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参考図書室
定家と芭蕉に関するメモワール。
江 田 浩 司

 一般的には藤原定家の松尾芭蕉に対する影響はあまり知られてはいない。また研究者の間でも西行が芭蕉に与えた影響ほどには注目されることなく、一部の研究者の間でのみ論じられているに過ぎない。しかし、芭蕉の句が蕉風の確立に到る過程で、定家の和歌からいかなる刺激を受けたのかを検証することはけっして無駄ではないと思われる。それは近世における和歌の享受を俳句の側面から検証することでもあり、和歌の伝統が近世の俳句に与えた影響の本質を探ることにもなる。

 もちろん、それについては芭蕉に特化することは出来ないだろう。また、芭蕉が最も影響を受けた歌人が西行であることも動かし難く、あくまでも芭蕉の定家享受は、芭蕉の俳句への直接的な契機をどこに見るのかにかかっている。

 なお、この文章は私が所属する芭蕉会議の俳句の勉強会、「論文を読む会」での発表を基にした定家と芭蕉に関するメモワールである。

 松尾芭蕉は弟子に向けて次のような内容を含む書簡を送っている。

 

 「唯(ただ)李・杜・定家・西行等の御作等、御手本と御意得(こころえ)可被成(ならるべく)候」 (貞享二年半残宛書簡)

 「又志をつとめ情をなぐさめ、あながちに他の是非をとらず、これより実(まこと)之道ニも入(いる)るべき器なりなど、はるかに定家の骨(こつ)をさぐり、西行の筋をたどり、楽天が腸(はらわた)をあらひ、杜子が方寸ニ入(いる)るやから、わづかに都鄙かぞへて十ヲの指ふさず」 (元禄五年曲水宛書簡)

 これらの書簡から芭蕉が定家を、李白や杜甫、白楽天、西行と並べて、その重要性を弟子に説いていることが理解されるだろう。芭蕉は風雅の誠 (「蕉風俳論において、俳諧詠作の根底にあるべき純粋な詩情」『俳文学大辞典』) を念頭に置いて、弟子に宛てた書簡の中で自己の考えを披瀝している。

 なお、曲水に宛てた書簡の「はるかに定家の骨(こつ)をさぐり」は、定家に心酔していた正徹の歌論書 『正徹物語』 の次の言葉を受けて書かれたものであると思われる。

 

 「叶(かな)はぬまでも定家の風骨(ふうこつ)をうらやみまなぶべしと存じ侍る也。(中略)但(ただ)、其の風躰(ふうてい)をまなぶとて、てには言葉を似せ侍るは、かたはらいたき事なり。いかにも其の風骨心づかひをまなぶべきなり」

 「風骨」とは歌風とその骨法。風体・精神を指す。(新編古典全集 中世歌論集 頭注参照 2000年小学館刊)
 俳諧研究者の伊藤博之は芭蕉の定家継承について次のように記している。「(前略)上句と下句とを相互規定的にかかわらせる疏句体の構成に新しい表現可能性を学びとったことが、芭蕉の定家継承の本質であったと考える」。(『総合芭蕉事典』)

 ここで言う疏句体の構成とは「初句から結句までの関連において、それぞれどの句も音韻上からも語法上からも切れているが、気分的・情趣的に深くつながっている」歌の構成のことである (『和歌文学辞典』参照)。これは具体的には定家の達磨歌(だるまうた)を指している。そして、伊藤は定家の達磨歌と芭蕉の句の関係について次のように説明する。

 「同時代人から達磨歌と評された定家の歌は、句切れによって意味の流れが中断された歌、もしくは本歌取りの技法によって意味の流れが二重化された歌が多い。通念や常識に受け入れられやすいことばの慣習的文脈を意図的に断ち切ることによって、ことば相互の新しい意味関係を創り出そうと試みた (中略) 芭蕉が句の途中に切字をおくことで、相互規定的な取り合わせによる表現の可能性を追求したのは、定家の疏句体の方法に示唆されたところが多いと思われる」

