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甲斐の国山中に立寄て
行駒の麦に慰むやどり哉
芭蕉(野ざらし紀行)

 甲斐の旅路を行き暮れて、とある人家に立ち寄り、そこで穂麦をもてなされた駒ともども、道中の疲れをいやすことだ、という意。「漂泊とは行き逢うこと、行き違うことであるという芭蕉の人生哲学」(谷地快一)が生まれた『野ざらし紀行』の最後の句である。熱田で門人杜国や桐葉と別れ、<思ひ立つ木曾や四月の桜狩り>と詠んだ後、どの道を通ったのか詳細は不明である。その唯一の手掛かりである、この句に誘われ甲斐路を訪ねた。
  山梨県勝沼は見わたす限り葡萄畑である。その葡萄棚に埋もれるように古刹、万福寺がある。瑞々しいムクノキの大樹の下に、大きな「馬蹄石」と「芭蕉句碑」が並んでいる。ずんぐりした素朴な自然石であるが、文字は摩耗してほとんど見えない。勝沼町教育委員会の解説板を読むと、「万福寺住職三車上人が中心となり、寛政年間(1788〜1801)ころ建立されたものとされる。碑の落成を記念して句集「駒塚集」が刊行された」とある。つぎに「ぶどうの国文化館」のM氏を訪ねる。休館日にもかかわらず快く応対してくださるM氏に、二、三質問させていただく。
  問  句の前書きにある「甲斐の国山中」が「万福寺」の説明板では「甲斐の国山家」となっているが。
  答   句碑、句集「駒塚集」、を制作した当時の人々が原文をそう読んだと思われるが、尚丁寧な検討が必要かと思う。
  問  甲斐に着くまでの芭蕉のルートについて
  答   東海道から富士の西側を通り、谷村(やむら)の知人を訪ねたと思う。
       (お話のニュアンスでは、白糸の滝コースに感じられる)
  問  <行駒〜>の句は実景を詠んだものではないという説があるが。
  答   黒毛で足の白い「甲斐の黒駒」は、聖徳太子の伝説や、朝廷に献上する馬として古くからよく知られていた。芭蕉は旅の途中でこの馬に出会い、いにしえの伝説や物語に思いを重ねて句を詠んだのではないか。
  そして詳しいことは読んで下さいと『町史』から「芭蕉の甲州行きをめぐつて」をコピーして下さった。
  資料によれば、天和二年の江戸の大火で草庵を消失した芭蕉は甲斐に身を寄せたが、その寄寓先は三カ所ほど推定されている。その中で谷村の高山糜塒(びじ)は、芭蕉が江戸に出たころからの門人で、最も可能性が高いとされる。『野ざらし紀行』の時も、この谷村に立ち寄ったと推定されている。実はこの資料に、長雨に降り込められた芭蕉が、長くこの地に滞在したという空水宛芭蕉書簡(『町史』所載)があるが、これについて谷地先生は偽翰であろうとのご意見であった。
  次にもう一つの「行駒〜」の碑をめざして南アルプス市の櫛形町に向かう。
雪嶺の美しい甲斐駒ヶ岳が見え隠れする。そこで「駒」は歴史的に名高い「甲斐の黒駒」であると共に、この甲斐駒ヶ岳の「山」でもあると気がつく。芭蕉はその両方を見たのであろう。そう考えると、句は諸注が引くように<駒とめてなほ水かはん山吹の花の露そふ井手の玉川>(俊成・新古今集)等にうかがえる狩衣の貴公子を面影に、身をやつして名所を行く旅人芭蕉の理想像を描いたものかとも思われた。旧国道五二号線、櫛形橋のたもとに、ようやく句碑を見つける。天保十五年(1844)の建立、丸く額縁に削った面に「行駒〜」の字がはっきり見える。富士川の蛇行に添う国道五二号線は東海道と甲府を繋いでいる。芭蕉が通った可能性はないとは言えないであろう。そう思いながら百キロ余りを走り、東海道の富士川河口に着いた。

(文) 根本文子
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