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私の好きな私の一句 ― 会員紹介にかえて ―

◆ 来し方 尾崎喜美子

おしやべりの列が駅まで夜学生   喜美子

  自分の来し方を振り返るのは恥ずかしいが、皆さんにお逢いすることが出来た記念に書いてみようと思いました。私は昭和四十九年七月の末、大きなお腹を抱えて保母試験の実技試験に挑戦していました。保母試験は十一科目あって、三年間に分けて受験できました。その試験のために、三十歳を過ぎピアノを習い始めたので、実技試験は最後に残しておいたのです。その年の九月に無事出産、最後の試験の日は東京品川の実家に泊り込んで、大田区の試験会場に行きました。
  私の試験官は違いましたが、お隣には、歌のおばさんで知られる松田トシ先生が、受験生に「…歌う前に、〈お願いします〉の挨拶がほしかったですネ。お子さんを育てるのがお仕事ですから」とおっしゃっていらしたのを今でもを覚えています。
  「もし、落ちたら諦めよう」と覚悟しておりましたら幸いにも合格して、すぐに荒川区と鎌ケ谷市から採用のお声をかけていただきました。その頃は保母が足りなくて、役所の保育課では、課長自ら北海道まで人探しに歩いたという時代でした。ありがたいお話でしたが、娘は一歳ですから迷いに迷いました。そして、鎌ケ谷市にお世話になることにしました。
  自転車に乗れなかった私は、娘を負ぶって自転車の練習をしました。子供を負ぶっていたら絶対に転べません。まさに背水の陣でした。友達には「皆が、家庭に入ろうかと云う頃に、なにゆえ働きに出るの…」と呆れられました。思えば、その時が私の独学の始まりでした。そして六年目には、将来役に立つかもしれないと思って書道を始めました。途中で、師を亡くして中断しましたが、今は母と楽しみながら書いています。もっとも、真剣さが足りないので、少しも上達はしません。二十七年間、公立の保育園で働いて、無事定年を迎えたときは、ホッとした気持ちと、寂しい気持ちが入り混じって複雑でした。お子さんの発達と、命を預かるという仕事は、気の休まる時がありませんでしたが、喜びもまた一入でした。
  自分の息子が大学生になった年に、東洋大学通信教育部の法学部に入学しました。私たちの時代は、大学に進学する者は一クラスに何人もいなくて、弟と年子だった私は、親に「短大なら進学してもよい」と言われたのを、蹴ったのでした。今思うと惜しいことをしたと思っています。しかし、通信教育部は大変でしたが、息子に「僕よりも大学生らしい生活をしている」と言われるほど勉強をしました。学友会の行事にも参加しました。男性が多かったので、スクーリングの後はコンパと、大いに羽を伸ばしました。七年かかって卒業して、翌年の四月に文学部に入学しました。法学部は後期生だったので、スクーリングが翌夏までなくて苦労しましたし、卒業のときも三月卒業とは違って寂しかったので、四月入学にしたのです。文学部に入ってからは、職場における責任も重くなって忙しく、主人と私の四人いた親たちも高齢になって、土曜日は実家に泊まって翌日は尾崎の家にゆくという生活でしたから、いまだに卒業できないでいます。というよりは、折角手に入れた大学生活を手放したくないというのが本音かもしれません。尾崎の母には随分助けてもらいました。子供たちが具合が悪いと、すぐ飛んできてくれました。義母は助産婦でしたから、お湯を使わせるのはお手のもの、ご近所にもよく頼まれていきましたし、家の子どもたちは、おかげでお風呂が大好きです。一方、義父は器用な人で、家の修繕は義父任せでした。そんな二人も亡くなり、その喪失感と寂寥感は、いまだに埋めることが出来ません。めぐまれた家族や、折々に出逢った人々に支えられた私の人生です。もういちど、同じ人生を辿り、同じ人たちと出逢い、有難うと言いたい。もちろん、今健在の皆様を含めて。(2006/10)

写真提供:高橋巧 氏



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