ホーム
信濃路を過るに
雪ちるや穂屋の薄の刈り残し
芭蕉(猿蓑)

  信濃路を旅していると、御射山祭りの穂屋の薄を刈り取ったあとが見える。ちらちらと雪も降り出して、刈り残された薄がわびしく風にゆれている、という意。だが『蕉翁句集』に「此句、信濃の冬の旅みへず、題の句か。覚束なし」とあるように、詠まれた時期や、実景か、想像かは確定していない。一方、古註では『猿みのさがし』(空然著)のように「穂屋のすゝきとハ、信濃御射山祭に芒の穂もて御仮屋を造るゆへに、穂屋の神事と言ふ。祭ハ七月二十七日也。撰集抄にいはく、浅間のたけにハ煙のミ心ほそく立のほるありさま〈信濃路のほやのすゝきに雪ちりて下葉は色の野辺のおもかけ、是等の意をたち入のさま手尓葉の妙手にして、句意は雪ちるや、此雪の吹ちるハ穂屋作る時、刈残したる芒の穂にやあるらむといふ意也」(笠間選書。村松友次・谷地快一編)と、地面に吹き散る雪を穂屋造りの際に刈り残した薄の穂と見立てる解釈があって興味深い。この近世と現代との読みの相違は注意されてよいだろう。『更科紀行』の芭蕉は、貞享五年(1688)陰暦八月、姥捨で名月を見た後で善光寺に参り、碓氷峠を越えて江戸に戻っている。信濃路を旅してはいるが、まだ雪には早い。「穂屋祭り」とも言われる御射山祭りはその半月程前の神事なので「薄の刈り残し」を見ることは日程的には可能であろうが、御射山は木曾路ではなく甲州街道に面している。今秋、信濃路を旅した際に、富士見町商工観光係で紹介して頂いたK氏に尋ねたところ「残念ながら芭蕉はここには来なかったと思います」との答えであった。新注の多くも『撰集抄』の「ほやのすゝきに雪ちりて…」による言いなしとしてすませるが、この句は『猿蓑』(元禄四年刊)の編集にあたって、芭蕉が更科の旅を懐かしみ、その実感を再構成したものではないだろうか。ところでこの「雪ちるや…」の句碑は長野県内だけでも十基前後確認されていて、信濃の人々にいかに愛されてきたかを思わせる。そのうちの御射山社と八幡社、穂高神社の句碑を見に出かけたが、文政六年建立の穂高神社の句碑には「桃青霊神」とあって驚いた。谷地先生が常に問題とされている芭蕉信仰の姿を目の当たりにしたように思ったからである。

(文) 根本文子
「先人の句に学ぶ」トップへ戻る