◆ 世話人紹介 ◆

市川千年 ― 詩あきんどになりたい―
海紅
今日は、芭蕉会議の仲間が謎めいた千年さんを紹介しろというので、お目にかかる機会を持ちました。お生まれは土佐だそうですね。
千年
高知県高岡郡中土佐町です。
海紅
海ですね、いいですね。ボクは北海道の山猿で、三歳のとき釧路の海をはじめて見ましてね、〈海を持って帰る〉と言ってきかなかったと親が言っていました。
千年
いや、海ばかりか、山も川もあるんです。夏は毎日歩いて、走って、自転車で川や海へ泳ぎにいける環境でした。
海紅
俳句との縁はなんですか。
千年
高校2年のとき、〈緑萌え紺碧空と分かれたり〉という句で飯田龍太選の佳作になりましてね。当時は学業を放棄していて、俳句にすがったのかもしれません。
海紅
ボクの高校生活も切ないものでした。中学まで自分を支えていたものをほとんど失った。で、物理的に打開の方法が見つからない。それで読書と創作にのめり込むしかなかった。でもあの時代の絶望感のすべてが今に生かされている、そう思うことにしています。
千年
わたしは『おくのほそ道』冒頭の〈面八句を庵の柱に懸置く〉というところ、つまり連句に興味を持ちました。いつのころかはっきりしないのですが、〈芭蕉を知るために連句を知りたい〉と思うようになった。高等学校卒業の前後ですかね。
海紅
でも国文学には進まなかった。
千年
ええ、神戸の外語大の夜間の英米科に入りました。でも野に放たれた虎状態で、1年で中退して、新聞配達なんかを経験しましたよ。
海紅
ボクにも経験があります。黙々と走りながら新聞を届けるあの仕事はやってよかった。走っていると哲学者の気分になり、混沌としていたけれどモノを考え続けられた。
千年
ええ、その哲学者の気分を2年続けて東京へ出たんです。今度は法学部の新聞学科をきちんと卒業しました。それで不動産情報サービスの仕事に12年ほど携わりました。
海紅
連句を本格的にはじめるのはいつですか。
千年
平成七年(1995年)に阪神淡路大震災がありましたでしょう。
海紅
ええ、あの年は地下鉄サリン事件もありましたね。芭蕉会議の世話人尾崎喜美子さんや奥山美規夫さんにはじめてお目にかかった時期でもあり、よく覚えています。前年に『おくのほそ道』に関する講演を頼まれたのですが、息子が無事に生まれるこの年まで待ってもらったんです。
千年
その平成七年に新聞で連句大会の記事を見て、これだと思って参加しました。そこで村野夏生という俳諧師と出逢い、東京義仲寺連句会「ああノ会」に入会しました。村野師、川野蓼艸師率いるこの会、そして創作と研究の双方を視野に置く芭蕉会議に出逢って今日があるということです。自称二つ目俳諧師のつもりです。
海紅
今は新聞の編集をされているとか。
千年
ええ、農村振興関連業界紙ですが、意義ある仕事と思っています。この仕事の前に失業期間がありましてね、恥ずかしながら、そのあたりのことは上原隆『喜びは悲しみのあとに』(幻冬舎アウトロー文庫)に「我にはたらく仕事あれ」として実名の記録が掲載されています。
海紅
そういう御苦労が生かされて充実した現在があるのですね。
千年
いえいえ、自分では今も小林一茶状態で生活力はあまりない気がしますよ。不運にも一度も結婚したことがないですしネ。 一茶に倣ってわたしも51歳(?)での良縁を期待しようかと思いますが、不器用ですからどうなりますか。でも、有名な『みなしぐり』の芭蕉と其角の両吟にある〈詩あきんど〉くらいにはなりたい、つまり連句普及の一翼の一端ぐらいの働きはできるかもしれないと思っています。
海紅
ボクが国文学を専攻する決心をしたのは、その世界に類のない連句の世界を知ってからです。千年さんの芭蕉会議参加は創作にとっても研究にとっても刺激的でありがたいと思っています。今日はどうもありがとうございました。