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論文を読む会議事録
谷地快一先生 芭蕉の「軽み」という志向 伊 藤 無 迅

 「軽み」について何を話そうかと考え、例の如く困ったときに世話になる『俳文学事典』を読み、そこから話してみようと思いました。しかし内容が、いまひとつ抽象的で、また講演時間が一時間足らずなので考え直し、私が現在考えている「軽み」について、率直な話をすることにしました。そして、その話の中で、皆様が何がしかの興味を持たれ、後日それを調べてみたいと思うような問題提起が出来ればいいと思い、資料を纏めてみました。
 結論を先に言いますと、芭蕉の言っている「軽み」というのは、たぶん表現方法というか、そういう技術的なものではなく(そういう側面はあるにしても)、思想ではないかと思います。思想と言う言葉が、もし堅ければ「知足(足るを知る)」という人生観、ないしは信条、また大袈裟に言えば思想ではないかと考えています。これを掴んで置かないと「軽み」ある作品は、出来ないのではないかと最近考えております。もう少し難しい言葉を使えば「諦観」というものを、自分の心の中で見定めない限り「軽み」の作品は、生まれないのではないか、と思っております。
 ご存知のように芭蕉は、ある時は「仕官懸命の地を羨み」と言って、立身出世のコースを想定しながら一生懸命生きていたことがあります。またある時は、人生に挫折して、出家してしまおうとも考えた人です。
・・・・・と、通常、芭蕉を語るとき、ここまでは語るのですが、「その後に芭蕉はどういう考えの持ち主になったのか?」 と言うことまでは、あまり触れられることはありません。それは物的証拠がないからでありまして、研究者としては「そんな危なっかしい事は喋れない」と言うことになるわけです。しかし私は、その危なっかしいことを、今日、ここで平気で言ってしまう事になりそうです。
 芭蕉は、例えば『奥の細道』の中で、神社仏閣に対するこだわり、仏像に対するこだわり、あるいは西行に対するこだわり等が沢山出てきます。このため、芭蕉は人生のすべてに渡って、仏道への敬虔な意識を持っていたのかと言いますと、私はそうではないと思っています。「仏道よ、さらば」というか、仏道への「こだわり」を持ち続けて来たからこそ、芭蕉が亡くなる迄に仏道との決別が、ある時期来ていた様な気がします。そして、それが「軽み」と関係があるのではないかと思っています。
 つまり芭蕉は、最後には「あの世」というものを信じなくなっている! と最近考えております。すこし気障な言い方をすれば「無信心の祈り」と言うところに辿り着いている、と言えるのではないかと思っております。
 「無信心の祈り」ということは、どういうことかと言いますと、結局は「現世を喜ぶ」ということを徹底する心境にまで行っていると言うことです。このため芭蕉は、自分の体がとても軽く感じているわけです。そのことで、読者にも訴えかけるものが出来ていると思うのです。こういうことを長いこと考えてきたのですが、いくら悩んでも私の頭では論文にならない。しかし論文でないから、こういう機会に気楽に話したら、ひょっとしたら誰かが助けてくれて、このあと勉強してくれるかもしれないと考えています。
これが結論です。この結論を今日の資料で皆さんに理解してもらえるかどうかは、これからなのですが、言いたい事は、以上のとおりです。

 芭蕉会議は、研究者になるための研究会でもなんでもありません。私は、会員が、せめて一年に一句か二句、自分で「いいなー」と思えるような句を残せるように、支援したいと思い、今迄いろいろな話をしてきました。今日の「軽み」も、そういう一句を生み出すための応援歌になれば、と思っております。

