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論文を読む会議事録
朔太郎と蕪村
―詩人の〈救い〉としての蕪村俳諧―
安保博史
与謝蕪村の座右の書は、弟子の月渓が、師翁物故の後、余ひさしく夜半亭にありて、机上なる陶靖節(=陶淵明)の詩集を閲るに、半過るころ此しほりを得たり。これ全く淵明のひととなりをしたひてなせる句なるべし。と記す如く、陶淵明の詩集であった。
「陶靖節の詩集」の栞(しおり)は、その証である。「これ全く淵明のひととなりをしたひてなせる句」とは、「桐火桶無絃の琴の撫ごころ」の句を指すが、この句は、陶淵明の「無絃琴」の逸話を踏まえ、「無音の音」ならず「無言の詩」を楽しむ意を寓する。蕪村という号自体、陶淵明の「帰去来辞」の中の「田園将ニ蕪(あ)レナントス胡(なん)ゾ帰ラザル」の詩句を意識し、故郷回帰の念を言い込めたものであり、蕪村代表句の「花茨故郷の路に似たるかな」の前書き「かの東皐にのぼれば」にしても、「帰去来辞」の「東皐ニ登リテ」の詩句に基づくことに注目すれば、蕪村がいかに「帰去来辞」の世界に、面影としての〈故郷〉を重ね合わせ、帰郷を欲しても帰郷し得ない自らを慰藉しているかが感得されるのではないか。 
蕪村の故郷は「馬堤は毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也」(柳女・賀瑞宛蕪村書簡)と告白する通り、摂津国東成郡毛馬村だが、十代後半出郷後、帰郷経験は皆無、故郷に葬られた形跡もない。蕪村は死してなお「故郷喪失者」であった。
一方、昭和初期、萩原朔太郎は、蕪村句集を耽読していた。昭和四年から五年、妻との離婚葬儀、父の死去による家督相続問題等、現実生活のトラブルが打ち続き、
ああ この暗愁も久しいかな!            
我まさに年老いて家郷なく              
妻子離散して孤独なり                
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。             
(「珈琲店 酔月」、『詩・現実』第四号〔昭和六年三月〕)                
と惨憺たる人生の漂泊者としての自己意識を吐露するしかなかった朔太郎の眼前に、「故郷喪失者」蕪村が、「見ぬ世の人」(『徒然草』第十三段)にもかかわらず、単なる鑑賞や学問的研究の対象ではなく、通底し合う詩情を有する座右の「友」として蘇ってきたのである。そして、蕪村が陶淵明を通して行った如く、「故しらぬ霊魂の郷愁」(『青猫』自序・大正十二年刊)、「魂の永遠の故郷」(『詩の原理』・昭和三年刊)を思慕する朔太郎も蕪村の詩的世界に自分自身を重ね、蕪村句を繰り返し「郷愁」の視点から解釈する営みを通して、自らの詩人としての本質と矜持を再認識したのである。                
例えば、「葱買て枯木の中を帰りけり」なる蕪村句に関する朔太郎の、枯木の中を帰りながら、郊外の家へ帰つていく人。そこには葱の煮える生活がある。貧苦、借金、女房、子供、小さな借家。冬空に凍える壁、洋燈、寂しい人生。しかしまた何といふ沁々とした人生だらう。古く、懐かしく、物の臭ひの染みこんだ家。赤い火の燃える炉辺。台所に働く妻。父の帰りを待つ子供。そして葱の煮える生活!(『郷愁の詩人 与謝蕪村』より) という鑑賞文の中に、「洋燈(らんぷ)」といった、およそ江戸期の庶民生活にはあり得ないものが登場しても、「家郷(ハイマート)」を欲し続けた朔太郎自身の生活や自己史の刻印として読み為すならば、この種の時代錯誤や誤読さえも朔太郎の発想の基底を知る貴重な手掛りにさえなり得るのである。  
  朔太郎が蕪村を語ることは、自らを語ることに等しい。そうした蕪村を通した、自己の再発見・再評価の書とも言える評論集『郷愁の詩人 与謝蕪村』(昭和十一年刊)は、期せずして、蕪村俳諧の詩情(ポエジー)の本質が〈郷愁〉であることを発見し、蕪村の〈近代性〉を鋭く解き明かすことになった。蕪村は、真の〈蕪村〉として蘇り、朔太郎は蕪村に救われたのだ。僥倖と言うほかない。