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武夫の変節 ―『第二芸術』を避け続けた桑原武夫―
伊藤 無迅

  はじめに
 桑原武夫のことである。京都学派の重鎮であった桑原武夫に対して「変節」とは穏やかではない。しかし以下を読み進めて頂くため、最初に結論を申し述べておきたい。とかく知識人は時代に翻弄されがちである。時代を正確に読み解き、あるべき姿を描ける知識人はそう多くはいない。大半は論争に敗れることや自説の非を認めることに拘り多くを語らない。しかし私は知識人こそ論争し、我が非に気付いたら素直に変節すべきと思う。大胆に自分を変える勇気のある人こそ真の知識人である。論争こそ避けざるを得なかったが自説の非を認め自説を変えた知識人の一人に桑原武夫がいる。私は特段桑原に私淑する者ではないが、彼の変節は知識人が持たねばならない重要な資質のひとつと思う。

  (1)筆者の『第二芸術』との出会い
 俳句を趣味としている関係から、数年前に桑原武夫の『第二芸術―現代俳句について』(以下単に『第二芸術』)について調べた事がある。この論文は戦後間もない昭和21年、雑誌『世界』に発表された1万3千字余りの小論である。しかしその内容は、俳句を徹底的に否定した書として当時の俳壇に大きな衝撃を与えた。このため当時の俳句関係者以外にも広く読まれた。しかし発表から60余年を経た現在では、俳人においてさえも『第二芸術』の存在すら知らない人が多い。かくいう筆者も書名は知っていたが読んだことは無かった。ところが当時所属していた俳句結社の記念行事で『第二芸術』論を取り上げることになった。あろうことか、そのとりまとめの責任者に私が据えられてしまった。このため『第二芸術』は勿論のこと、当時の文壇・俳壇から出た『第二芸術』への反論に関する本や雑誌を読み漁った。この貴重な経験で得た副産物が二つあった。一つは自分の俳句観が大きく変わったこと、二つ目が桑原武夫そのものに興味を持つようになったことである。前者は本論の趣旨から外れるので省略するが、一点だけ言えば、この記念行事で『第二芸術』論の「終結」宣言をしたにも拘らず、これを取りまとめたメンバー三名は、皮肉にも現在では全員結社を離れてしまった (一人は他界)。いま思うに、この三人には「終結」ではなく「再考」だったのかも知れない。さて後者の方であるが、桑原武夫に興味を持った動機は桑原が持つ二面性にあった。つまり『第二芸術』で見せたあの舌鋒鋭い近代主義者の一面と、昭和30年代から徐々に見せてくるナショナリストの側面である。『第二芸術』では俳諧精神を前時代の遺物(封建性の権化)とみなし、日本の児童教育から俳諧的なものをすべて排除すべきと声高に批判した。まさにその姿は当時の代表的な近代主義者、清水幾太郎と並び、近代合理主義の先頭を走ろうとする気概さえ感じられる。ただその勢いは昭和20年代後半から徐々に姿を消し、逆に近代主義とは対極のナショナリストの一面を覗かせて来るのである。ただ桑原には元来ナショナリスト的資質があったように見える。例えば終戦直前に小宮豊隆から日本が無条件降伏するという極秘情報を事前に得ていたにもかかわらず玉音放送を聞き慟哭した一面や、後に『第二芸術』は「鹿鳴館賛美の発想」があったと回想するように、自身のナショナリスト的側面を自覚していたようである。それでは何故終戦直後にあのような激烈きわまる著作の執筆に走ったのであろうか。このことは後述するが、やはり「時代」が桑原青年を翻弄したというべきであろう。

