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論文を読む会議事録
芭蕉会議の集い 平成二七年七月三一日(金)〜八月一日(土) 
参加二七名(芭蕉会議一三名、たしなみ句会一四名)
鵜の岬一泊吟行会―たしなみ俳句会合同句会― 谷 地 海 紅

 七月三十一日(金)、八月一日(土)の鵜の岬一泊吟行会はお疲れさまでした。このたびの「芭蕉会議の集い」は、たしなみ句会との合同句会として企画されたものです。たしなみ俳句会の皆さまには句会一切を仕切っていただき、帰途は自家用車に分乗させていただくという、芭蕉会議にとってはまことにぜいたくな旅になりました。厚く御礼申し上げます。
 私は、旅の訪問地は明確な目的を持った土地がよいということを芭蕉の紀行に学びました。平成二十四年十二月十五日には「いづみ荘」(茨城県石岡市高浜)で一泊吟行句会をおこない、その年の「芭蕉会議の集い」としましたが、これにもむろん理由がありました。それは、この宿が高野素十ゆかりであること、隣接する高淵寺観音堂(廃寺)に「湖の月の明るき村に住む」(野花集・S27)という句碑があることでしたが、加えて堀口希望さんの郷里が沿線の土浦であることでした。しかし、希望さんは恙の検査がにわかに決まり不参加。結果として、希望さんを御案内できなかったことが、心残りとなりました。
 昨年の十一月と十二月に茨城県県北生涯学習センター(日立市十王町)の依頼で「たしなみとしての俳句」という、全十時間の講座を担当しました。引き受けた理由の一つに、私の俳句はこの沿線の人々に育てられたという恩返しの思いがありました。果たして、その聴講者の中に杉本勝人・加藤君江(俳号鮎)両名の懐かしい顔がありました。この講座から「たしなみ俳句会」が生まれて七ヶ月、お誘いに甘えて、このたびの合同句会が成立したわけです。鵜の岬の隣町である高萩が、戦争未亡人として気丈に生きた、希望さんの岳母の町であることも、ゆたかな旅情をもたらしました。奥さまの母上の遺句集を編む際に、希望さんは高萩に足を運ばれ、岳母と句会仲間であった加藤君江さんにお目にかかっていたとのこと。お二人の再会をまのあたりにしつつ、「いづみ荘」以後の心残りが治まってゆくのを覚えるのでした。
 三十一日の十王駅に迎えに出てくれた杉本勝人氏から、「こうして一年間の吟行経験を積むとき、たしなみ俳句会の人たちは、自分の一年前と現在を比べて、その成長ぶりにみずから気付くことになる。そう信じて努力している」と言われ、胸が熱くなる思いをしました。合同句会もそのような緊張の雰囲気の中で充実した会になったと思います。芭蕉会議・たしなみ句会にとって、今後の課題は季題(季語)の学習でしょうか。古典(本意・本情)が身につき、独りよがりを修正する意味があるからです。
 さて、このたびの句会報は、「たしなみ句会」宛お送りしている講評の形式をそのまま芭蕉会議の句会報とさせていただきます。ただし、芭蕉会議にはこうした句評に慣れていない人も含まれていますので、私が今まで「たしなみ俳句会」の皆さんにお話ししたことを、以下の通り要約しておきます。御参考にしていただければ幸いです。