 藤原定家は、生涯歌数3735首の内、本歌取りであることが明らかに推定できる歌が757首、実に全体の約21パーセントにのぼる。本歌の出典は、『古今和歌集』 が408首、『後撰和歌集』 が53首、『拾遺和歌集』が79首、『万葉集』 が74首と、三代集と 『万葉集』 でその殆どを占めている。

 また、物語に典拠するものは 『源氏物語』 が34首、『伊勢物語』 が21首と大半を占め、その他には 「後拾遺・金葉・詞花・千載・新古今」 を合わせて58首が確認されている。

 また、多くの歌を出典としている歌人は、在原業平、小野小町、紀貫之、和泉式部であり、その中でも特徴的なのは、読人不知の歌が最も多いことである。

 定家にとっては新しい心を詠うための方法が本歌取りであり、自己の詩性に基づく意識的な方法により、本歌の世界のイメージの拡張がなされている。本歌を出典とした意識的な方法による、イメージの重層性が内在された定家の歌は、現在の視点から見ると短歌による象徴詩が創造されていると考えてもいいだろう。本歌取りを駆使した定家のテクストは、明確な主題を保持しながら、「読み」において多義性を内在し、本歌の理解を入り口にした独自の美の世界に導く緻密な工夫が施されている。

 定家は本歌の引用は一句または二句として、本歌の句を二つに分けて上句と下句に分散すると効果があると考えているが、そのような本歌取りの方法の確立により、伝統の尊重を果たしながら新風を深め定着させることを可能にした。つまり、本歌をベースとした異化作用による象徴詩の確立が定家によってなされ、和歌の伝統を尊重しつつ短歌による象徴詩を完成させた定家の歌風の影響のもと、芭蕉は蕉風を確立させる。

 こう言い切ることにはさすがに躊躇いがあるが、芭蕉が蕉風を確立する過程で定家の歌風が思いの外深く影響を与えていた可能性に留意する必要性があるのではないだろうか。またそれは定家の直接的な影響だけではなく、正徹や心敬の歌論を通した形でもたらされたものもあっただろう。

 例えば、心敬の連歌論集『ささめごと』には、定家の歌についての興味深い記述がある。心敬は和歌や連歌の道は余情幽玄の詩情風体を主として詠むべきであり、言い残したり、非論理的表現の内に幽玄な感情が生じてくるものであるとする。そして、面影だけを表現して詠む不明体の歌を和歌でも最上最高のものとする。

 『ささめごと』 の中で心敬が例示した定家の不明体の歌は次のようなものである。

秋の日のうすき衣に風立ちて 行く人待たぬすゑのしら雲

 

 これらの秀逸、まことに法身(ほつしん)の姿、無師自悟の歌なるべく哉。詞には、理説き難く哉。
 (これらの秀逸は、真実法身の姿であって、模倣ではなく、師なくして自覚し感得し得た歌ではなかろうか。言葉では説明できない)
     (本文と訳は『日本古典文学全集 能楽論集、連歌論集』1976年小学館刊による)

 心敬が例示したのは定家の典型的な疏句体の歌である。しかし、このような歌が実際、芭蕉の俳句にどのような影響を与えているのか、その実体を定家の歌と芭蕉の俳句を比較しながら論じることは容易ではない。

 定家によって高度に磨かれた象徴詩としての疏句体の歌が、詩型の異なる俳句にどのような技法として受け継がれ、いかなる俳句として創造されたのか、その点をテクストに即して分析していくことが私の今後の課題の一つである。

 次に例示する定家の歌と芭蕉の句は、歌と句がそれぞれ内在する奥行きの深さ(不明な部分)、あるいは象徴性がどこかで通底してゆくように思えるテクストである。言うまでもないが言葉の類似の次元で考えられたものではない。

 をちこちにながめやかはすうかひ舟やみを光のかがり火のかげ

 冬の日や馬上に氷る影法師
 星崎の闇を見よとや啼(なく)千鳥


(万来舎「短歌の庫・江田浩司の連載評論」より転載)