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桑名本当寺にて
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす
芭蕉(野ざらし紀行)
 谷地先生の『えんぴつの旅・野ざらし紀行』をいつも手許に置いている。心が疲れた時、何かにつまずいた時、ふと開いて無心になぞる。するといつの間にか自分も芭蕉と共に旅に出て行く思いがする。そんな時いつも気になるのが冬牡丹の句である。名高い芭蕉の句ながら、季語をいくつも並べたようなこの句をどう受け入れたらよいのか、晴れない靄に包まれているような気分である。それで句作の背景を知りたいと思い桑名に出かけた。
  車窓から美しい富士の見える日、桑名駅に降りるのは初めてである。市内循環バスの乗客は私一人、寺町で下車する。門前の商店街は休日でひっそりと暗いが、本当寺の門を入ると急に明るく、麗らかな小春日和に満ちている。日溜まりのベンチにいる人に句碑を尋ねるとすぐに案内してくれた。それは池のほとりに立つ2メートル余りの大きな自然石で、縁が黒ずんでいるのは戦災にあったからとのことである。
        芭蕉「野ざらし紀行」跡
        冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす    はせを

    松尾芭蕉が貞享元年(1684)「野ざらし紀行」の旅のおり、本当寺で詠んだ句である。
    本当寺住職大谷琢恵は古益の俳号をもつ芭蕉と同門の俳人であったので句会が催された
    と思われる。句碑は江戸時代に既に建立されていたが失われていたため、昭和十二年に
    (中略)表門に建てられた。しかし戦災によって境内が灰燼に帰したので焼け残った句碑は
    現在地に移された。 桑名市教育委員会

  寺務所に立ち寄り、この句碑の謂われを伺う。すると「あれは大谷家、つまり古益こと琢恵の家紋が牡丹なので、それを挨拶句にしたと考えています」と意外な説明である。私は驚いて先ほどのベンチの人にこの話しをすると「いや冬牡丹はあったでしょう、私達はそう信じて毎年咲かせています」とそこに案内してくれた。来るときは気づかなかったが門の外の両側に牡丹が二十株余り植えられ、もう冬の花芽がつき始めている。後日、谷地先生のご指摘で、赤羽学氏の論文「『野晒紀行』の桑名の条の成立」(『俳文藝』35号)により、本当寺の紋章が牡丹で、句は古益への挨拶としていることを知った。しかし『野ざらし紀行』全体の句の作り方からみて、詠作の直接的な契機が実際に咲いていた冬牡丹であることは間違いないと思う。
  冬牡丹はほとんどが春の蕾を摘み取って冬に咲かせており、人の手で作り出すものである。雪の中で菰を被って咲く姿はとても可憐で、また珍しい。芭蕉はこの季節はずれの牡丹に驚き、古益のもてなしに感謝し、興じて、挨拶句としたのであろう。その意味は「冬牡丹が咲き、遠くには千鳥の声も聞こえる。牡丹は本来夏の花であるから、あの千鳥の声も珍しい雪中のほととぎすに聞きなされることよ」となろう。芭蕉、古益の二人は北村季吟の同門で、年譜を突き合わせると、この時芭蕉四十二歳、古益四十三歳である。おそらく気のおけない間柄であったろう。そう考えるとこの句にも、貞門として共通の素養を持つ二人の、軽くて知的な空気が流れているような気がした。
(文) 根本文子
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