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論文を読む会のまとめ

・発表テーマ 子規の『俳諧大要』執筆の動機 ―鴎外との出会いをめぐって―
・発表者    根本文子(および議事録作成)
・日時     平成28年3月13日(日)、14時30分〜17時
・場所     東洋大学白山校舎6号館 谷地研究室
・資料     発表テーマと同名の資料(全18頁)
・出席者    谷地快一、堀口希望、市川千年、伊藤無迅、水野千寿子、三木つゆ草、 
         織田嘉子、鈴木松江、宇田川良子、菅原麻衣、根本文子 <11名>

<発表のまとめ>
 子規の『俳諧大要』は「近代俳句の基点となる体系的俳論集」(和田茂樹『俳文学大辞典』)とされる。起筆は当時、松山中学で教鞭を執っていた漱石の愚陀仏庵に滞在中である。明治28年10月〜12月まで新聞『日本』に掲載された。『俳諧大要』は唐突に「第一 俳句の標準」で始まる。子規がここで、はっきりと「俳句は文学である」と宣言し、文学は美術(この場合は芸術)の一部であるから、他の芸術である絵画、彫刻、音楽、演劇、詩歌小説と同じように皆同一の標準をもって論じられるべきと画期的な宣言をした。この確信に満ちた発言をする背景は、一体どこから出来したのであろうか。それは、日清戦争で従軍した金州での鴎外との出会で得た「美」という概念の閃きであったと推定される。
 子規は明治23年9月「哲学と詩歌の間には何か関係あれかし」と思い、文科大学哲学科に入学した。しかし「丸善などをあさりしに審美の書めきたるは一冊もなし」ということで、叔父の加藤拓川に依頼し「何か審美学の書物をといひしに、ハルトマンの審美学をおこし(ママ)くれたり」(「随問随問」『子規全集・第五巻』)ということでハルトマンの『美学』を手に入れた。ところがこれを読んで理解することができず結局は挫折する。明治28年4月、子規が新聞『日本』の従軍記者として金州に着いたとき、戦はすでに終わっていた。帰国の乗船待ちの間に「金州の平站軍医部長は森なり」と聞き鴎外に会おうとしたのは、かつてのハルトマン美学に対する手痛い挫折感からであろう。鴎外は明治中期最大の文学論争とされる「没理想論争」の一方の当事者であり、坪内逍遙に対しハルトマン美学を掲げて論戦を挑み、文学界の注目を集めた人物であったからである。
 子規が、新聞『日本』に『俳諧大要』の執筆を始めたのは、鴎外との別れからおよそ5ヶ月後のことである。そこには「俳句の標準」「美の標準」という子規がそれまで殆ど使ったことのない「○○の標準」という言葉が頻発する。しかしこの「○○の標準」は、鴎外が「没理想論争」の中で、たとえば「審美の標準」、「文学上の標準」などと多用した、いわば戦う武器としての言葉である。
 俳句を、何とかして「文学として位置づける」ことを考えていた子規は鴎外と出会い、その謦咳に接して鴎外の言説に刺激を受け、鴎外の提唱する西洋の「美学」、「美の標準」という言葉、視点に開眼したと思われる。俳句革新、即ち俳句を文学として高め、近代の文学として広めようとする子規にとって、鴎外との出会いはまさにその絶好の機会であり、人と議論して百戦百勝といわれた鴎外の勢いと、その視角・方法は、大いに学んで利すべき畏敬の対象であったろう。
 森林太郎と大村西崖編によるハルトマンの美学『審美綱領』は明治32年6月29日春陽堂から発行された。子規がようやくハルトマンの『審美綱領』を読むのは、その死の一ヶ月前のことであった。子規は嘗て次のように語っている。「僅少の金額にて購い得べき外国の文学思想などは続々輸入して日本文学の城壁を固めたく存候」(歌よみに与ふる書)。
<根本文子>