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参考資料室
「一句十年」の真実 ―能村登四郎小論―
安居 正浩

  はじめに
 能村登四郎がよく使っていた言葉に「一句十年」がある。『馬酔木』に入ってから昭和二十三年初巻頭を取るまでの十年間は、秋櫻子に一句しか取られなかったという長い苦労を自虐的に表現したものだ。登四郎はずっとこの言葉を言い続け、書き続けた。意識的に苦労を口にすることで俳句への気持を高めると同時に、主宰誌を持ってからは永い下積みの人たちへの励ましの言葉としても使っていた。この「一句十年」という言葉に込められた思いを検証し、能村登四郎という俳人の魅力を再発見できればと思っている。

一、「一句十年」という言葉
 「一句十年」の初出は昭和三十五年の『南風』一月号に掲載された「一句十年」という文章と思われる。その中で登四郎は次のように言う。

僕は人も知る通り「馬酔木」作家中めずらしい長い修業時代をすごしてきた人間である。はじめて投句したのが昭和十三年だから約十年ほど一句時代をすごして来た。執着する性質なので没や一句になっても殆ど投句を休んだ事がなかったから、思えば随分辛抱づよくねばったものだと思う。

 この後昭和四十三年『風雪』四月号には、「続一句十年」という文章で、  

大分前のことであるが、「一句十年」という随筆をある雑誌に発表したことがあった。「馬酔木」の投句時代の苦労話を書いたものである。何気なく書いたこの雑文が当時かなりの反響をおこしたのに、私自身びっくりした。。

と書く。これを読むと思いのほか話題になったようで、「一句十年」という言葉が一人歩きし始めたことにまんざらではなさそうな感想を述べている。
 その後は昭和五十二年の『沖』十月号の「出会いそして別れ」で  

私は「一句十年」などという愚かしい経歴の持主の位だから、おそらく俳句に関してはごく普通の能力しかなかったに違いない。(中略)そんな俳句の世界に十年もしがみついていたのは一体何だったのだろうか。(中略)私は十年間耐えながらひそかに意地を育てていたようである。

とも書いている。ここでは「意地」が俳句継続の支えになったとある。

二、「一句十年」の始点と終点
 では「一句十年」の始まりはいつからであろうか。
 登四郎が俳句に最初に出会うのは中学生の頃である。母方の叔父の山本安三郎から俳句の手ほどきを受ける。国学院大学時代には折口信夫(釈迢空)の影響下で短歌に手をそめるが、属していた同人誌『装填』が廃刊になりやめてしまう。
 二十代の後半に俳誌『馬酔木』に初投句。この時のことを本人は次のように述べる。

俳句というと、宗匠頭巾をかぶった老人がへちま棚や梅に鶯を詠むものだというイメージがありましたが、秋櫻子の俳句には新鮮な油絵の具のような匂いがありました。秋櫻子の主宰する「馬酔木」という俳句雑誌を書店で開いてみると、俳句にあるはずの「や」や「かな」などの切字が殆どないことに一種の驚きを感じました。そんなことで、私は「馬酔木」で勉強することに決めたのです。十四年の夏のことでした
(『能村登四郎俳句の楽しみ』NHK出版 昭和六十三年十一月)

 これが『馬酔木』入会について書いた年代的に一番新しいものだと思うのだが、正確さに欠けている部分もある。
 まずこの文章では『馬酔木』入会を昭和十四年としている。その後の年譜でも十四年と書かれるのだが、実際は「一句十年」に書かれた昭和十三年が正しい。
 最初に誌上に句が出るのは『馬酔木』昭和十三年十一月号である(筆者調べ)。
 秋櫻子選の新樹集に

    佐渡野呂松人形浄瑠璃
   秋燈に伏せる傀儡のいのち見つ     市川市 能村登四郎

であるから、初投句は昭和十四年の夏ではなく十三年の後半には投句を始めていたことに
なる。また同じ号の加藤かけい選の新葉集にも名前が見える。

  葦の風遠くの風と思ひけり           能村登四郎

 また『馬酔木』との出会いも偶然ではなく大学時代の短歌同人誌仲間で石見にいた牛尾
三千夫(民俗学者)から買って送ってくれと頼まれていたのが真実のようである。
 「一句十年」のスタートは『馬酔木』昭和十三年十一月号と考えていいと思う。
 では「一句十年」の終点はいつか。本人の文章に「それから又一句がつづき私がはじめて巻頭を得たのは翌々年昭和二十三年、昭和十四年から数えるとまさに十年にちがいなかった(『風雪』昭和四十三年四月号)」とあるから初めての巻頭を取った『馬酔木』昭和二十三年三月号としていいだろう。

