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参考図書室
実践としての不易流行論      
谷 地 快 一

これは第二十二回時雨忌講演(平成15年10月12日 於江東区芭蕉記念館)の内容を要約したものである。

1、はじめに

 「実践としての不易流行論」とタイトルをつけました。世界や人生の根本原理のように説かれるこの思想を、本日は俳諧という文芸の現場にもどして、実は『おくのほそ道』の行脚を通して芭蕉の心に熟した旅の本質が、連句の魅力として実践されてゆく文芸観であった可能性を探ろうと思います。

2、不易流行観の現状

 不易流行を、決して変わることのない静的なものと、変わり続ける動的なもの、つまり対立する二項として説明する人がいます。しかし不易は理念(考え)であり、流行は情況(様子)です。理念は理念と、情況は情況としか向かい合わせることができませんから、この説明はなりたちません。
一方、俳諧における不易流行の定義は、元禄二年、『おくのほそ道』の旅以後に、芭蕉が門人に説いた蕉風俳諧の理念で、不易は永久不変、流行は刻々の変化を意味するが、両者は根本で同一であり、ともに風雅の誠に基づくと説かれます。そして、これは宇宙の根源主宰者としての「造化(造物主)」の恒常不変の原理を「理」、生成創造の活動を「気」とし、その本体を「誠」とする考え方に基づき、俳諧の本質と俳諧者の当為(あるべき姿)を示すものだといいます。
そうだとしても、これはいかにも抽象的で芭蕉が思想家か哲学者であるかのように難しく、私は歯が立ちそうにありません。なぜこう難しいかというと、芭蕉が直接不易流行について語ったものがなく、門人の記述を通して考えるより仕方がないからです。

3、『おくのほそ道』と不易流行

 不易流行の意味は実は『おくのほそ道』の「行き交う」という言葉が解明してくれます。例の序章にある「月日は百代の過客にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也」という一文です。
『おくのほそ道』の出立が千住の、

行く春や鳥啼き魚の目は泪

で始まり、大垣の、

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

と結ばれて、この作品のキーワードが「行く」であることは知られています。
しかし「行く」だけでは旅の本質として十分ではありません。行く春は来る夏と、行く秋は来る冬と逢って別れるのです。芭蕉は千住で見送りの人々と別れ、大垣では伊勢に赴くために、芭蕉を出迎えてくれた人々と別れる、つまり「行き交う」相手があって、初めて旅となり、旅人となるのです。
平成八年に、芭蕉自筆本の『おくのほそ道』が発見され、たくさんの貼紙訂正や推敲の存在がわかりました。その一番最初の貼紙が「立ち帰る」から「行かふ」への推敲でした。これは、「行って戻る」から「逢って別れる」への推敲といえます。つまり序章は、月と太陽が、行く年と来る年が、船頭や馬子と旅人が逢って別れるという情況を提示して、そういう万物流転の場であるゆえに立ち現れる情というものが旅と旅人の本質なのだと説いているのです。
結びの、

草の戸も住替る代ぞ雛の家

という句は、したがって『おくのほそ道』の行き交う最初の場面であります。妻子も定職も持たない世捨て人のような芭蕉と対照的な家族が「草の戸」という場で入れ替わる。「雛の家」という言葉がいかにも印象的でみごとではありませんか。不易流行とは旅と旅人の本質を、行き交う世界の発見によって説く言葉であったと思うゆえんです。

4、不易流行と連句

 ところで、旅と旅人の本質を言い当てた不易流行という言葉は、連句の本質を突く言葉でもあります。連句は複数の人で行われる長句と短句の応酬ですが、付句を請け負う局面というのは、実に旅と旅人に似ています。
付句は他者が創造した前句に制約されながら、自分の感慨を描写した世界です。付句の作者はあたかも『おくのほそ道』の序章のように、それまで予想だにしなかった前句の世界と出逢うがゆえに、むしろ未知の己を発見することになるのです。
『おくのほそ道』から一例をあげましょう。白河の関で奥州に入った芭蕉は、須賀川で等躬(とうきゅう)という人を訪ねます。そこで等躬から、歌枕である白河の関をどんな感慨で越えたかと問われます。そこで芭蕉は、感動が強すぎるあまり、ろくな作品はできなかったと弁解した上で、