 それでは用意した資料で、今迄述べてきた事が具体的に汲み取って頂けるか、心持てませんが、皆さんにお計りしたいと思います。
 「軽み」ということは端的に申しますと、芭蕉が『奥の細道』の旅をしている最中から強くなってきた心境ではないかと思います。「軽み」という言葉は、それ以前にも文学史的にはあったと言われていますが、芭蕉の中では、やはり『奥の細道』が、そういうことを考える引き金になったと思います。
 ということは元禄二年が『奥の細道』の旅ですから、元禄三年以降の芭蕉の資料を調べて行けば、芭蕉の考える「軽み」というものが、判る資料が出てくるのではないかと思うわけです。と言うことで、元禄三,四年の資料を、ここに引用しました。

 一番目は、元禄三年の千川宛書簡であります。有名な書簡でありますので知っている方もいるかと思います。
      都ちかき所にとしをとりて
    薦(こも)を着て誰人います花の春  芭蕉(『其袋』)
 この句は、薦(こも)を被った乞食を詠った句です。「誰人います」という、つまり「どなたが、おいでなのでしょうか」という言い回しを見ますと、作者は薦を被った乞食に敬意を払い、尊敬の念で接しようとしている事が判ります。そして「花の春」と結び、乞食の類を遠くから眺め、どなたなのであろうと思った句を、新春の喜びの句(歳旦句)にしていることになります。
 実は、この句は京都の俳人達の間で、物議がかもされたものです。めでたい新年の句に乞食を詠むとは何事だ、という噂が立ちます。噂は芭蕉の元にも入ってきます。
このことを踏まえて資料最初の芭蕉の手紙を読みます。なお、この手紙は芭蕉が「軽み」について述べているものだと一般に言われているものです。前半は、こんな句をなぜ歳旦帖に載せたか、その理由を述べています。重要なところは、
    愚眼ゆゑよき人見付けざる悲しさに、再び西上人をおもひかへしたるまでに御座候。
であります。これは、この時から五百年ほど前に、西行が『撰集抄』で書いたことを、芭蕉が思い出し、その感想を述べています。つまり仏道に入るということは、父親が坊さんだから後を継いで仏道に入るというものではなく、本来はその人に道心があり、何らかのきっかけで背中を押してくれる人がいて、始めて仏道に入るものだろうと思っている。しかし「愚眼ゆゑ」というのは、自分が中途半端でいるため、そういう仏道に背中を押してくれる人を、未だ見つけていない。たまたま、そのような立派そうに見える人が薦を被っていたので、西行を重ね合わせ、一句にしたまでである、と言っているわけであります。
 理屈で言うと「仏道修行者の中で一番純粋な修行者は乞食坊主である」というような考え方が中世にはあります、芭蕉はそういうものを通して西行を思い返したといっているわけです。そして、
    なお俳諧発句、重くれず持つてまはらざるやうに、御考案なさるべく候
と述べ、俳句は持って回ったような言い方は、しないようにと言っています。
これは多分に表現の問題を含んでいるかもしれませんが、確かに乞食坊主の句を詠むのに「薦を着て誰人います」と詠んでいるのは、重たさ(重くれず)という点を配慮しているように思います。

 二番目は、やはり元禄三年の書簡です。
    元禄三年のとしの大火に庭の桜もなくなりたるに
    焼けにけりされども花は散り済まし   北枝 (『卯辰集』)
    十銭を得て芹売りの帰りけり      小春 (『卯辰集』)
 一句目は、元禄三年の(金沢の)大火で、庭の桜も焼けてしまいましたが、花は時期が終わっておりましたので、それが慰めです、と言う一見キザな句です。北枝はご存知のように金沢の刀の研師であります。芭蕉が『奥の細道』を旅したときに、金沢で出向かえ、福井まで同行した人です。
 二句目の作者、小春(しょうしゅん)は、やはり芭蕉が『奥の細道』の旅で、金沢に滞在したとき、弟子入りした商人(薬種商と言われている)です。ですから北枝と小春は金沢の俳句仲間であります。
 芭蕉はこの二句について小春に宛てた手紙の中で、
    両御句珍重、中にも芹売りの十銭、生涯かろきほど、わが世間に似たれば、
     感慨少なからず候。

