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うき我をさびしがらせよかんこどり
芭蕉 (嵯峨日記・夏・元禄四)
閑古鳥よ、気がふさいでいるわたくしを、さびしがらせておくれ。しばらくは、そのさびしさを心の主として過ごすから、という意。「憂し」とは、何かが原因となって心が閉ざされることである。心が開かれていなければ、生きているとはいえないだろう。これは閑古鳥を頼りに、芭蕉が心の再生をはかった句。したがって、「憂し」と「物憂し」を区別しない従来の解釈や、さびしい自分をさらにさびしくさせてくれ、というたぐいの旧説は採らない。わたくしどもは、つねに自分自身の主人でいたいのだ。気がふさいでいてはそれが叶うまい。『嵯峨日記』の二十二日の条にひく、「喪に居る者は悲しみを主とし…」(荘子)、「さびしさなくばうからまし」(山家集)、「客は半日の閑を得れば…」(挙白集)も、たぶん拙解を支持してくれると思う。御批判を切にお願いする。
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