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このあたり目に見ゆるものは皆涼し
芭蕉(笈日記)

句意は「このあたりからの景色はすばらしく、目に見えるすべてのものが涼しげだ」

『笈の小文』の旅の帰りに、岐阜に立ち寄った芭蕉は、弟子の賀島善右衛門から長良川の見える水楼(水ぎわに高く造った館)に招かれた。その素晴らしさに芭蕉は中国の瀟湘八景や西湖十景にも劣らないとして「十八楼」と命名し、その時善右衛門に与えた『十八楼の記』に添えた挨拶句である。

何の変哲もなく見える句であるが、私には中七の字余りが気になった。芭蕉は弟子への手紙で「字余りは構わない。ただ一字の字余りでも口にたまるような感じがあるのは良くない」と述べたことがある。ではこの句はどうか。「このあたり目に見ゆるもの皆涼し」方が明らかに調べは良い。それなのに芭蕉がわざわざ「は」を加えたのは何故か。

加藤楸邨は『芭蕉全句』の中で「中七の『目に見ゆるものは』は字余りだが、この『は』がないと、ここで小休止する感じとなり、『このあたり』の下の小休止と重なって、調子が小刻みでせせこましくなる」と「は」の必要性を言う。句をおおらかにする意図を見る楸邨の指摘もなるほどと思う。

しかし私は句全体が曖昧な表現なので、「は」を入れたのではないかと考える。景色の美しさは文章で十分わかるので、句で余計なことは言いたくなかった。ただ挨拶句として、見える景色の素晴らしさは強調したい。芭蕉が悩んだ末に選んだのが「は」の字余りでなかったろうか。

(文) 安居正浩
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