と評しています。「珍重」は、大変結構ですね、という誉め言葉です。中でも「芹売りの十銭」句が大変良いと述べた後、芭蕉の境涯と重ね合わせて人生は身軽な方が良い、この芹売りは私の人生に似ており、人の句とは思えない程であると言っています。
 この芹売りの句ですが、優れた良い句と思える人と、あまり評価できないと思う人とに、両極端に分かれるとしたら、後者(評価できない読者)の人生は重たく、前者(良い句だと思う人)の人生は軽い、と私は思うのですが、如何でしょうか?
 もうひとつの句「庭の桜」の方も、取りようによっては「朝顔につるべ取られて〜」の句のように、少し鼻につくようなところがありますが、芭蕉の言う「生涯かろき」という扱われ方では、この二句は共通しているところを持っていると思います。
 この「軽さ」と言うものですが、「芹売りなんていうのは馬鹿なものだねー、十銭あげたら喜んで帰って行ったよ」と、とる人と、「あの芹売りが十銭をもらった時の顔といったら、なかったねー、まったくいい顔をしていたよ」と、とる人がいると思います。言葉だけをとらえれば、どちらにも取れそうですが、そこに読み手(読者)が持っている自分の人生の重たさ、あるいは軽さが、投影するという微妙なものが、この句の十七音には、あるような気がします。
 冒頭「足るを知る」と言いましたのは、そんなことであります。「諦観」も悲観的なものと捉えるのではなく、自分の人生を納得させる、自分を誉めてやる、今もっているもので満足する、というそのような心が、私たちの俳句を良くも悪くも、するのではなかろうかと思うわけです。
 「良く生きていればそれだけで良い俳句が出来る」と、かつて教えられたこともありました。しかし此の頃は、良い句を作る事ができたら、そのお陰で、その句に教えられ、いい一日が送ることが出来ると考える事があります。

 三番目は、「何事も何事もお楽しみなさるべく候」と表題を付けましたが、これは元禄三年、牧童宛の書状にある一節です。
 一、二例を挙げて芭蕉はこういう思想の持主であったと鬼の首を取ったようなことを言ってはいけないのですが。不勉強なので、そのうち万人が納得するような資料を得られれば論文にしたいと思いますが、
    世間ともに古び候により、少々愚案これ有り候て、心を尽くし申し候。
    
(中略)諸善諸悪みな生涯の事のみ。何事も何事もお楽しみなさるべく候。
という書状の中の一節、特に(中略)以降の文章を初めて読んだとき、私は衝撃をもって読みました。何故かと言いますと、芭蕉の「西行敬慕の念」を、ずーっと教わっても来たし、勉強もしてきたのですが、ここ(この一節の中)には「西行は、いない!」と思うからであります。
 芭蕉は露骨に晩年「俳句はね、老後の楽しみですからお楽しみ下さい」と言っているわけです。今、俳人にこのようなことを言えば叱られてしまうでしょう。つまり、この世にあるうちの楽しみだ、といっているわけです。それに関連して芭蕉は、「諸善諸悪みな生涯の事のみ」と言っています。卑近な言い方をすれば「喜怒哀楽も生きているうちのことだけだよ、存分に楽しめ!」と言っているわけです。
 牧童という人は、やはり加賀の俳人で、前述した北枝のお兄さんです。やはり加賀藩の研師であります。芭蕉が金沢を発った後、まるで誰か名のある宗教者が通り過ぎたように、金沢には芭蕉を支持する俳人グループが出来ます。その有力なメンバーが、北枝、牧童、小春になるわけです。このあと金沢は、俳句のひとつのメッカになるわけですが、芭蕉の「祖述」と言いますが、芭蕉の文学観・人生観が伝承として残ってゆく事になるわけです。金沢はそういった面白いところです。

