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論文を読む会議事録
東 直子さんの「短歌と散文の狭間」を聞いて 伊 藤 無 迅

去る平成22年6月20日に掲題の講演を、第5回「芭蕉会議の集い」で拝聴しましたので以下にその概要と所感を述べさせて頂きます。

1. 講演の概要
■短歌と散文について
・ 短歌を20年前から、小説を5年前ぐらいから始めているが、双方をやられている方は比較的少ないので、掲題のようなタイトルにした。
・ しかし内容的には論文的な難しいものでなく、双方の差を耳で聞いて頂こうと思い資料を用意した。
・ 韻文(短歌)と散文の違いは何だろうと自分なりに考えると、韻文は韻律を刻むもの、散文は文章そのものであろう。
・ 短歌(俳句も同様だが)は韻律を刻む定型の文、言葉をコンパクトにすると万葉集や古今集も、そうだが作者を離れて同じ土俵に上げて比べることが出来る。また別なものを集め直したり、並べ直したりすることで別な顔(一面)を見せてくれる。これに対して詩とか散文は、このようなことをやれないことはないだろうが、やはり韻文に比べてやりにくい。
・ コンパクトであるため、上記のように並べることで競い合わせることも出来る。さらに流通しやすくなるし、後世へも伝えやすくなる。
・ コンパクトになり流通しやすくなった定型詩は様々な人に届けられ、それを解(ほど)くことで、いろいろな形に読まれる。
・ 短歌はもともと歌垣などで詠われたようにそもそも耳で聞くもの、最近こそテキストが普及してため、目で鑑賞した結果その作品に様々な鑑賞・評価論が付いて回っているが、原点に戻り耳で味わう機会があっても良いのではないか。
・ と言うことで、本日はあまり難しいことは言わず、用意した短歌と散文を朗読させていただき、その違いを感じて戴ければと思います。
■朗読
・ 朗読の前に、今日NHKラジオの放送に一緒に出た町田コウ(?)さんが、初めて短歌を作った感想を述べていたが、面白いので以下紹介します。
・ 散文は時系列というものが大事だが、短歌は時空間を自由に越えられる文学だと感心した。いわば夢の中の世界にありながらリアリティーを出せる。「夢の中の時間」で作品を作れる面白い世界である。
・ 以下、朗読(与謝野晶子、大西民子、リフレーンの歌、東 直子)
・ 晶子の歌には関西弁のイントネーションで詠んだほうがしっくりする歌がある。多分関西(大阪、堺)にいる時分に詠んだものだろう。
・ 大西民子の歌はその境遇(離婚、肉親が全て他界)から孤独感・喪失感の歌が多いが、暗い感じがしない。それは韻律の明るさからきている。
・ リフレーンの歌について。
・ 覚えている歌はリフレーンが多い。また人口に膾炙している、或いは歴史に残っている歌はリフレーンの歌が多いように思う。
・ リフレーンは詠んでいて気持ちがいい。字数がもったいないという人もいるが、それを越え何かがある。
・ 短歌はコンパクト化だと話したが、何をコンパクト化するかが問題。その歌の中心となる言葉、或いは論理的な言葉はもちろんだが、その時のあるいはその時代の共鳴する感覚をコンパクト化するほうが印象に残る歌になるように思う。その中にひとかけらのたましいが入っていれば言葉は伝わる。
・ では、何をリフレーンするか。切ない歌の中で明るい響の開口音を持つ言葉が効果的であるように思う。
■即興話
・ 題「蛇の話」 ・・・・ 省略。(関西のイントネーションで)
・ 題「掃除機と煙」(会場から題をもらう) ・・・・ 省略。
(標準語のイントネーションで)
・ 即興話をしてみて。
・ 関西弁・・・・まったりした、面白い・明るい内容になり勝ち。
・ 標準語・・・・シリアルなどろどろとした内容になり勝ち。まじめ、どちらかというと暗い展開となる。

2. 講演後の質問・感想(聴衆者からの)
・ 谷地先生・・・自分は竹の皮を脱ぐように捨ててきて現在にあるが、お話を聞いていて、もう一度30年ぐらい前に戻りたい衝動に駆られた。
・ 安保先生・・・西鶴は韻文から散文へ入っていった人だが、その散文はかつて西鶴がやった大矢数の手法から生まれているとの最近の研究がある。今日はまさに言葉が湧き起こる現場を拝見できてよかった。
・ 東さんの応答から
・ 言葉が生まれる際、いろいろな通路がある。あるとき何かに触発されて出てくる場合がある。いろいろな言葉を皆が持っているのだが、自分の環境(地位や立場など)などで、それに蓋をしている。
・ それが場所や人、時間などに触発されて出てくるようで、何に触発されるのかを見て、言葉を引っ張り出す訓練は常にしてゆきたいと思う。


3. 若干の所感
期せずしてというか、江田さんのお骨折りで、前回の穂村ひろしさんに続き今回、東直子さんという歌壇を代表する新鋭歌人のお話を聞くことが出来た。お二人に共通して思うことは、「言葉を大事にしている」ことである。勿論、俳人が言葉を大事にしていないということではない。言葉を大事にするその「しかた」が少し違うのではないか、と思う。以下この点で所感を述べたい。

・ 東さんは講演の中で、短歌はもともと歌垣の中の話し言葉が原点。すなわち耳で聞くものであることを強調しておられた。つまり耳から入って魂を揺さぶるものが韻文の原点、との考えから朗読のテキストを準備していたようである。だから朗読のときはテキストを見ないでくれと言っていた。
・ 翻って俳句はどうだろう。俳句を始めたばかりのころ、句会で先輩から選句は「読んで、書いて、詠んで(自分で口ずさんで)決めるもの」と教えられたものである。それでも選句後の披講者の披講を聞いて「しまった」と、取り落しに気がつくことも度々あった。ところが、最近は句会の中でさえ披講をしない句会が多いと聞く。
・ 講演の中で、「最近こそテキストが普及し目での鑑賞が多くなったが、もともとは耳が主体」と話されていた。ある情報によると耳から入るものは目から入るものよりより認識度が高く、記憶も深いといわれる。東さんは短歌の原点に戻り、かつて和歌がそうであったように、耳で聞き魂に響く言葉探しをされておられるようだ。
・ 俳句は字数の制約から、配合とか二物衝撃という表現効果を用いる。つまり言葉の組み合わせに細心の注意を払って推敲する傾向がある。こうなると耳で聞くよりも目で(テキスト上で)見る言葉探しが多くなる。すなわち耳より目からの言葉探しが主体になるのは、どうしても否めない。
・ 俳句の合評等でよく言われる評の中に、「言葉に頼りすぎ」「言葉にすがり過ぎ」「言葉が浮いている」「言葉に凭れ掛かり過ぎ」という評がある。これは言葉が目立ちすぎるという不思議な鑑賞である。
・ 逆に言えば言葉の重みが極端に表れる詩型かも知れない。たった十七文字という制約からくる俳句独特の言葉観なのだろう。
・ 言葉のもつ効用が突出しすぎるという鑑賞は俳句ならではのものかもしれない。このため、俳人は言葉選びに臆病になっているのかもしれない。
・ これに対して歌人は、奔放に言葉探しをしているように見えるが、どうであろう。
以上