  (2)『第二芸術』論と第二芸術論
 筆者はその桑原の持つ潜在的なものを、さらに前面に引き出す役割を担った人物が柳田国男であったと密かに思っている。『第二芸術』の予想を超える反響、とりわけ一呼吸おいて始まった俳壇内の論争はすさまじいものがあった。しかも桑原は、その二ヵ月後、同じ論調で『短歌の運命』を発表し、返す刃で短歌をも否定したのである。この二つの発表は、同時期に発表した臼井吉見の短歌批判論『短歌との決別』(1946年5月)や小田切秀雄のやはり短歌批判論である『歌の条件』(1946年3月)と共に、後に「第二芸術論」(日本の伝統的詩歌である短歌・俳句批判)となり文壇全体を巻き込む大論争に発展する。特に『第二芸術』はその命名がセンセーショナルであった為か、桑原自身が「この一文が私を一躍有名にしてしまった」と語るように、論戦の中心に引き出される事態となった。
 ここでこの論争が単に俳句・俳諧を批判した俳壇内論争と、和歌を含めた日本の短詩形文学全体を批判した論争とが混乱して語られることが多い。そこで私はこれを区別するため以下のように名称を変えている。
  ・桑原武夫『第二芸術』をめぐる俳壇内の論争 …… 『第二芸術』論
  ・日本短詩形文学(短歌、俳句)批判への論争 ……… 第二芸術論

  (3)『第二芸術』が生まれた背景
 しかし反響の大きさに対して当の桑原たちが、この論戦にまじめに対応した形跡が見られないのである。桑原はこの間の状況を次のように述べている。

『第二芸術』に対する俳壇からの反論は言うまでもなくすごかった。送られてくる批判を載せた俳句雑誌はまさに汗牛充棟であった。みなハナをかんで捨ててしまった、などと友人に冗談を言ったのがひろまって困ったが、あとで京都に転任するとき、すべて廃棄処分にしてしまったことは事実である。(『桑原武夫集2』「自跋」の中の「6第二芸術論」岩波書店、1980・9)

 筆者が思うに、これらの一連の著作は、日本の有史で初めて味わった無条件降伏という虚脱の時間、つまり「時代」が書かせた「時代の書」だったのではないかと思う。この国家的な精神虚脱状態の中で、桑原をはじめとする若き知識人たちは、ひそかに大正時代のペシミストたちの言は正しかったと臍を噛む思いだったのかもしれない。つまり明治以降、西洋の科学・技術の成果だけをとり入れ、西洋思想まで移入しなかった近代化の不徹底を声高に叫んだ大正の知識人たちの言である。漱石一門に代表されるこれらの知識人たちは、やがて軍部的超国家主義に圧殺され日本は戦争に突入した。あるいは桑原たちの想いは明治に兆民が説いた「東洋中に一個厳然たるヨーロッパ的の島を現出すること」、つまり日本の真の西洋化は敗戦直後という今この時期をおいて他にないと逸(はや)ったのかもしれない。戦時中文学報国会で桑原が垣間見た虚子の尊大な態度が、軍部的ファッショと重なり『第二芸術』を書く動機のひとつとなったことは、後に桑原自身が語っているところでもある。
 ただ反響の大きさに反して『第二芸術』が生まれた舞台裏は、桑原が述懐するように実にあっさりしたものであったという。雑誌『世界』の依頼を「軽い気持ち」で引き受け、ほとんど一晩で書き上げたようである。「時代の書」は存外、このようにして生まれるのかも知れない。ただ、私は桑原のこの言は俄には信用できない面がある。この点は見落としていたのであるが、GHQのWGIP(War Guilt Information Program)の存在である。このWGIPは暫くその存在を語ることがさえ憚れたが、最近研究が進みその恐るべき実態が明らかになって来た。それによるとGHQの思想と言論統制は徹底したものであった。私はひそかにこの見えざる手が出版社を通して直接、間接に桑原や小田切など若き言論人におよんでいたと見ている。そうでないとその後の桑原や小田切の長い沈黙は説明がつかないのである。