 最後の四番目に移ります。
 前述した芭蕉の「楽しめ、楽しめ」とは、一体どんなことで、何を楽しんでいたのかが気になります。そこで、そう言うことを、ちょっと覗き見するために、その頃芭蕉が書いた『嵯峨日記』を見てみました。
 芭蕉の弟子に「俳諧奉行」と呼ばれた堅物の優等生、去来がいます。この『嵯峨日記』は、芭蕉が元禄四年、去来の嵯峨にある別荘「落柿舎」に滞在したとき書かれたものです。この『嵯峨日記』は、芭蕉の唯一の等身大の日記と言われています。『奥の細道』は、ご存知のように作り上げられた創作であります、書簡についても、こう言っては今迄の説明に自ら水を差すことになりますが、まるで文学作品のようです。そういった意味で『嵯峨日記』は、私の好きな文章のひとつです。
 この『嵯峨日記』は、今迄紹介してきた手紙の直ぐ後に書かれています。このため芭蕉が楽しみにしていたことは一体どんなものか?、という疑問を、この日記に投げれば、何らかの手掛かりが、あるのではないかと考えて、そこから幾つか引いてきました。
 まず、芭蕉が「落柿舎」に、暫く滞在しようと思った時(元禄四辛未卯月十八日)に、自分の側に、どんなものを置いていたか、ということが四月十八日の日記に出てまいります。
    舎中の片隅一間なる処伏処ト定ム。机一、硯、文庫、白氏文集・本朝一人一首・
     世継物語・源氏物語・土佐日記・松葉集を置、並びに唐の蒔絵書たる五重の器に
     さまざまの菓子ヲ盛、名酒一壺盃を添たり。夜るの衾、調菜の物共、京より持来た
     りて乏しからず。我貧賤をわすれて、清閑ニ楽。

寝るところを決め、机一つ、硯、文庫(ふぐら)・・・・と書き出しています。
『本朝一人一首』は漢詩集、『世継物語』は『大鏡』の類、『松葉和歌集』は名所和歌集であります。おまけに、お酒までそばに置き「落柿舎」滞在を始めます。
 以上のように芭蕉は、こんな風に引篭もることができる、と自分を客観的に見せた後、最後の結びの文、「我貧賤をわすれて、清閑ニ楽。(われひんせんをわすれて、せいかんにたのしむ)」と結んでいる事に注目したいと思います。
 「貧賤」「清閑」という言葉は、ふだん我々が日常使っている言葉とは、少し意味合いが異なると思うからです。「乞食でよろしいと言う覚悟」や、「閑かさや岩にしみいる蝉の声」という句を思い出してみれば分ることですが、静かに閑かであること、静寂をもたらされると言うことは、自分にとっても誰にとっても等しく、己(おのれ)自身を見つめると言う時間をもたらしてくれる。そう言う意味で「我貧賤をわすれて、清閑ニ楽。」に注目したいと思います。

 次の二十日のところですが、落柿舎は創建当時のままで、手を入れずにありますので、ところどころに破損があり、言わばボロボロになっていました。しかし、
    中ゝに作みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。
と、芭蕉は書いています。
 つまり、真っ白で綺麗な障子より、雨に濡れ破れかけている障子、あるいは庭師を入れて整理された庭より、雑草生い茂り奇石は草叢に埋もれている庭の方こそ見所が多い、と言うようなことを書いており、そこに注目したいと思います。これも多くを望まないという心から出ている益だと思うからです。

 それから、二十二日の日記には、
    けふは人もなく、さひしきまゝにむだ書してあそぶ
と書いています。
また、最後の方には、昔作った句「うき我をさひしからせよかんこどり」と書いて、そう言えばこんな句を昔作ったなー、と懐かしんでいます。
 私たちが普通「さびしい」と言うときは、すぐに「誰かと一緒にいたい」という反応になって表れますが、「さびしさを楽しむ」、「独りを楽しむ」というところに注目したいと思います。
 冒頭の「さひしきまゝにむだ書してあそぶ」に戻りますが、どんな無駄書きをしたかと言いますと、
    喪に居る者は悲をあるじとし、酒を飲ものは楽をあるじとす。「さびしさなくばう
     からまし」と西上人のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。

