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私の好きな私の一句 ― 会員紹介にかえて ―

◆ 遠距離介護の中で 根本文子

  裁縫室に転がりたくて銀杏の実      文子

  遠距離介護と俳句は、ほぼ同時に始めた。かれこれ十四、五年になる。当時八十代の父母は、芭蕉の『おくのほそ道』一宿の地である現在の宮城県登米市に、二人だけで暮らしていた。山間の僻地である。
  ある日、久しぶりに訪れてみると、「お父さん、今月の席題は何でしたか」と母が何度も尋ねている。父は「今教えたばかりだろう、もうわすれたのか」と答え、この会話が一日中繰り返されていた。父は、最期の戦艦「長門」で終戦を迎え、その後郷里で教師をしながら「柳絮」という小さな句会を40年程続けていた。母も中年以降これに参加、数数の行事に生き生きと没頭しているはずであった。白鳥句会、唐黍句会、戦没句会、年中行事も沢山あった。
  母はどうしたのだろう。私は不安を抱きながら、父に聞いた席題三つを、書の得意な母に何枚も書いてもらった。そして、それをテレビの横・台所・トイレの中など、母の目につきそうな場所に貼った。これで母の暮らしはしばらく安定し、家中に月替わりの席題を張り替つつ暮らす日々が過ぎた。
  一年が過ぎたころ、「お願い、どうしたらよいかわからなくなった」と、母が泣きそうな顔で、チビた鉛筆と小さな句帳を持って来た。私は困った。正直なところ、俳句だけはやりたくなかった。自分が父母の価値観に組み込まれていくのが嫌で、子育てを終え、義父母の最後を看取った後も、俳句だけは避けて、お茶やコーラスをやっていた。しかし今、母の困惑を目の前にして、放っておける状況ではない。この老母の介護に、これからは頻繁に通わねばならないと考えた時、母の記憶は日々衰えるにしても、母の好きな俳句を通してならば、今しばらくコミュニケーションができるかもしれないと考えた。それでカルチャーセンターの基礎講座に入った。
  句を考えるのはいつも新幹線の中である。それでも、毎月「俳句」と共に母の元へ通うようになると、「遠くにありて思うもの」であった故郷の自然の美しさ、四季の移ろいに目が覚める思いがする。俳句と山野草を生き甲斐にする父母の晩年も、よく見えるようになった。

   萩よりも小さな母となりてをり       文子

  そんなころ、父が「地元でNHKの公開俳句大会があって家をあけるので、母の世話と留守番を頼めないか」と言ってきた。それで前日から出掛けたが、日に四本のバスの時間が悪く、会場へ出掛ける父の足がない。それで結局、母を人に頼んで、私が父など九十歳前後の俳句仲間四人を車に乗せて行くことになった。
  会場は芭蕉一宿の地にほど近い、明治時代の、バルコニーのある小学校である。滅多にない催しなので、沢山の参加者があった。はるばる鎌倉からみえた選者の星野椿氏(玉藻)から、当日の席題として「銀杏」が告げられた。もう一人の選者は、高野ムツオ氏(小熊座)である。
  明治の小学校の二階は、三十畳くらいの、広い畳敷きの裁縫室になっている。真ん中に大きな炉があり、鏝や運針台、雛形の見本などもそのままに保存され、その昔のさんざめく乙女らの声が聞こえるようである。窓の外には沢山の実をつけた銀杏が枝を伸ばしていた。ふと、土に落ちるより遠い賑わいの畳の上に転がりたいだろうな、と思った。
  父達を探しに行くと、「せっかく来たんだから句会に参加してはどうか」と、私に投句用紙をひらひらさせる。私は「とんでもない。だいいち所属する結社誌では、外部への投句は禁じられているから」と断った。しかし、父が「地元にすれば投句数の多い方がありがたいのだが…」という父や他の方に勧められて、地元の「錦織」のメンバーとして投句した。
  その後、残してきた母の心配や、曇り始めた空模様を理由に、句会の発表を待たずに帰途につく。父を家に下し、他の方を送って家に戻る。すると、ラジオの音量を上げて句会の様子を聴いていた耳の遠い父が、「アヤコの名が聞こえたようだから、句会場に戻るといいな」と言う。
  雨が激しく降り出した北上川の堤、芭蕉も歩いたその道を、水しぶきをあげて車を走らせる。会場に着いた途端「では、これでお終いですが、錦織の根本さんはやはりいらっしゃいませんね」と言う司会者の声がする。とっさに「はい」と返事をすると、出席者が一斉に振り向いたような気がした。「ご本人でしょうか」と聞かれる。一瞬戸惑っていると、「そうですよ」という声がどこからか聞こえた。見覚えのある、父のお仲間の笑顔であった。こうして、敬愛する高野ムツオ氏の選に入り、記念に時計をいただいた。
  母の介護を人生最後の仕事と受け止め、俳句を生き甲斐に頑張っていた父が、急性白血病であっという間に亡くなりもう二年になる。私は相変わらず、毎月新幹線のなかで句を考えながら郷里に通い、母のホームに泊まっている。(2006/10)
写真提供:高橋巧 氏



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