一、 俳句は事実を〈美しく〉切り取り、言い取って、今生きていることを喜ぶという、とても身体によい詩歌です。
二、 作品の評価について、作者と読者の思いが完全に一致することはありません。初めのころの作者は、仲間が自分の俳句をわかってくれないと感じて、内心不満なことが多いのですが、句会は高得点を期待するためではなく、自分の弱点を知る目的で参加する。これが上達のカギだと言われています。自分を表現する力は、他人の句を選ぶ力に等しいからです。
三、 講評は読者の立場でするもので、作者の心に忠実なものとは限りませんから、的外れな解説もあるでことでしょう。そうした場合は、自分の表現にあいまいな点がないか再考してみてください。あわせて自分以外の人の句の明快さに学んでください。
四、 私の指摘を鵜呑みにする必要はありません。吟行で同じ景色をながめた仲間がそばにいるのですから、仲間の句を良いところを見つけ合って、楽しみながら、長くお続けください。
五、 私は国語の教師で、俳人としては未熟者の一人に過ぎません。ですから、日本語表現としてよりよく、スッキリさせるにはどうすればよいかということを考えて感想を述べています。しかし、だんだんその必要もなくなってきたかもしれません。そろそろ余計な解説はせずに、私の好きな句を選ばせていただくだけにしようかなと思い始めています。それほどにみなさんは上達されています。
六、 吟行もされたのですね。吟行が一番の修練になりますね。どこが修練になるかというと、吟行をすると、見るもの、聞くものをとらえる日本語が自分に不足していることを実感します。長く生きてきて、不自由したことのないはずの日本語が、自分の感情表現のために、まだまだ不足していることがわかる。そして季題・季語を学びたい、俳句の型を身につけたいと思うようになる。そこで古今の名句や秀句に関心を持つようになる。これがよい勉強なのです。
七、 十王パノラマ公園を知りませんが、句を読ませていただいて、ダムがあること、噴水があがること、辛夷や囀りが春を告げて、たぶん植物に詳しいどなたかが「これはマムシグサ……」などと解説してくれて、みなさんで句を案じられたのだろうと、うらやましく思いました。
八、 驚いています。対象を眼や耳できちんととらえている句がにわかに多くなっています。詩歌はその時々の自分の心との対話ですから、何十年の経験者でも、納得できる作品が出来るときと、出来ないときがあるものです。その意味でみなさんの上達は早い。
九、 俳句を作ることで、自分の心の曇りを払って、日々お仕合わせに過ごされることを祈ります。
十、 焦らず楽しみながら、お知り合いを誘って、長くお続けください。


 講評などというおこがましいことをする責任上、このたびの吟行の拙句を御笑覧までに示します。

    旅ごころ定まる砂の跣足かな
    カメラ好き一人を除き皆跣足
    不自由なる足も跣足を喜べる
    歓迎の岬の鐘といふ涼し
    磯涼し月また涼し皆古人

【凡例】◎印はどこに出してもはずかしくない秀作、○印は少し再考すべき部分を残す佳作、△印は教材として今後役立つと思う参考句です。→印部分が海紅の講評です。但し、まだ季題(季語)を十分知らない方もいますので、季題の本意や季重なりについてはうるさく言わず、実感の有無に重点を置いています。ふだん使っている日本語の詩歌における味わいを、他者の句の鑑賞を通して身につけてください。

