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はまぐりのいけるかひあれとしのくれ
芭蕉(真蹟自画賛)

 年の暮れになると、蛤は歳旦の食用として人々に喜ばれる。それは蛤がまことに生きてきた甲斐があったというものだ。自分も蛤のように生き甲斐のある年を送り、かつ迎えたいものであるという意。「いけるかひ」、つまり活き活きとした蛤(活き貝)に「生き甲斐」を重ねることば遊びがある。元禄五年(1692)芭蕉四十九歳の作。
 過日、出光美術館でこの「発句自画賛」を見た。およそ30センチ×40センチの紙面の真ん中に、藻の上に乗った三個の蛤が描かれ、句は右端に三行に書かれている。広くとった余白に味わいが感じられる。一音(いっとん)が安永五年(1776)に刊行した『左比志遠理』(さびしをり)によると、芭蕉はこの句に「しをり」があると言ったとされる。では「しをり」とは何か。このたび出版された『俳句教養講座』(角川学芸出版)の第二巻『俳句の詩学・美学』所収「俳諧の余情ー中興期を軸として」の中で、谷地先生は次のように記されている。
  結論を要約すれば、「さび」を枯淡・閑寂な味わい、「しをり」は衰微・哀憐の味わい、「ほそみ」
  を表現を支える作者の繊細な心と定義し、いずれも相互に関わり合う言外の情趣として解説
  を加える。
そして「しをり」の項目で、実例として次の句をあげている。
  十団子も小粒になりぬ秋の風     許六
これを、「はまぐり〜」の芭蕉句と並べてみると、先生の言われる「しをり」すなわち、「衰微・哀憐」というキーワードが重なり合うことが見て取れる。

 話は少しかわるが、小春日和の一日、山梨県勝沼の大善寺にこの句碑を見に行った。宝暦十二年(1762)早々庵梅童建立という解説があるが今もきれいに保存されている。あたたかい斜面に立つ句碑の傍らに腰掛け、遠い山々を望みながら、「生き甲斐」とは何だろうかと考えた。芭蕉はこの時、それは「年の暮れの蛤」のように「だれかに喜ばれることだ」と思っていたのかも知れない。
(文) 根本文子
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