  (4)『第二芸術』への総括準備
 結局、桑原が『第二芸術』に対する自らの所感を小論『流行言』で表明するのは、発表から25年後のことになる。その間、独り歩きした『第二芸術』論は俳人の間を燎原の火のごとく燃えては消え、消えては燃えながら昭和50年代まで影響を与え続けたのである。このあたりの事情こそが『第二芸術』は、まさに「時代の書」であると呼びたくなる所以である。多分この若い知識人は発表することが精いっぱいで、後の反論に対する論証さえ準備していなかったであろう。この反響の大きさに一番驚いたのは当の桑原本人ではなかったかと思っている。後に桑原は胸中穏やかならぬ思いであったことを仄めかす文章も残している。また桑原は『第二芸術』を執筆するに当たり、端から詩歌論を書く気はなく日本文化否定論を俳句の名を借りて書きたかったのである。つまり『第二芸術』は詩歌論を装った日本文化否定論であった。その意味で私は当初桑原の動機に明治期の子規と低通するものを感じていた。しかしWGIPの存在を知り、その後考え方が変わって来た。何故なら最も日本の文学的なものである和歌(短歌)と俳諧俳句批判が期せずして同時に出ていること、しかも選抜したように将来有望視されていた若手知識人から発表されたことを勘案すると彼らの背後にあるもの、つまり出版社や報道機関を通して日本の言論統制を謀るGHQのWGIPの影が見え隠れするのである。特に桑原たちの発表動機が出版社の要請であったことは、これを如実に物語っているように思う。GHQの占領政策は非常に巧妙で決して統制の正面には立たない。非占領国に執行機関を設立するか既存機関にその役割を担わせるのが彼らの常套手段である。桑原の言「出版社から要請があり一晩で書き上げた」が、それを物語っている。桑原は発表のみが役割で論争は期待されていなかったと見るのが妥当であろう。発表後の監視役割はWGIPが担い、危険な論争は当事者にさせないというのがGHQの方針であったと思う。つまり桑原には詩歌論であれ、文化論であれ論争は許されなかったのである。25年後に『第二芸術』を回想した次の一節は、そのことを匂わせている。

『第二芸術』については多くの反論をうけたが、今はほとんど忘れてしまって、虚子、三鬼両家のことしか思い出せない。まことに身勝手なものである。そんな私はその後、短詩型文学の動向にしだいに無関心となり、注目を怠っている(『桑原武夫集8』「流行言」岩波書店、1980・11)

 桑原がWGIPを『第二芸術』発表時に意識していたかは不明だが、翌年には意識していたという証拠がある。桑原は翌22年5月に白日書院から『現代文化の反省』というある意味で日本文化を否定する著書を出版する。以下はあまり知られていない話であるが、この中に収載された『第二芸術』には一部削除された一節がある。この一節を初版本でよく見ると明らかにGHQには見せたくない一節である。この時期、日本の書籍発行はWGIPの下で全て事前検閲を受けていた(事後検閲は昭和22年10月から)。このため発行停止を恐れた白日書院が桑原に削除を持ち掛けたか、桑原が自主的に削除したものと思われる。このあたりの詳細は拙論「長谷部文孝『消された俳句―第二芸術論の空白』を読む」を参照願いたい。ともあれこの時期、桑原にはWGIPの存在が重くのしかかっていた筈である。
 しかし論争の正面対応は避けても、ある意味で時代の寵児となった桑原には著述・講演の依頼が増え続けた。ただ、専門分野であるフランス文学の講演でも『第二芸術』に関する質問が必ず出たようだ。このため桑原は、いずれ自分なりに『第二芸術』の総括をする必要性を強く感じていたようだ。彼はひそかに明治以降の近代化を検証する作業に着手した。このことは、その後の著作内容を見れば明らかで、昭和20年代後半から日本の文化特に明治以降の近代化に関する著作や講演が多くなる。WGIPの表向きの廃止は昭和24年10月であるが、以降GHQの意向を受けた日本の公安警察がこれを引き継ぐことになる。つまりWGIPの呪縛が徐々に解けて来る時期と上述した桑原の動きは重なるのである。

