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六月や峯に雲置クあらし山
芭蕉(杉風宛書簡・夏・元禄七)
 

梅雨が明けた六月の空の下に嵐山は滴るばかりの緑である。その峰の上には真っ白い大きな入道雲が湧き起こり真夏の光に輝いている、の意。『三冊子』の「赤雙紙」によれば、芭蕉自身が「雲おく嵐山といふ句作り、骨折りたる所」と語ったらしく、苦心と満足の心が伝わってくる。
「嵐山」は紅葉の名所として古歌に詠まれてきた「歌枕」の地である。「朝まだきあらしの山のさむければ紅葉のにしききぬ人ぞなき」(公任・拾遺・秋)。
「大井川ふるきながれを尋きてあらしの山のもみぢをぞ見る」(白河院・後拾遺・冬)。また「嵐」に「有らじ」の意を掛けて、母を亡くした悲嘆の思いを詠んだ「うき世には今はあらしの山風にこれや馴行はじめなるらん」(俊成・新古今・哀傷)などもある。なお、中世以降は花の名所でもある。

芭蕉は元禄七年閏五月二十二日に膳所の菅沼曲水宅を出て、下嵯峨川端村の落柿舎(渡月橋北詰の大堰神社東側辺)に移り、六月十五日に再び膳所に戻るまで滞在した。掲出句はその間の詠作で、歌語の伝統にとらわれず、夏の嵐山の大景を新しみをもって表現している。ちなみに、現存する落柿舎(嵯峨小倉山緋明神町)は井上重厚が明和七年(一七七〇)再建の際に選定されたところで、本来の落柿舎の所在地ではない。

(文) 根本文子
次回より谷地快一執筆
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