三、本当に一句十年だったのか
 登四郎は昭和十三年に投句をはじめる。しかし当時の『馬酔木』では一句を載せてもらうのは大変なことで、多数の没になる人がいた。だから現代の俳誌のように最低でも二句とか三句が載るという時代とはニュアンスは違っている。また戦時中はページ数が減り、巻頭の近辺でも二句しか載らない時代もあった。
 登四郎の投句が確認出来る昭和十三年十一月号から、巻頭を取る昭和二十三年三月号(休刊を除く)までの全百一冊の成績を見ると
 〇句 二十八回(出征による欠詠も含む) 
 一句 四十回
 二句 二十八回
 三句 三回
 四句 二回
であり登四郎は確かに没や一句の時はあったものの、二句以上載ることが三割以上もあり本当の意味での下積みであったとはいいがたい。それなりの注目作家であったのである。  
昭和二十二年には有力新人の勉強の場であった篠田悌二郎指導の「馬酔木新人会」への参加を許されている。
 では何故「一句十年」という下積み意識が登四郎に根付いていたのか。これを知るには登四郎のライバルと言われていた藤田湘子のことに触れなければならない。

四、ライバル藤田湘子
 藤田湘子の『馬酔木』初投句は昭和十八年十月号である。入会時は没のこともあったが、二年後の昭和二十年十二月号では「選後に」という選評欄で秋櫻子に一句取り上げられ、能力のある作家として評価を受けている。
 湘子の入会(昭和十八年十月号)から登四郎の巻頭(昭和二十三年三月号)までの登四郎と湘子の成績を比較してみると、
 〇句 登四郎 十二回  湘子  七回  (出征による欠詠も含む)
 一句 登四郎 十三回  湘子 十四回
 二句 登四郎 十六回  湘子 十一回
 三句 登四郎  二回  湘子  二回
 四句 登四郎  二回  湘子  十回
 五句 登四郎  〇回  湘子  一回
となる。四句以上の成績から見ても明らかなように湘子の方が上回っていた。特に昭和二十二年には登四郎がほとんど一、二句であったのに対し、湘子は上位に定着し昭和二十二年四月号では巻頭も取っている。このように句数においても、順位においても大きな差があった。
 湘子は当時のことにふれて「能村さんは十五歳年下の私を、かなり意識しているところがあった。私は一番年少で同年輩の相手もいなかったからマイペースでやっていたが、だんだん闘争心が燃えあがってきた(「馬酔木新人会」『鷹』平成三年一月号)」と回想している。
 十五歳若く、初投句の五年も遅い湘子に誌上でずっと負けていた悔しさが、登四郎の「一句十年」という意識をもつ一つの原因になったのであろう。

五、石田波郷への思い
 昭和二十三年三月号で登四郎は初めて『馬酔木』の巻頭作家となる。
 この年に登四郎は三回の巻頭となり、湘子と同時に馬酔木新人賞となるなど、有望新人としての地位を固めてゆく。
 湘子とやっと並んだ登四郎であったが、ライバル関係はこれで終わらなかった。
 新しい競争を生んだのは、登四郎の初巻頭の中の一句にあった

   ぬばたまの黒飴さはに良寛忌

である。
 『馬酔木』の主宰である水原秋櫻子はこの句を絶賛した。しかし登四郎が兄事していた石田波郷は、この句を「情趣や繊麗な叙法は、趣味的にすぎて戦後の俳句をうち樹てるべき新人の仕事とは思えない」として酷評した。俳句に命をかけている思いの波郷にとって、枕詞を使った風雅な遊び心のように見える句が生ぬるいものに感じ、とても評価することはできなかったのであろう。
 それからも波郷は登四郎の句について、「言葉にもたれすぎ」「知的な誘い込み」などの苦言を呈している。それは一方で期待のあらわれでもある。
 このような波郷の批判を真正面に受け止めて、登四郎は「私」に執する路線にはっきりと舵を切った。このときの様子を登四郎は次のように言う

「黒飴」の句で波郷の批判を真向から浴びた私は、その後「馬酔木」に復帰した波郷に接して兄事して数々のことを学んだ。そして戦後の窮乏裡に自分のような貧しい教師が俳句の上でなすべきことは現実を凝視して身辺を詠うしか方法はないと思った。 (「波郷と言う人」『俳句研究』昭和六十二年七月号)

 昭和二十六年四月に馬酔木三十周年記念俳句の応募作品「その後知らず」で入選第三席になる。(ライバル藤田湘子は二席であった)
  
  長靴に腰埋め野分の老教師

など、自分の教師生活を詠んだ二十五句である。これらの句は「私」に執するものであった。だから波郷の評価は高い。
 昭和二十九年十月、登四郎は第一句集の
『咀嚼音』を近藤書店から出版する。これは石田波郷の勧めと助力があってできたものであった。
 登四郎は『咀嚼音』の出版の経緯について言う。