  (5)桑原武夫と柳田国男
 桑原がこの時期、正面きっての論戦を避けざるを得なかった事情を述べてきた。続いて『第二芸術』発表以後の桑原の思想を形成する上で、柳田国男の存在が大きく関与していたであろうということを以下に述べたい。これを裏付けるものとして記録に残る柳田と桑原の二つの会話を紹介する。
 その前に二人の位置関係を知る手がかりとして、二人の出会いについて少し触れておきたい。柳田と桑原の最初の出会いは昭和12年である。桑原はその前年の夏、東北地方を旅している。高校時代に読んだ当時のベストセラー柳田の『遠野物語』に導かれてのことである。桑原はこの時すでにフランスへの留学が決っており、出国前に日本の原初的なものを見ておきたいという思いからである。翌昭和12年、桑原は渡仏する直前に友人の縁戚であった石黒忠篤を介して柳田家を初めて訪問した。そこで柳田から贈られた本を数冊フランスへ携行したというから、あるいは洋行に際しての心構えや、柳田の日本、および世界観を聞くのが目的であったかと思う。そのとき桑原は柳田家で煎茶を供せられた。そのことを石黒に告げると「それじゃ君はずいぶん優遇されたわけだよ、柳田家では来客にみだりに茶菓を出さない」と言われた。桑原は後々までこのことを誇りにしていたようである。帰国後しばらくして桑原は国立国語研究所の評議員となる。その会議での席上や雑誌社の対談などで柳田と接する機会が増えてくる。このため自然と柳田と私的な会話を交わす機会も多くなった。ただ桑原から見れば柳田は親子ほどの年齢差(約三十歳)もあり、つとに碩学で知られていた柳田の存在は、すでに尊敬の域を超えて畏敬に近いものであった筈だ。

  (6)柳田国男との一つ目の会話
 さて、二つの会話の一つ目であるが、この会話は昭和27年、たまたま京都滞在中の柳田を桑原が訪ねたときに交わされたものである。筆者はこれを便宜上「孝行対談」と呼んでいる。桑原はこのとき当時抱いていたある疑問を柳田に質問した。その疑問とは、明治の学者と桑原世代の学者の間に横たわる、ある断絶を指すものであった。この疑問は桑原が進めてきた明治の近代化検証の課程で得たものと思われるが、桑原はその断絶が何処に起因するものかを把握しかねていた。ありていに言えば明治の学者は文献も少なく素朴極まる学識であるにも拘らず心の強さがある。これに対し後の世代の学者は、文献・学識共に豊富にも拘らずその強さがない。その違いは何故なのか、という問いであった。この質問に柳田は言下に「孝行がなくなったからだ」と答えている。桑原はその答えに驚きその理由を尋ねた。この時、柳田が話した内容は桑原の著作に詳しく述べられている。少し長いが重要なのでそのまま引用する。

 明治初期に生まれた学者は、忠義はともかく、孝行ということだけは疑わなかった。自分なども『孝経』は今でも暗誦できる。東京に出てきて勉強していても、故郷に学問成就を待ちわびている父母のことは夢にも忘れる事は出来なかった。人間には誰しもなまけ心があり、酒を飲みに行きたい、女と遊びたいという気も必ず起こるのだが、そのとき目頭に浮かぶのが自分の学費をつむぎ出そうとする老いたる母の糸車で、それは現実的な、生きた『もの』である。ところが私たち以後の人々は儒教を知的には理解していても、もはやそれを心そのものとはしていない。学問は何のためにするのか、××博士などは恐らく、真理のため、世界文化のため、あるいは国家のため、などと言うだろうが、それらは要するに『もの』ではなくて、宙にういた観念にすぎない。観念では学問的情熱を支えることが出来にくい。平穏無事な時勢は、それでも間に合うように見えるけれども、一たび嵐が吹きあれると、そんなハイカラな観念など吹き飛ばされてしまう。その上悪いことに日本人は自分の身のまわりの物を見て、そこから考える事を怠って、やたら本を読むくせがついた。本の中には真理が入れてあり、それを手でつかめば良いかのように。だから日本のことは、歴史のことも身のまわりのことも知らなくても、西洋の本に書いてあることを知っておれば結構学者としても通用するようになった。学者が弱々しい感じをあたえるというのはあたり前のことです。(『雲の中を歩んではならない』「学問を支えるもの」文芸春秋新社、昭和30年)