と書いています。
「あるじとし」と言うことは、「その気分に徹する」と言うことです。喪にある時には、トコトン悲しむ、と言うことです。酒を飲むときはトコトン楽しめばいい。また西行が詠んだ句「さびしさなくばうからまし」をあげていますが、これは「さびしさ」を、あるじとした句で、「さびしさ」がなければつまらない、つまり「さびしさ」に徹するということを詠んだ歌なのであろう、と芭蕉は書いているわけです。
こう言うことを受けて、最後の、
    うき我をさひしからせよかんこどり
の句に繋がっていくわけです。
 続いて、
    独住むほどおもしろきはなし。長嘯隠士の曰、「客は半日の閑を得れば、あるじは
     半日の閑をうしなふ」と。

と書いています。
 長嘯隠士は木下隠士のことです。お客が半日訪問すれば、それに応対したホストは、半日自分の時間(人生)を失うよと長嘯隠士は言っている、と書いています。
 すこし話は飛びますが、高名な俳文学者で京大教授でもあった頴原退蔵は、訪問客に会う際、一本の煙草に火をつけて、この煙草の火が消えるまでに用件を済ませるよう客に求めた、と言うエピソードがあります。少し長嘯隠士に似ているなと、急に思い出しお話をしました。
 素堂という芭蕉の親友が居ました。素堂はこの長嘯隠士が大好きでした。その素堂は芭蕉に先んじて、江戸の郊外に草庵を作り暮らした人です。ですから、あるいは芭蕉よりも早く、このような心境になったと考えてもおかしくはないと思います。

 最後の二十五日の日記ですが、漢詩が並んでいます。これを私が説明してゆくと二時間ぐらい掛かりそうです。残り時間が無くなりました、残念ですが省略します。
時間がないのですが、同じ脈絡なので、二十七日の最後の語句だけを説明します。
    人不来、終日得閑
誰も今日は来なかった、寂しい。と書いてあります。
しかしそのお陰で一日中、閑を自分のものにできた、と述べているわけです。

 以上、芭蕉はあらゆるものを軽くして行き、何を楽しみにしていたかと言うことを、『嵯峨日記』で紹介してきました。

 さて、これ以降の芭蕉さんのことです。
 仏道と言うものは、「あの世」が約束されています。
 ・・・・が、晩年の芭蕉には、これ(あの世)は無くなっています。
 もう少し言えば、こういう重たさと決別するために、『奥の細道』が書かれた、と私は思っています。つまり『奥の細道』という本は、そういう自分を、かなぐり捨てるために、実は書かれたのだと思っています。
 しかし、それは思っているだけで、今日のお話より、さらに説得力がありませんので、本日はこのぐらいにして、俳句を作るときの、ちょっとした応援歌にして頂けたらと思います。
 ご清聴有難う御座いました。 < 拍手 >

<若干の所感>

 昨年の「第5回芭蕉会議の集い」では、谷地先生の「芭蕉のことば−俳人のあるべき姿−」を、大変興味深く拝聴しました。今年は昨年に続き、芭蕉晩年の境地と言われている「軽み」について、ふたたび味わい深いお話を聞くことが出来ました。いずれのお話も、我が俳句人生に、大きなインパクトを与えています。
 私事で恐縮ですが、私は今年の二月、長年お世話になって来た俳句結社を辞めました。いろいろの方にその理由を聞かれましたが、ただ「俳句観が変わった」とのみ、お答えしてきました。自分でも、それ以上具体的なことを、説明する自信がなかったからです。
 今回のお話を聞き、その答えのひとつが分ってきました。それは、多分、軽くなりたかった・・・・、と思っています。
おわり