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水口にて二十年を経て
故人に逢ふ

命二ツの中に生きたる桜哉
芭蕉(野ざらし紀行)

 「新しい自画像への挑戦」(谷地快一)、である『野ざらし紀行』の旅にあった芭蕉は、 貞享二年三月、水口宿で二十年ぶりに服部土芳と再会した。句はこの時の感動を伝えている。土芳の著述とされる芭蕉伝には次のようにある。
  「是ハ水口ニテ土芳ニ玉ル句也。土芳、此年ハ播磨ニ有テ帰ル頃ハ、はや此里ヲ出ラレ侍る。ナヲ跡ヲシタヒ、水口越ニ京へ登ルニ、横田川ニテ思ハズ行逢ヒ、水口ノ駅ニ一夜昔ヲ語シ夜ノ事也。明の日ヨリ中村柳軒ト云医ノモトニ招レテ、又此句ヲ出シ、廿年ノ旧友二人挨拶シタリ、ト笑ワレ侍る」(『伝土芳筆全伝』)

 「街道一の人留め場」として賑わったと言われる水口宿(東海道五十番目の宿駅、現甲賀市水口町)に芭蕉句碑を見にでかけた。米原、草津、貴生川で乗り換え、近江鉄道水口駅下車。たった一人の駅員さんが、芭蕉句碑のある「大岡寺」は「ダイコウジ」と読むこと、「無人の寺で寂れています」と残念そうな口ぶりで道順を教えてくれる。旧東海道に入るとすぐに山門が見える。境内は思いの外広く、説明板によると白鳳十四年(六八四)の建立、東海道の交通の要衝の地のため度々の兵火にあい、現在の寺は正徳二年(一七一五)の再建とある。
  芭蕉句碑は放生池のそばにあった。ちょっと尖った、形の良い自然石が二段の石の台座の上に据えられている。横に円筒形の石塔もある。句は『野ざらし紀行』に推敲される前のかたちである。
   いのちふたつ中に活きたるさくらかな        翁

 水口町歴史民俗資料館の解説によると、この句碑は寛政七年(一七九五)の建立で、台座には、建碑に関わった水口藩士外十一名の俳人の名が刻まれ、『伊勢参宮名所図会』(寛政九年序)にも出る。
  句の解釈は、推敲の前後で変わりはなく、「いま目の前に美しく咲く桜に相対し、二人の命がすぎてきた歳月と運命を思うと感慨深いことよ」となろうか。西行の「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさ夜の中やま」(新古今)、運命を共にする二人という意味の「命二ツ」(謡曲「七騎落」)を踏まえるといわれる。おそらく唐詩の「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」も発想の背景にあるであろう。芭蕉が江戸に向けて伊賀上野を出るとき、まだ十歳の少年であった土芳は二十九歳になっていた。
  今回の旅で興味深く思ったことは、水口町史の資料に、この時芭蕉が泊まったとされる近くの蓮華寺に、「不断桜」という四季咲きの名木があったと伝えていることである。
  また芭蕉を慕い追いかけてきた土芳が、思いがけず行き逢う「横田川」は、実際は野洲川で、現地の解説板によると「野洲川のこのあたりを横田川と言い、幕府により通年架橋が許されず、渇水期を除き、舟渡が行われた」とある。現在も文政五年(一八二二)に建てられた、高さ十メートル余りの「横田の常夜灯」があり、往時がしのばれる。土芳が後に、芭蕉のいのちを継ぐような「三冊子」を残したことを思うと感慨深いものがあった。

(文) 根本文子
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