 この柳田の説明は、桑原にいくつかの反省を強いる言葉でもあった。
 一つは、「もの」を軽視し、観念に偏向した学究態度への反省で、二点目は、足下(日本)を無視しハイカラ(西洋風)に偏向した論考方法への反省である。
 明治維新とは明治人が自ら起こした文化革命であり、西洋の新しい「もの」や「思考」に飛びついても、その根底には「和魂洋才」があった。これに対して敗戦後の民主化は米国主導の有無を言わせない待ったなしの改革である。このような改革が進められてゆく中で、日本人特に知識人が、これに無条件に迎合している風潮こそ柳田には許せなかったのである。戦勝国である米国進駐軍が改革にどれだけ手心を加えるかは判らない。しかし日本人である以上せめて日本の歴史と現状を認識し、その上でハイカラを評価し取り入れてゆく姿勢を占領軍に示すことこそ知識人の役目である。引用した柳田の言葉は、このように若き桑原を諭していると聞こえたであろう。
 この柳田の言葉は、桑原の学者としての論考方法に大きな影響を与えたと思われる。
 例えば昭和36年(1961年)に行った「日本文化の考え方」という講演の冒頭、桑原は次のような話をしている。

文化の問題を考えますときに、いろいろの接近の方法がありますが、日本で一ばんよく行われているのは歴史的アプローチであります。もう一つは現在的接近法と申しますか、まず現在存在する物と人間、それを十分観察、調査して、そこから結論をみちびき出す方法ですが、これにはタテマエというものを避けなければ意味がありません。日本は風光明媚であるなどというのが、タテマエです。ちっとも明媚じゃない。美しかるべき風景をよってたかって粉骨砕身して汚くしている。どこもかしこも看板だらけです。それを風光明媚だという。だって教科書にそう書いてあるというわけです。看板が多すぎるとは書いていない。つまり字にかいてないことは存在しないと考える。これは日本の学者に大へん支配的な思考方法でありますが、そういう方法はやめにしたいと私は思います。(『桑原武夫集6』「日本文化の考え方」岩波書店、1980・9)

 この内容はまさに前述した柳田の話と符合する。つまり文献偏重の論考方法を否定し、身の回り(現実、現状)を直視する論考の重要性を説く柳田の話を踏襲した内容になっていることが分かる。

  (7)柳田国男との二つ目の会話
 次に二つ目の会話であるが、この会話がいつ取り交わされたかは定かでない。おそらく昭和20年代後半から30年代であろう。あるとき、何かの折に二人だけになったことがあり、そのときふと柳田が漏らした言葉である。その言葉を桑原の著作から引用する。

もともと柳田さんは、日本の思想が悪くなった時期が二回ある。という説をもっていて、私と二人きりのとき、それをもらされことがある。第一回は阿部次郎、天野貞祐、和辻哲郎、小宮豊隆といった漱石門下の連中が学問思想のモデルは西洋にあると言い出したころ、第二回は小林秀雄、とか君などが、アンドレ・ジッドとかヴァレリーをはやらせたころ、この二回ですよ。君らは責任があるね、と温顔でいわれたことを思い出す。「はやらせた」という言葉がきわめて印象的だった。(『桑原武夫集6』「柳田さんの一面」「付記」岩波書店、1980・9)

 柳田は上記の理由からであろう、ここに挙げた人物を相当嫌っていた形跡がある。それを裏付けるようなエピソードが、引用した上記著作の中で紹介されている。
 そのエピソードとは、ある雑誌社の対談で柳田・桑原等のほかに天野貞祐が同席した対談があったがその席上でのことである。対談の冒頭で柳田は、天野を「反動」と決めつけ、その後の天野の発言に、ことごとく反撥したという。その発言があまりにも過激であったためか、雑誌の編集段階で柳田発言の多くが抹消されたという。
 では柳田の言う「責任がある」一人に名を連ねる「君」、すなわち桑原武夫が何故柳田のお眼鏡に叶ったのであろうか。この辺りの事情は、いまひとつ明確ではない。しかし、その理由と思われる柳田の言葉が昭和59年暮れに出版された桑原の著作に掲載されている。この著作は桑原が編者となり、明治維新と近代化をテーマにまとめられたものである。そこに収載されている座談会の記事の中に、桑原が出席メンバーに上述した柳田の言葉を紹介する場面がある。その折にメンバーの上山春平(京大名誉教授、当時)から、「柳田さんはどういうふうに批判したわけですか」と質問され、桑原は以下のように答えている。

ヴァレリーとか、ジッドとかを無批判に入れている。おまえはしかし、このごろわしの本なども読んでいるから、という意味のことをおっしゃられていましたね。(小学館創造選書62『明治維新と近代化』小学館、1984・12)

