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論文を読む会議事録
座談会「詩が生まれ出る時−他者の力学」を聞いて 筆録 上野晋司
監修 谷地快一

■初心とは何か
 根本文子 全体に、作品は相手に届かなければならない、そのための言葉の往復というお話はよく分かった。驚いたのは「じだらくに寝れば涼しき夕べかな」の句で、〈夕べかな〉と結んだ芭蕉の力量、これで主題としての閑居の心が明確に出た。「玉棚のおくなつかしや親の顔」という句では、〈その思ふところ、すぐ句になること〉を知りなさい、つまり、句作の際にあまり考え込むのはよい結果を生まない、という意見は体験的にもよくわかる。
椎名美知子 俳句の言葉の難しさを感じた。「初心の輩」(去来抄)は難しい表現を使うなと言っていたが、それは俗談平話という考えと同じものなのかどうか、深く思い沈んではいけないという教えは、見たものを見たままに表すとか、客観写生という概念とどう関わるかについて考えさせられた。
江田浩司 こうした論書でよく出てくる「初心」とは何か、これはきちんと考える機会をもうけた方がいい。

■時間をかけた推敲
 根本 一方「涼しさの野山にみつる念仏かな」の句では、はじめ〈ひいやりと〉という上五が、芭蕉によって〈風薫る〉に直されたが、後に撰集に入れる際にはふたたび〈涼しくも〉となり、さらに『去来抄』の段階で〈涼しさの〉へと改められた。同じ句が何年もかけて、繰り返し推敲されてゆくことがおもしい。
小出富子 私も同じだ。ひとつの句を何度も作りなおし、捨てなかった。その心を自分が句を詠む場合に重ね合わせて、いろいろ考えてしまった。

■「古び」とは何か
 根本 ところで、「玉棚のおくなつかしや親の声」という句の初案、「面影のおぼろにゆかし玉祭」を、芭蕉は〈古びに落ち申す〉(去来抄)と言っているが、どこが古いのか。
安居正浩 語が古いということだろう。
江田 いや、姿としては俳句になっているが、面影と玉祭という結びつきが予定調和的であるという側面を指摘した言葉ではないか。いかにも類型的な連想で面白みに欠けている。
谷地 表現の奥に見える姿の輪郭が描けないから、読者の心に響かない。リアリティの欠如がこの句を古くみせている。〈「親の顔」と置かば、句になるべし〉(去来抄)という芭蕉の言葉は、人の心に届くものになる、という意味だ。
江田 玉棚という言葉自体が観相の強いものである。その観相を引きずったままで句作すると、こうした句になってしまう。かつて、秋桜子は短歌の韻律を俳句に持ち込もうとして失敗した。自己完結的な世界である短歌を、投げかけた言葉が他者に作用する俳諧に持ち込むのは間違い。それで秋桜子の句は饒舌になってしまった。

■他者の力学をめぐって
 江田 他者の力学とは、作者が投げた言葉を他者がどう受け取るかということ、つまり語が持つ意味ではなく、投げ出した言葉そのものを読み手がどう呑み込んでくれるかという問題ではないか。その他者の力学が作用した結果として、本当に作品がよくなっているかどうかは検討の必要があると思う。たとえば、去来の「ひいやりと野山にみつる念仏かな」の上五を、芭蕉は〈風薫る〉と直した。そこからは、

風薫る/野山にみつる念仏かな
風薫る野山にみつる/念仏かな

という二つの世界が描ける。そのどちらが成案かを決めずに話を進めることはできない。
谷地 その問題は、

涼しくも野山にみつる念仏かな
涼しさの野山にみつる念仏かな

で扱う方が論じやすい。この二句の切れはどこか。
堀口希望 〈涼しさの〉で切れている。
安居 私も〈涼しくも〉、あるいは〈涼しさの〉で切れていると思う。
谷地 そこで切ってしまうと、因果的な側面が強くならないだろうか。
江田 世界の重なりなので、特に因果ではない。「みつる」を連体終止としてしまうと、ふたつの世界が断絶してしまう。
谷地 そうかな、涼しさが野山に満ちているという一文と、〈念仏かな〉という詠嘆の二者を、別物として向き合わせた方が余情深いと思ったのだが。

■他者とは誰か
 堀口 宗次の〈じだらくに〉の句も、去来の〈玉棚の〉の句も、こんなふうに推敲されては、もはや推敲した芭蕉の句というべきだ。また〈涼しさの〉の句も最後まで芭蕉による手が入り、全体の調和がはかられてゆく。こうして作者が消えてゆくことを他者の力学と呼ぶのか。
江田 作者の意識の問題だ。どんな高名な先生に直されていても、推敲以前の形で発表する人、直されたものを自分の句と考えられる人といろいろだ。直された結果をよくなっていると判断できる場合も、そうでないも場合もあるだろう。
安居 作品を媒介にして作者と他者がつながるのは昔も今も同じ。だが、堀口さんの疑問は、宮脇氏の示した関係は添削、つまり指導被指導の実態であり、いわゆる他者の力学とは違うのではないかということだろう。
江田 普通は、他者との力学といえば万人への影響、そこでどう解釈されたかという問題だ。作者の意識は別でも、読者の受け止め方が違う。その差違が生み出す温度差を他者の力学という。
谷地 広い意味では弟子にとって師匠も他者である。この場合の力学のベクトルは推敲という方向に働く。だが、宮脇氏の講演を聴いて、他者とは誰かという問題を抽出できたことは私たちの財産である。こうして顕在化した問題をそのままにせず、次のステージに押し出して、またみんなで研鑚できればと思う。

― 畢 ―
(会議日7月23日、9月24日)