俳文学研究会会報 No.42   ホーム

日時 平成18年12月17日(日)
吟行 根津・谷中・根岸
場所 甫水会館

子規庵吟行                          伊藤無迅

集合場所の団子坂下交差点は、定刻前であるがすでに尾崎さんを取り囲むように多くのメンバーが揃っていた。十時半、いつものように奥山さんの先導で吟行がスタート、本日の兼題は「落葉」である。先ずは三崎坂から「大名時計博物館」へ。門前の大きな薄の枯葎と冬ざれの庭は、見るものを一挙に明治へとタイムスリップさせる。すでにどっぷりと俳句モードに浸る。谷中霊園、朝倉彫塑館、露伴旧居跡、延命院を経て子規庵へ。子規庵で谷地先生及び子規庵直行組と合流する。部屋に座し、庭をまわり、しばらくは在りし日の子規に想いをはせる。出句時間がせまり、勝負句を胸に、三々五々とタクシーで句会場(甫水会館)へ。今回は芭蕉会議でお馴染みの内藤さんと、五味田・坂本の超若手が初参加、盛会な句会となりました。

谷地海紅選

◎短日や子規終焉の部屋に座す  
 降り積る落葉の中の墓石かな 喜美子  
 冬の日の玻璃戸に落ちて錻力店  
 ゆく年の大名時計刻む音 酔朴  
 紅葉の桜並木は好きな道 嘉子  

互選結果

短日や子規終焉の部屋に座す ◎喜美子、海紅
山茶花や大名時計の深き銹 無迅 ◎實、ひろし
和時計の音静かなる落葉庭 喜美 ◎主美
ゆく年の大名時計刻む音 酔朴 ◎信代
再会に銀杏落葉の挿頭かな 久子 ◎千鶴子
子規庵の庭に黄金の落葉踏む ◎美雪
寒風にへちま凍えし子規の家 邦雄 ◎佳子、美智子
会ひたくば会っておくべし日短か 海紅  
冬ぬくし根岸の猫の肥りおり 月子  
子規庵の冬青草に病なく 文子  
冬の日の玻璃戸に落ちて錻力店  
冬晴れや二十の子規が街を行く 光庸 ◎邦雄
忘るなと子規の残せし冬へちま 酔朴 ◎富子、光庸
子規庵の師走の庭に気骨見ゆ 千寿子 3  ◎喜美
薬喰五十年目のクラス会 美雪  
枯瓢抱きしままの夢いくつ 久子 ◎酔朴
様々な落葉集めて子規の庭 信代  
月見寺師走に月を探しけり 邦雄 ◎林書
凩やビルの谷間に月上る ちちろ  
子規庵に影を写す糸瓜棚 美智子  
藤袴立ち枯れわれら待ちくれし 海紅 ◎月子
冬菊や高橋お伝の小さき墓 ひろし ◎無迅
子規庵の小さく淡き冬の空 ひろし ◎巧
着膨れが一塊に彫塑館 久子 ◎文子
凩に乱れ飛び立つ雀かな ちちろ ◎昌弘
子規庵に昭和の名残り花八ツ手 喜美子  
落ち葉して池の中には都かな 光庸 ◎久子
子規の部屋師走の日ざしやわらかく 富子  
吐く息を風にすかして冬麗 昌弘  
枯葉踏みしめ往時を偲ぶそれぞれの墓 主美  

合評
今回は句会形式を少し変え、皆さんから感銘句(特選)一句を選んでもらった。さらにその感銘句の選評を、各人から一言述べて戴いた。発言することで合評に慣れていただく事と、他人の選句理由を聞くことで、新しい発見や見方を学び次の句作や選句時の参考にしていただきたいと思ったためです。皆さんの感銘句は、驚くほど割れ、二点句四句、一点句十四句と見事に分散した。佳句が多いと見るべきか、あるいは飛びぬけた佳句が無かった、と見るかは皆さんの判断に委ねたいと思います。また、今回は初めて句を作った方が多かったせいか、句重なりの句を(中には一句の中に三つも)二、三見かけました。こういうところを合評で指摘しあうと、次回からの実作力が、ぐんと上ってくるのではないかと思いました。それにしても皆様お疲れ様でした、お蔭さまで楽しい一日となりました。最後になりますがいつもお世話いただいている尾崎さん、奥山さんに御礼申し上げます。  

参加者:
谷地海紅、五味田昌弘、坂本光庸、平岡佳子、小出富子、中村美智子、大江月子、五十嵐信代、竹内林書、金井巧、松村實、根元文子、三木喜美、梅田ひろし、尾崎喜美子、谷美雪、吉田久子、米田主美、水野千寿子、奥山美規夫、内藤邦雄、織田嘉子、伊藤無迅(以上二十三人、順不同)、千葉ちちろ(欠席投句)(無迅記)