 これだけの言葉で推測するのは難しいが、柳田は、自分の著作を読み始めた桑原を特別な好意をもち評価していたことが推測できる。つまりこの当時(昭和20年代後半〜30年代)桑原は柳田の本を相当数読み込んでいたことが分かる。
以上述べてきたことから桑原は明治以降の近代化検証を進める上で、論考の姿勢や方法で、ひそかに私淑する柳田から強い影響を受けていたことが推測できる。

  (8)自著『第二芸術』に対する桑原武夫の総括
 以上のような柳田の影響がどのように関係したかは分からないが、結果として桑原が自身の著書『第二芸術』に対して初めて自分の見解を述べるのは『第二芸術』論が一区切りついた昭和46年(1971年)3月で、毎日新聞に載った『流行言』という二千字にも満たない小論であった。その中で桑原は、「詩と散文の区別が精密に考えられていないこと」「社会調査をふまえていないこと」を率直に認めている。
 また自著『短歌の命運』についても、『桑原武夫全集』の「自跋」の中で、

日本社会の近代化が成功すれば、「短歌は民衆から捨てられるということになるであろう」と言ったのは、私の見込みの甘さであった。短詩型文学は少しも衰えを見せていない。(『桑原武夫集6』「自跋」岩波書店、1980・9)

と率直にその見込み違いを認めている。さらに後に続く桑原の次の一節は、桑原の芸術観の変化を知る上で注目に値する。

『第二芸術』と呼んで批判したが、しかし、第二芸術であればこそ衰退はありえないわけである。ここでおそらく鶴見俊輔氏のいわゆる「限界芸術」(しろうとが作り、しろうと自身が享受する芸術)の見地からの考察がされなければならないであろう。そしてそれはおそらく現代日本大衆文化一般への考察とつながってくるはずである。( 同 )

 この桑原の一節は、芸術を一元的に捉えるのではなく多元的に捉えるべきであるという考え方に移行している。つまり一方的に西洋の価値判断で、日本文化を見た誤りを認めているのである。この一節は、柳田の小論「病める俳人への手紙」に出てくる次の一節を髣髴させる。

第二と呼ばれると下等のもの、劣ったものという感じが伴なひやすいけれども、是は二つの方向を異にした、比べることの実は出来ない道なのです。(『現代日本文学大系20柳田国男集』「病める俳人への手紙」筑摩書房、1969・3)

 ここで引用した「病める俳人への手紙」は、『第二芸術』が発表された翌年、昭和22年12月に発表されたものである。ここで柳田が「第二と呼ばれる」と言っているのは、前年に発表された桑原の『第二芸術』、すなわち現代俳句を指すもので「二つの方向」の一方の方向である西洋近代芸術精神の物差しで、尺度の異なる日本の俳句(俳諧)を批判している桑原の愚を暗に指摘した一節と読み取っても好いであろう。この時点で桑原が柳田と接触があり、柳田に厳しく諭されたことが『第二芸術』への反論に長い沈黙を通す理由になったかは今となっては分からない。長い沈黙のもう一つの理由として前述したようにWGIPの存在も十分にあり得る。しかし鶴見俊輔の『限界芸術論』のコンセプトは、鶴見自身が語っているように柳田国男の民謡研究から想を得て作り上げたものである。さらに鶴見は桑原の紹介で1948年京都大学の嘱託講師(翌年助教授)になった古い友人でもある。このように考えてくると、柳田の存在は陰に陽に桑原に大きな影響を与えていたことは明白であろう。

  (9)『第二芸術』が内包していたもの
 『第二芸術』に携わった縁から、ここまで桑原武夫と柳田国男のことを述べてきた。二人を調べることで、日本の近代化は日本人にとり永遠のテーマであることを改めて知った。『第二芸術』は発表と同時に桑原の手を離れ独り歩きを始めたことはすでに述べた。『第二芸術』は時代が産み落とした「時代の書」であった。桑原の長い沈黙は反響に驚いたこともあろうが、陰に陽に見え隠れするGHQの存在もあろう。同時に柳田の影響も多分にある、論争でこれ以上日本および日本人を傷つけたくなかったのである。つまり「時代の書」である『第二芸術』は論争するに相手を見出せなかった。桑原は論争を控えていたし、俳壇長老は戦争責任の追及を恐れ論争には加わらなかった。結局俳壇内の新興俳句系の若手俳人たちによるコップの嵐に終始した感もある。
 桑原は昭和43年(1968)1月『西洋崇拝からの脱却』という一文を『中日新聞』に寄稿している。その中で近代化について次のように述べている。

