ホーム
論文を読む会のまとめ

・発表テーマ  杉浦明平「『薄っぺらな城壁』をめぐって」を読む
・発表者    伊藤無迅
・日時     平成28年9月10日(土)、14時30分〜17時
・場所     東洋大学白山校舎6号館5F 谷地研究室
・資料     @杉浦明平「『薄っぺらな城壁』をめぐって」  ・・・(テキスト)
         A杉浦明平「『薄っぺらな城壁』をめぐって」を読む・・・(資料1)
         B「 同上 」について自由な議論をするために  ・・・(資料2)
・出席者    谷地快一、堀口希望、菅原通斎、安居正浩、根本文子、三木つゆ草、水野ムーミン、
          鈴木松江、月岡糀、大石しのぶこ、尾見谷静枝、村上智子、伊藤無迅 <順不同、13名>
・議事録    伊藤無迅

<発表のまとめ>
1.発表のポイント
◆子規は明治二十五年陸羯南の「日本」新聞社に入社し、終生「日本」新聞社の社員であった。このため子規の文学論には、新聞「日本」、つまり政治思想団体である国民主義派(通称「日本」派)という思想的な背景があった。
◆明治二十年代の日本は、現代と比較にならないほど国際的な緊張の中にあった。日清戦争(明治二十七、二十八年)に勝利するが、ロシアの南下脅威はさらに高まるという緊迫した時代的な背景があった。
◆一般的に子規は叔父加藤恒忠と陸の関係で「日本」新聞社に縁故入社したとの印象が強い。しかし実際には子規の資質が陸羯南に十分評価されての入社だった。また入社後の子規も「日本」派(国民主義派)の政治的思想に共鳴していた。つまり立派な国民主義者の一員であった。
◆子規は「日本」派の文学的イデオローグとして、有名な俳句・短歌革新のほかに新聞の文体改革という歴史に残る業績も残している。この子規ならではの能力は新聞「日本」に多大な貢献を果たし、脊髄カリエスの悪化で出社不能に陥っても、「日本」社内における子規の評価は変わることはなかった。また仕事の性質上病床でも十分業務を遂行出来た。つまり病床に伏しても自分の業務遂行に自信と誇りを持っていたことが判る。その自意識の表れが、生前自分の墓碑に月給の金額を記した行為と思われる
◆子規の文学革新のゼンマイは「日本」派内部の議論にあった。つまり「西洋」の輸入を物質面だけでなく精神面も併せて輸入しなければ西洋に伍して行けないという考えである。『歌よみに与うる書』などで述べられている子規が目指した文学改革は、「和魂洋才」や日本の伝統破壊との調和を勘案した当時としてはギリギリの決断だった。同時にこの決断は当時の政府方針(富国強兵、国権拡張の実現)に沿ったもので「日本」派なりの具体的な行動であった。
◆子規を理解する上で最も重要なことは、子規が西洋の近代精神を内容的に知っていた点である。つまり子規は日本国民をブルジョア的合理主義精神(近代資本主義精神)に変えなければ日本国の将来はないと考え、自らもその体現者になろうとしていたことである。その上で文学はどうあるべきかを考えて、俳句と短歌の改革に着手した。もちろんこれは陸羯南率いる「日本」派の考えに沿ったものであった。
◆子規は大衆を近代資本主義精神に啓蒙しようとしたが、その対極にあるものが江戸町人文化であった。これを文学面で見れば、庶民に巣食った宗匠俳諧と堂上華族に取り入った国歌〈短歌〉の姿であった。子規はこれを文学的堕落と見た。前者は近代日本に必要な国民の生産力向上を妨げるもの、すなわち「通(つう)」や「粋(いき)」や「だじゃれ」に韜晦する「しもたや根性」を、後者は庶民の生活基盤から浮遊し堂上華族の遊芸に和し国歌の使命を放棄した歌壇こそ改革すべき対象と見た。
◆子規は文学者以前に、明治二十年代の没落士族が有していた気分(憂国)を色濃く持つ世界に居り、完全に「日本」派の一員であった。

2.まとめ乃至は所感
・著者杉浦明平は論文執筆当時(昭和29年)現役の共産党員であり、処々偏見と飛躍が見られるが、全体的には筋の通った子規論と言えよう。
・子規を論じる上で文学面からだけでなく、当時の時代背景から論じる視点は大変重要に思われる。特に明治以降は日本国内の政治状況に加え、世界の政治情勢が文学面に色濃く反映してくるようになる。つまり文学の視点が、国内標準から世界標準に大きく変化してゆく時代である。
・トルストイは『戦争と平和』を著した際に、「人間は歴史の子である」という意味の発言をしている。これは「我々はその時代に合った生き方をするしかない」とも解釈できるが、ある意味で子規の文学論もそれに沿った展開であったと思う。
・戦後70年を経た現在、子規の時代とは比較にならないほど平和な時代である。現代もそうであるが、大正時代から昭和初期の平和な時代になると「日本文化のオリジナリティー喪失」が必ず話題に上る。その時話題になるのは、子規の「連俳否定論」は正しかったのかという疑問である。
・今回出席者全員で議論するために、資料2を準備したが主に時間的な制約で出来なかった。資料2で議論したかったことは以下の事項である。
 ・子規は日本文学の何が薄っぺらと考えていたか。
 ・明治以降、日本の文学環境はどう変わったか。
この二点を議論することで、日本文学、特に俳文学を守り次世代に継承してゆく意義とその重要性を全員で認識・共有したかったが諸事情で果たせなかった。

(了)