
・昭和四年(二十三歳)結婚。
・昭和十年(二十九歳)夫が突然失踪したため、娘を婚家に残し実家に戻る。同年、「吉田屋」の跡を継いでいた姉が四児を残し急逝。
・昭和十一年(三十歳)家のため義兄と結婚。実子・遺児合わせて四人の母となり、旅館の女将ともなる。大場白水郎主宰の「春蘭」の会員となり、作句開始。
・昭和十二年(三十一歳)館山海軍航空隊の士官(七歳年下)と恋仲になる。二人の仲は相手が昭和五十二年に病没するまで続く。
・昭和二十三年(四十二歳)久保田万太郎主宰の「春燈」に投句開始。
・昭和三十年(四十九歳)第一句集『生簀籠』出版。「吉田屋」焼失。直ちに再建。
・昭和三十二年(五十一歳)「病気療養中の夫の看病をするか、裸で家を出るか」と迫られ、家を出る。丹羽文雄・大和運輸社長等の資金援助により銀座一丁目に小料理屋「卯波」を開店。
・昭和三十六年(五十五歳)第二句集『卯波』出版。
・昭和四十四年(六十三歳)第三句集『夏帯』出版。
・昭和五十一年(七十歳)第四句集『夕蛍』出版(俳人協会賞受賞)。
・昭和六十一年(八十歳)第五句集『居待月』出版。
・平成六年(八十八歳)第六句集『都鳥』出版(読売文学賞受賞)。
・平成十年〈九十二歳〉第七句集『紫木蓮』出版(蛇笏賞受賞)。
・平成十五年(九十六歳)老衰のため死去。
以上
(「出航」第42号より転載)