師走の風聞

強風が地下へ突き抜けていく千駄木駅に降り立つ。上野を背にして左が団子坂、右が首振り坂ともいわれる三崎坂。または菊見坂の名称もある。団子坂は名の如く雨天時に滑ってころころ転がるほどの急坂だった。三崎坂は地名からの由来で変哲のないなだらかさで谷中霊園まで続く。往時の面影は団子坂に森鴎外旧居が図書館となり、菊見坂には菊見煎餅が今も売られている。
師走の押し迫った商店街から抜け出すように、寺門が並んでいる通りに向えば、足取りもゆっくりとなる。本通りから外れた古風な大名時計博物館はひっそりと時の流れに逆行するかのように建つ。勝山藩屋敷跡とある。岡山県真庭市に位置し、別名三浦藩ともいう。この下屋敷と博物館との繋がりは、初代館長が谷中生れという地理的条件が整っていたに過ぎないのだろう。しかし初代館長上口愚朗の華麗な転職、気紛れがなかったら、文化遺産はなかったといえる。戦前高級洋服屋「超流行上口中等洋服店」を営んでいたが、陶芸に興味を持ち戦後は陶芸家に転じた。旺盛な興味がつのり、和時計の収集を始めことから昭和26年3月に「財団法人上口和時計保存協会」を設立し今日に至った。大名時計と命名したのも上口氏によるものだ。静かな館内に動かない針に振り子の音だけが正確にうち続けている。偽りの時の音に耳を澄ませば、偽りは現代で実は昔のほうが豊かで優雅だったと思いたくなる。
立ち入り禁止の荒れ果てた庭に見えるが、作庭にも造詣が深かったというだけあって、禅を組んでいる地蔵が配置されている。戯れか地蔵の頭に枯葉が一枚載っていた。入口の隣家で庭師が鋏をいれていた。目が合った。偶然である。二〇年前勤めていた同僚だった。マンションになっていたからわからなかったが、ここに剪定で来たことがあった。偽りの音が幻惑となって二〇年前に呼び戻した。指針は二〇年の空白を埋めるよう加速をつけ回っていく。転職を繰り返しやっと今は落ち着いている。まわりまわって歩く運の悪戯に自分流に生きている積もりでも振り回されて終るのかもしれない。それならば地蔵の頭の枯葉もきっと自然の神の仕業に違いない。気紛れな枯葉の行き先も実はしかけられた処に落ち着く。これから行く谷中霊園に眠る最後の将軍徳川慶喜もそうだろう。
谷中霊園は寛永寺と天王寺の敷地がせめぎ合い、複雑な敷地になっている。現在は都の管理課にあって霊園事務所には著名人墓碑マップがある。主なものだけで七六名が記載されている。中でも春は桜で賑わう桜並木通りの一等地に高橋お伝の碑が目に付く。刑罰史上最後の斬首刑として、首切り朝右衛門の刃に二八歳で儚く終った。幕末の志士を何度も執行してきた朝右衛門も、暴れるお伝にこの時は乱れ、一太刀でいかなかったという。その後お伝は解剖され性器がアルコール漬けとなって東京大学に保管されたというから、毒婦のレッテルをはられた影響は大きい。不幸は婿養子波之助がハンセン氏病を患い、治療費稼ぎに旅館の下女として甲斐甲斐しく働くが、波之助は敢え無く病死してしまう。支えを失ったお伝は、隙間風を埋めるように市太郎と知合うが、市太郎の遊びの借金に終われ金満家を誘い、ついに凶行に及んでしまう。つくした結果が裏目となったこれだけの事実に仮名垣魯文が尾ひれをつけ毒婦として書き煽ったのだった。お伝三回忌の墓建立に際し仮名垣魯文が償いをこめて世話人となっている。水気を含んだ鮮やか色の菊の傍らに、たててまもない線香の煙がしみた。今も尚花の絶えない薄幸のお伝女にそっと手を合わせた。
お伝碑の隣に、博多の墓とは別に川上音次郎の碑がたってるいのも妙な組み合わせだ。戦中の銅像供出で台座のみ残っている。壮士劇から端を発し、川上一座を旗揚げ、アメリカ、ヨーロッパを巡業し成功を収めた。バイタリティとアイデアをとりいれた成功の要因には、貞奴という愛妻に支えられたからだった。日本橋葭町の芸者だった貞奴の芸に、海外公演で一座は度々救われた。新派女優第一号という名誉を残しながら、音次郎病死後に潔く引退した。その時「ともかくもかくれ住むべき野菊かな」の自句をほどこした茶碗を配ったという。その後は福沢諭吉の養子となる実業家福沢桃介の二号となり昭和二十一年七十四歳で亡くなった。