そのころ、一度馬酔木を去った波郷が馬酔木に復活して来たので、私は俳句に関することはすべて波郷に相談した(中略)昭和二十九年に、私は処女句集『咀嚼音』を世に送った。この句集についても波郷は実によく世話をしてくれた。書店への交渉から選句、題字、跋、それに写真まで撮ってくれた。(「伝統の流れの端に立って」『俳句』昭和四十五年十二月号)

 登四郎が当時波郷に心酔していた様子がよくわかる文章である。
 このように登四郎は波郷から注目する作家としてかわいがられていたが、ライバル湘子と波郷のつながりと比較すると多少の違いがあった。
 波郷は言う。

私は今の馬酔木集の主流は主観を詠むとかといふよりも、日常生活の中の感情的な陰翳といふか、それを繊細な委曲を尽した技巧的手法で、叙述的に現はすのであり、新人会の諸君などはひたすらその技巧の絢を競つてゐるやうに見える。(中略)藤田君にはあれも可これも可といふ作句態度はとれぬといふ強い自恃があるのである。私は、融通のきかない藤田君の態度に好感をもつものである。
(「雪の日の感想」『馬酔木』昭和二十五年二月号)

 この文章に登四郎の名前は出ていないが、登四郎は「技巧の絢を競つてゐる」新人の中の一人であり、湘子はそこをぬきんでた個性的な作家であると波郷は考えていたと推測できる。
 また湘子の方も次のように言う。

私の俳句の師は水原秋桜子である。が、俳人としての生き方や身の処し方の手本は石田波郷だ。(中略)波郷は煙草も喫い酒も大いに飲んだ。生活も私たちと変わらぬから安心して近づけた(中略)このほかさまざまの俳人格形成の手段のほとんどを、私は波郷から学び、それを金科玉条として生きてきた。(「波郷のこと」『鷹』平成十二年十二月号)

 懐に飛び込んでくる湘子を、波郷が好感を持つのは当然である。編集部員として重用していた湘子に、昭和三十二年一月波郷は『馬酔木』の編集長を譲ることとなる。
 そして昭和三十五年に「一句十年」の文章を登四郎が書いた時、その思いの中には湘子へのライバル心と波郷への屈折した思いがあったはずである。
 特に「ぬばたまの」の句の批判を受けてから、登四郎の心の中にある波郷の存在は大きかった。兄弟子であり指導も受けていたためその真情は口にされることはなかったが、「ぬばたまの」の句を批判された悔しさを波郷の求める私小説的俳句に挑戦して意地を見せた昭和二十六年、波郷に「句集を持たなければ誰も評価してくれないよ」と言われて句集『咀嚼音』を出した昭和二十九年、その重要な決断に波郷がからんでいる。その後も登四郎が俳句の方向を決めるときにはいつもそこに波郷がいた。言いかえればそれほど波郷を頼りにし、好きだったのである。
 そんな思いにもかかわらず、自分より若くて波郷に嘱望されるライバル湘子を見て、登四郎は自然と波郷と距離を置き始める。
 登四郎は昭和五十一年ごろ弟子の鈴木鷹夫(現『門』主宰)に対し「『馬酔木』で波郷離れをしたのは僕が一番早かったんだよ」
(「波郷と登四郎と沖」『俳句』平成十三年八月号)と言ったという。この言葉には、波郷から一本立ちしたことの自慢と、淋しさの入り混じった登四郎の複雑な気持が感じられる。

 おわりに
 能村登四郎は平成十三年に九十歳でその生涯を終える。
 初あかりそのまま命あかりかな(『寒九』)
 遠くより見る雪の日のあそびかな(『菊塵』)
 紐すこし貰ひに来たり雛納め(『菊塵』)
 今思へば皆遠火事のごとくなり(『菊塵』)
 霜掃きし箒しばらくして倒る(『長嘯』)
 歌右衛門逝く
 行く春を死でしめくくる人ひとり(『羽化』)
の句などを含む自身の十四の句集(死後の一冊を含む)を出版した。これらの句を見ると。秋櫻子の自然詠中心で「きれい寂び」と呼ばれた美意識に、俳句は生活そのものとする波郷の人間くささを加えた登四郎独自の世界がある。
 登四郎は俳句の伝統を後世に伝えたいという強い使命感と、現実に俳句はどうあるべきかという大きな問題に終生悩みつづけていた。
 その一方で「一句十年」という言葉の中にはライバル湘子への負の意識、波郷に可愛がられる湘子への嫉妬、加えてそれらを俳句作品ではね返そうとする意地など、非常に個人的な葛藤が底流に流れていた。
怒り、悩み、嫉妬するなど能村登四郎は非常に人間的な俳人であったと言える。それがまた登四郎の大きな魅力でもあった。   
(「沖」平成22年12月号より転載)