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論文を読む会のまとめ

・発表テーマ 中川四明と『ホトトギス』
・発表者    根本文子
・日時      平成26年3月8日(土)、14時30分〜17時
・場所      東洋大学白山校舎6号館 谷地快一研究室
・資料      @中川四明と『ホトトギス』
         A新聞「小日本」 明治27年(1894)3月9日コピ―
・出席者    谷地先生、堀口希望、安居正浩、伊藤無迅、小出富子、鈴木松江、
          水野ムーミン、駒女、真杉窓花、根本文子(10名)
・議事録    根本文子

〈発表のまとめ〉
1、発表概要
  中川四明は俳人。嘉永3年(1850)〜大正6年(1917)。明治43年1月俳誌『懸葵』の編集発行人を辞するに際し、子規が目指した俳句の存続に危機を感じ、小説に熱中する虚子に俳壇復帰を強く呼びかけた(『懸葵』第6巻第11号、「明治俳壇の第二期を迎ふ」)。その結果、多少の曲折はあったが、虚子が俳壇に復帰することになる。このため碧梧桐以降混迷を極めていた俳句は、本来の有季定形を取り戻し現在に引き継がれた。今日では殆ど忘れられている中川四明が、近代俳句の道筋を示す確かな役割を担っていた経緯を明らかにする。
2、発表のポイント
  @ 美学者四明と子規の俳句革新
「俳諧大要」は明治28年、新聞「日本」に掲載された。「文学の標準は俳句の標準なり、すなわち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準をもつて論評し得べし」。「俳諧大要」のこの一文は、子規が当時未だ知られていなかった西洋の「美学」(当時は審美學)の精神を手掛かりに、日本の俳句を文学として高めようとしていることを、理解する人は殆どいなかった。一方、四明は明治22年、新聞「日本」創刊と同時に日本新聞社に入社、子規の先輩に当る。その年、霞城山人訳で「美術家」を「日本」に掲載しドイツ美学を紹介する。森鴎外と外山正一の「美学論争」の前年のことである。やがて京都に戻り「京都美術協会雑誌」創刊に参加。毎号のように美学の翻訳や論説を執筆する傍ら、「日本」にも美学に関する記事を送り、投句も続けた。四明は子規を理解し、最初の日本派の俳句結社「京阪俳友満月会」の立ち上げ「小日本」への協力など様々な応援をしている。『ホトトギス』の東遷に際しては子規からの協力依頼も受けた。
  A 『ホトトギス』の変貌と虚子への呼びかけ
  明治38年、『ホトトギス』は漱石の「吾輩は猫である」を掲載し評判を得、文芸誌への転換をはかる。しかしその後発行部数は減少を続けた。このとき四明は虚子に「希くば今一度俳壇に立つて、明治の第二期に大いに花を闘わすの計あらんことを」と強く呼びかけた。また読者の要望も強く虚子は明治45年7月雑詠蘭を復活した。

〈まとめ〉
四明は、ドイツ美学を学び子規の俳句革新に大きな影響を与え、子規亡き後は俳句の行く末を強く案じた人物である。つまり虚子は小説に熱中、碧梧桐は子規俳句を大きく逸脱していた。四明はこれを看過できず虚子の俳壇復帰を求め、子規俳句を虚子に繋いだ近代俳句の陰の功労者であった。
*<配布資料、新聞「小日本」について>
紙面は3月に因み「雛祭り」の特集。紙面中央に大きな三段飾りの衣装雛が描かれている(中村不折の画と思われる)。その周囲に足利から明治までの80余句を解説付きで掲載、子規の「俳句分類」作業の成果が見える。「小日本」は新聞「日本」の度重なる発行停止処分に備え、「家庭に読み得られる上品な小新聞」を目指し総ルビで発行された。
*<先生からの指摘>
先生から「文学の標準は俳句の標準なり、すなわち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準をもつて論評し得べし」(俳諧大要)には芭蕉の「…貫道する物は一なり」(笈の小文)の気息に通うものあり、というご指摘があった。〈了〉