貞奴を贔屓にしていた伊藤博文が音次郎に会わせたという説もあるが、お伝と比較するに出会いから別れまで、恵まれた環境にあった。つくしても報われず、反面生まれ持った強運に穏やかに終る人もいる。目に見えぬ蠢く修羅がある限り、宗教は絶えることなく信仰されるのだろう。そして墓においてさえ位置づけているかに思える。佐々木信綱の立派さに比べ、獅子文六本名岩田豊雄家の墓は所在地を確認するのに難儀するほど小さい。
桜並木をさらに進むと五重塔跡が公園になっている。幸田露伴の「五重塔」だ。一六四四年に建立、一七七二年の火災で焼失、一七九一年に再建された。震災、戦災にも耐えてきたが、昭和三二年の放火によって歴史的建造物は消えた。威容を誇る塔と炎に包まれ瓦壊寸前の塔の写真が並んで掲示されている。形あるものはやがては壊れてゆくが、故意的終焉は何か割り切れない。二枚の古写真が冷ややかに愚業を笑っているようだ。
小路に入り幸田露伴旧居から見えるはずの無い関東で一番高い塔だった五重塔を描いてみる。どっしりとした安定感のある塔を、目の前に見ての生活から生まれた作品だったはずだ。朝倉彫塑館の裏口があるが、入れず大回りして玄関に向う。
朝倉彫塑館は、朝倉文夫が住居兼アトリエとして明治四〇年二十四歳の時に居を構えてから8回におよぶ増改築を繰り返し、昭和一〇年、現在の形に整えた。洋館と和室が見事に調和した建物を回遊でき、地下水を利用した中庭は五典の水庭とよばれている。パンフレットによれば「仁」「義」「礼「智」「信」を石によって配置しているという。「仁も過ぎれば弱となる」「義も過ぎれば頑となる」「礼も過ぎれば諂となる」「智も過ぎれば詐となる」「信も過ぎれば損となる」何処の部屋からも眺められるように常日頃戒めとしていた。
湿った石の合間を日溜りの中に悠々と鯉の鰭がなびいている。家々がひしめき合う都会の中に残された小さな空間が大きなやすらぎへといざなう芸術家の深層心理を知る思いがした。
朝倉文夫の転機は現大分県立竹田高等学校を三度落第し、いたたまれず兄を頼って上京したことから始まる。上京したその日俳句に興味があったので師事しようと訪ねた根岸庵は子規の通夜だった。もしその時子規が存命して根岸庵の門下に入ったなら、別の道が開けていたかも知れない。脇道が本道になることがあるように、別れ道で常に見えぬ誰かがおいでおいでと手招きしている。凶吉は後でないとわからないもどかしさは終るまで続く。結果的に彫刻家の兄の影響で、芸大に入り、彫塑家の道に進んだ。その後大正一〇年に東京美術学校の教授に就任し、良きライバル高村光太郎と共に日本美術界の重鎮となって活躍した。享年八十一歳。墓は谷中霊園にあるが、天王寺内にあるため、著名人マップに記されていない。
天寿を全うした朝倉文夫に対し、子規の太く短く生きた三十四歳は必ずしも悲しむものではない。俳句、短歌の革新者の近代文学に光を放った功績は大きく今も尚芭蕉と評価を二分するほどの手本となり、枝分かれし進化しているのも希少といえる。
子規庵は曲がりくねった小路にある。元は加賀藩前田家下屋敷の侍長屋だった。陸羯南の援助で羯南宅西隣に妹、母の三人で住み始めたのは明治二七年だった。昭和二〇年戦災で焼け、門下有志により忠実に再建された。戦後は周囲の環境も変わり、根岸の里は忍びあう恋の場所に変貌した。ホテル街をリュック背負い大勢で闊歩するには抵抗がある。狭い部屋に先客もあり、またあとからの訪問者が続いた。庭には枯れていながらへちまが残っていた。「をととひのへちまの水も取らざりき」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」と病床で用いたへちまの水だ。当時としては貴重なガラス戸越しに見る処狭しに植栽されている庭には、どんな花が咲いていたのだろうか。絶句をしたため昏睡状態に入った子規は最後まで食欲旺盛で特に赤色を好んだというから、原色の柿を思い描いていたかもしれない。一度死に掛けた者は原色の黄泉の世界を体験するという。或いはベースボールを野球と命名し、自ら遊んだ夢を見たのかもしれない。小さな巨人子規は明治三五年九月十九日午前一時頃、母、妹、虚子に見守られて静かに絶息した。(酔朴記)

俳文学研究会会報 No.41
   
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