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結ぶより早歯にひゞく泉かな
芭蕉(新撰都曲)

 「結ぶ」は「掬ぶ」で、両手をあわせて水などを手ですくうこと。「袖ひちてむすびし水のこほれるを〜」(古今集・春上)、「むすぶ手に濁る心をすすぎなば〜」(十六夜日記)。 夏の山路などで泉を見つけ、思わず駆け寄って手で掬うと、その冷たさが、まだ口にいれないうちから、歯にしみわたるような気持ちがするという意。しかしこの句には様々な解釈がある。@平俗な誇張が、そのまま一句の詩情を平俗なものにしている(『松尾芭蕉集 全発句』小学館)、A より、は時間上の刹那的な関係を意味するもの、「掬ぶより早や」は飲むとすぐ、飲むや否やの意になるべきもの(志田義秀『芭蕉俳句の解釈と鑑賞』)。
  谷地先生も、「結ぶ」は「掬う」だけでなく、「すくってのむ」行為。よって「飲むとすぐ冷たく感じて気持ちがいい」が正しい、とされている。
  ともあれ、 茹だるような暑い都会にいても、この句を思うと、緑陰の泉に手を浸す感覚がよみがえり、爽快感に包まれるのは確かである。身体感覚の句だからであろうか。そう考えると、この『新撰都曲』に一緒に入集している他の句も、芭蕉が敢えて身体感覚にチャレンジしたような気がしてくる。「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」聴覚と嗅覚、「物好きや匂はぬ草にとまる蝶」嗅覚、「声澄みて北斗にひびく砧かな」聴覚、視覚。

 急に暑くなった先日、掲出句の句碑を見に長野県御代田町の浅間山真楽寺を訪ねた。
応永二年(一三九五)建立という仁王門をくぐると、深閑とした木立の中に伝説の大沼の池があった。その先の厄除け階段を登ると、三重の塔、大本堂、書院が並び、縁起によれば源頼朝が浅間巻狩りの折り、七日間、厄除けに参詣した由。句碑は県宝の巨大な神代杉と観音堂との間にあった。「結ぶよりはや歯にひゞく清水かな」、天保十四年(一八四三)九月建立とあるが「泉かな」ではない。資料によればこの句は全国に15基あるが、「泉かな」は2基のみで、あとの13基はみな「清水かな」と刻まれ、伝えられているようである。帰途に立ち寄った茅野市の大清水水源地に建つのもそうであるが、緑陰のもと豊かに湧き出す清水が何とも涼しく、心地よい。この句の碑は、古来旅人や地域の人々のオアシスであった清水や泉の水辺に好んで建てられているために、「泉」が「清水」となって口から口へ伝わったのかも知れない。


(文) 根本文子
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