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笠嶋はいづこさ月のぬかり道
芭蕉(おくのほそ道)

平安時代の歌人中将実方、その墓のある笠島はどの辺りであろうか。この五月雨が降り続いて、ひどいぬかるみの道では立ち寄ることもできない、という意。一条天皇の頃の優れた歌人実方は、宮中で行成と口論となり、相手の冠を取って庭に投げ捨てたことから、「歌枕見て参れ」と陸奥守に左遷された。笠島道祖神の前を通った時、馬上のままだったので神の怒りに触れ落馬して死んだと伝えられる。のちに西行がその墓を訪ね「朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄形見にぞ見る」(新古今・哀傷)と詠んでいる。『曽良旅日記』に「行過テ不見」とあるが『猿蓑』に「いとわりなくて打過るに」、「真蹟懐紙」にも「わりなくて過ぬ」とある。この「わりなくて」に、西行を慕い、歌枕を訪ねる芭蕉の、まことに残念、心残りだ、という思いが滲む。はるかなみちのくの梅雨、そのぬかるみに難渋するほど、先人の苦労を実感したであろう。『おくのほそ道』本文に「此頃の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば」とあるが、事実『曽良旅日記』にも、五月二日(陽暦六月十八日)の夜から三日にかけて雨、白石に泊まった翌四日は少し止んだとあるが、思わしくない天気にかわりはなかった。道筋からいえば、笠島の前に武隈の松があるが、それを後まわしにしている理由は「みのわ・笠じまも五月雨の折りにふれたりと」とあるように、五月雨に縁ある二つの村をひとまとめに表現したかったからであろう。この天候と体調では、笠島をあきらめざるを得なかったと、自らを慰めているような一章である。だが『曽良旅日記』によれば、五月三日は白石泊で、四日は仙台泊である。その間十三里二丁、というから一日の行程としてはかなりきつい距離をこなしているので、「五月雨に道いとあしく」には、創作の手が入っていると思われる。

 みちのくにまだ桜の残るころ笠島を訪ねた。高速道路を降りてから道に迷い苦労した。「行き過テ不見」が少し解る気がする。交番、郵便局、駅前のタクシー、田や畑で働いている人々に訊ね、ようやく畑の用水堀 にかかる小さな「実方橋」を見つけた。一本の満開の桜の木の下に、平成元年、名取市で建てた句碑と解説がある。

元禄二年(一六八九)漂泊の俳人松尾芭蕉は門人曽良とともにみちのくへ旅し悲運の歌人藤原中将実方朝臣の塚を訪れようと名取の郡に入る折り悪しく日没と五月雨の悪路に阻まれ目的を果たせぬままこの地に無念の一句を残し通り過ぎる(後略)。





さらに山に向かって細い道があるので行ってみると、一間四方ほどの柵にかこまれた、土饅頭の実方の墓があった。傍らに西行の歌碑が傾いている。解説板の記述が心に残った。

実方、西行にゆかりのあるこの地は芭蕉の詩情と遊心をかき立てる憧憬の地であったにちがいなかったと思はれる。しかし芭蕉は遂にその願いを断念せざるを得なかった。  
「笠島はいづこさ月のぬかり道」は彼の万斛の思いをこめた絶唱である。

  



なお東北では、梅雨どきや雪解の頃の日常会話であった「ぬかる」という言葉に、舗装道路などなかった頃の泥道の風景が一瞬にして目に浮かんだ。

(文) 根本文子
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