風流の初やおくの田植歌

という句を披露しています。そして、「脇、第三とつづけて、三巻となしぬ」と結んでいます。一巻は三十六句です。芭蕉のこの句を発句にして、等躬と曽良の三人で三度も連句に興じたというのです。発句に続く二句(脇・第三)は次の通りです。

覆盆子を折て我まうけ草

水せきて昼寝の石やなをすらん

「覆盆子」は「いちご」で、等躬の作です。芭蕉が、陸奥の最初の感動は田植歌でしたと挨拶した発句をうけて、田舎なので野いちごくらいしかおもてなしはできませんと謙遜したのです。
また「水せきて」の句は曽良の作で、等躬がもてなす野いちごを脇に置いて、川べりでくつろぐ人物を描いています。夏目漱石の名の由来である枕石漱流の故事を踏まえています。
連句の世界はこういう付合の展開ですが、付句の作者は前句が成立するまで何の準備もできないことがおわかりいただけるかと思います。いわば万物流転の韻文の様式で、旅と旅人同様に、連句は不易流行の真剣勝負を快感とする世界なのです。

5、「三巻となしぬ」の意図

 先ほど紹介したように、『おくのほそ道』に「脇、第三とつづけて、三巻となしぬ」とありますが、実は自筆本には「一巻」とあり、それを写した曽良本『おくのほそ道』も初めは「一巻」で、それを推敲して「三巻」と直しています。芭蕉の「風流の」という発句をもとにした連句は一巻しか残っていませんので、「三巻となしぬ」という事実はなかったのでしょう。
とすれば、この推敲の意図はなにかという問題に答えを出さなければなりません。その答えは、旅と同じく連句も過程がすべてであるということ、プロセスを楽しまずに終着点へ急ぐことの愚かさを強調したかったからではないでしょうか。旅は不易流行の連続である過程がすべてです。死に急ぐところに人生がないのもいうまでもありません。つまりこの推敲には、念願の陸奥入りを果たした興奮が、ついに三巻もの連句を巻かせる結果をもたらしたという意図がこめられたのです。
芭蕉の名言で「俳諧は吟呻の間の楽しみなり。これを紙に写す時は反古に同じ」とか、「学ぶ事はつねにあり。席に臨んで文台と我と間に髪をいれず、おもふ事速かにいひ出でて、爰に至りて迷ふ念なし。文台引下ろせば則ち反古なり」とあるのは、この不易流行観と無縁でなかったことになります。連句も旅も、そして利いた風なことを言わせていただければ、人生もこの点でよく似ているといえるでしょう。

6、むすびとして

 連句の実践には、前句との関わりを指導したり、一巻全体を見渡した助言をする人が必要です。捌き手といいます。例えば曽良が第三を案じる際に、「前句のいちごを脇に置いて、川べりに昼寝する隠逸な人物がふさわしい」などとアドバイスしたかもしれません。そこで「石に枕し流れに漱(くちすす)ぐ」という教養が動員される。連句全体では、こうして時に源氏や伊勢の物語とか、中国の故事などが効果的に引用されて格調を調えます。芭蕉の本領はこうした捌きにあり、江戸市中にあって俳諧師に専念していた時代は、この捌きの能力で生計を支えたのです。
しかしながら、いま残されている連句作品は、その職業俳諧師時代に少なく、旅の俳諧師となって以降に極端に数を増やします。その正確な連句の回数は『おくのほそ道』そのものを読んでも把握できませんが、未完のものを含めると、この元禄二年の旅では三十六点ほどの作品がしられています。
繰り返しになりますが、連句作品は漂泊の旅にあって急に数を増やしています。それは見知らぬ人や歴史との、予期せぬ遭遇が旅を自覚させ、連句の魅力についてもあらたな認識をうながしたからではないかと思います。

  連句とはこんなふうに魅力的な様式なのですが、芭蕉没後はすこしずつ衰退の歴史をたどります。それは芭蕉以後の捌き手に、不易流行の世界へ誘う実力の持ち主が出なかったからなのかもしれません。ともあれ、連句の世界が見えないと、俳諧や芭蕉について見誤ることがあるということは肝に銘じておくべきでしょう。

―『下町文化』225(江東区教育委員会 平16・4・28)より転載―