◎お着き待つごとく岬の月涼し    君江
→芭蕉会議一行をかくお待ちくださりしかと感謝するばかり。
◎引く波に搗布たゆたふ涼しさよ   君江
→眼前実景にて情深し。
◎土用波鵜を潜らせて崩れけり    勝人
→土用波が生命を得たる格。伝統俳句の手本。
◎鵜捕師の鵜の如潜り鮑採る     勝人
→夏季の鵜捕師を活写。伝統俳句の手本といえる句。
◎べた凪といふしづけさもまた涼し  勝人
→きわめて上質な発見。かく断言する精神の高さを羨む。
◎鯉よたまには跳びて睡蓮を見よ    實
→破格に見えて十七音に収まる面白さ。睡蓮が喜んでいること疑いなし。
◎素潜りの海士の浮鵜に似たりけり 重幸
→「浮鵜」なる言葉を知る人ゆえに可能な発見。鵜の飛来する海近くに住む作者を羨まん。
◎虹の輪にはしやぐ子供の声響く  千恵子
→感動の焦点が一点に絞られてみごと。「響く」が捨てられればさらに佳句。
◎常陸路や駅弁の具に若牛蒡     無迅
→「若牛蒡」の発見で、俄然「常陸路」を称えた新鮮な句となる。「具の」とすれば一句の収斂度倍増す。
◎炎昼にまぼろしの母遊びをり    希望
→「母郷高萩」と前書。詠まねばならぬと心に決めて詠んだ句ならん。なるほど、人は生者のみにて生くるにあらず。
○鵜捕場の窓より海霧の遠岬     君江
→「鵜捕場の窓」「海霧の遠岬」に分かれて焦点定まらず。
○浮き輪ごと子を抱く母や高き波   重幸
→「浮き輪ごと子を抱く母や」のみにてすでに詩。すなわち「高き波」余計で安易な説明。
○土用波うねるとき鵜の浮き上がる  律子
→土用波が生命を得たる格。伝統俳句の手本。
○おそろひの浴衣親子に波洗ふ    博之
→「波洗ふ」より「波寄する」の方が美しいと思うがいかが。
○隧道の涼しき先に鵜捕り小屋    勝也
→「先の」とせば、鵜捕り小屋を称美(賛美)する心如実に。
○雌蚊鳴き老血欲しくばくれてやる  新一
→「雌蚊鳴き」だと、「くれてやる」の主語が「雌蚊」の如し。よって「雌蚊鳴く」とせん。
○捕はれの鵜の何おもふ夏の月    希望
→涼しげなる「夏の月」の本情がこの句をメルヒェンにしている。
○湯上がりは皆同じ香や夏の宿    泰司
→「湯上がりは皆同じ香や」のみにてすでに詩。すなわち「夏の宿」は余計で安易な説明。「宿浴衣」とでもすれば姿先情後にて情趣倍旧。
○手をつなぐ電信柱夏の草    しのぶこ
→初心の美しき心みえて微笑まし。「夏の草」でなく「雲の峰」などとすれば、別の情趣も出るが、そんなことを心得るのはまだ先でよし。
○青芒分け入りスーパーひたちかな  無迅
→常磐線には青芒がよく似合う。「スーパーひたち」の速さを活写すれば「分けゆく」がさらによいか。
○鵜捕師の海士に変身夏の海    喜美子
→「夏の海」が安易。「磯涼し」「イハトユリ」などとすれば十倍美しくなる。この点をよく学びたい。
○潮騒をするりと抜けて朝涼し   つゆ草
→「抜ける」として、「朝」をその主語にすれば収斂度倍増す。
○八月の空に響きし浜の鐘       糀
→同じ月だが「文月の空」と言えば七夕を思わせ、「八月の空」といえば敗戦(終戦)や平和祈願を思わせる、これが本情(本意)。作者の意図と関わりなく、言葉はそのように反応する。それを意識の置いて詠む心掛けが必要。なお「鐘」は響くものと決まっているゆえ「響きし」は捨てる。
△岩百合や岬の崖を彩りぬ       實
→「岩百合や」と言えば彩っていることは明らかゆえ「彩りぬ」は不要。この点ゆめゆめ忘るべからず。
△夏の海菰一枚の鵜捕小屋      律子
→「菰一枚の鵜捕小屋」だけですでに美しい詩。ということは「夏の海」が安易で不要。でもあと五文字必要なので、「磯涼し」「イハトユリ」などとすれば十倍よくなる。この点を何とかわかってほしい。
△ひらひらと流れて行くか黒揚羽   泰典
→「飛んで行く」のが普通なところを「流れて行くか」と見た眼は非凡。「流れて行くや」と詠嘆にすると、少し上等になる。
△合歓の径風に吹かれて屏風絵    孝子
→「屏風絵」が出て来た理由明らかならず。ゆえに「屏風絵の中ゆく如し合歓の径」としてみん。
△鵜捕り場に鵜の姿なく蝉時雨     孝
→詠みたいこと明らかなる点はよし。蕪村なら「鵜の姿ありし岬や蝉時雨」とでも詠まん。
△鵜の岬の風が育む蓮ひらく     梨花
→「鵜の岬」が利いていない(はたらき弱し)。
△砂浜に何度も消して夏句会     梨花
→「砂浜に何度も消して」の主語と目的語が不明。「夏句会」は、上五・中七と分離し、日本語としても熟さない。心余りて言葉足らず(古今集序)の感強く、更なる凝視と省略が必要。
△流れ若布を追ひつ追はれつ白き足 美知子
→夏季と定むるために「白き足」を「浜涼し」「跣足かな」などとせん。
△鵜の岬崖を色どるイワトユリ   喜美子
→「鵜の岬」が利いていない(はたらき弱し)。「彩る」が一般的表現。歴史的仮名遣いだと「イハトユリ」。
△なつかしの駅名重ね夏の旅    山茶花
→「なつかしの駅名」などと漠然としたことは言わない。例えば「友部駅内原駅や夏の旅」と具体的にするだけで、何倍も詩に近づく。これをぜひわかってほしい。
△潮騒に眠れぬ宿や鵜鳴きて    こま女
→「潮騒に眠れぬ宿や」だけで詩なり。「鵜鳴きて」はウソゆえ、別の季題を案じて、例えば「潮騒に眠れぬ宿や明易し」とす。日々の暮らしで季語に親しむことなり。
△捕はれし鵜は籠に撫子の花     松江
→じっと見つめて、情緒的な言葉を削る時間を作る。そして「捕はれし」という表現が無駄であることを学ぶ。その結果は例えば「鵜は鵜駕籠に撫子はその外に揺れ」などとなる。ともかくモノが見えるまで見つめたし。
―畢―