おおよそ百年で、日本の文化革命は一サイクルをまわり、近代化とはもはや西洋化ではない、といいうる地点まで到達したのではないか。そしていうまでもなく、この近代化の達成は、江戸時代の社会がもっていたところの、そして今日イギリスやフランスなどがなおもっているものを、かなぐりすてることによって可能となったのである。(略)近代化は日本民族が独立を守って生きのびるために必至の課題であった。今日の日本をつくり出した原点として、明治の文化革命の意義はいかに強調しても強調しすぎることはない。これをヨーロッパの虚像を基準として裁断する西洋崇拝的態度からそろそろ脱却すべきであろう。(略)近代化に一応成功した今こそ近代化がはたして人類にとって、また国民にとって究極目的であるかどうかを深く考えるべきであろう。(『桑原武夫集7』「西洋崇拝からの脱却」岩波書店、1980・10)

 実は桑原自身の『第二芸術』への総括準備は、日本文化論あるいは明治近代化論の著作や講演にその姿を変え、折に触れてなされていたと見るべきであろう。『第二芸術』発表から22年後に発表された上記寄稿もそうである。
 この寄稿文をもう一度お読みいただきたい。これがあの『第二芸術』を書いた同一作家の文章なのである。この文章を「変節」と呼ばずに何と呼ぶか。見事な変節である。しかしこの桑原の寄稿文の背景には、22年間という時間の流れがあり日本経済の奇跡的復興とそれによって得た日本人の自信回復がある。いわば桑原は時間の経過を自身の免罪符としているのである。これは桑原の一種の狡さである。
 だがこの間俳句的なものは無くならなかったし、戦前に増して俳句人口は増えている。つまり日本人は基底の部分では日本人であり続けたのである。

 おわりに
  『第二芸術』が発表された敗戦直後は特異な時代であった。これは桑原も引用しているが、25年後に『第二芸術』を再読した近藤芳美が当時の状況をまざまざと思い出して「瓦礫の街の、澄み透った空の青さだけが今日も思い出される」と述べている。
 その青い空の下でGHQの占領下にあって最も日本的なものを破壊したいという時代の衝動があった。それは一瞬だが確かにその時代の意思でもあった。「第二芸術論」は短歌・俳句という短詩型に名を借りた最も日本的なものを知識人がどう扱うかで悩み考えた文化論争であった。しかし痛ましいことにそこには、ここまで日本を牽引してきた骨太な知識人たち、例えば柳田国男や斎藤茂吉などの存在はなく、意識下にGHQの存在をおいた若手の間ですべてがなされてきたことである。
 あらためて言うまでもないが日本の近代化は、日本的なものと西洋的なものとの、せめぎ合いであり、その折り合いの歴史でもあった。俳壇で言えば虚子vs碧梧桐であり、素十vs秋桜子であった。しかし敗戦直後のせめぎ合いには、各分野において虚子や素十という存在の人物が参加できなかったという不幸があった。
 その歪みは現在も引きずっていると思う。

 今、日本には「放射能を帯びた瓦礫の街の、澄み透った空の青さ」がある。その青さを「第二の戦後」と呼ぶ人もいる。しかし現在は占領下ではない、しかしそれに代わる様々な虚報が世に満ち溢れている。真実を得るには変節をためらってはいけない。青空の下、世の知識人は桑原の時間をかけた変節でなく、大胆で迅速な変節を常に心掛け今こそ国民をあるべき方向に導く時である。
 最後に、桑原の好きだった一句を掲げたい。

     いかのぼり昨日の空のありどころ    蕪村  

<了> 
(初版:2011年6月16日)
(第二版:2017年6月11日)