特別企画 「『九十九句』を語る会 報告   ホーム

・日時 2019年7月13日(土)14:30開場・受付/15時〜17時
・場所 台東区立生涯学習センター(学習館)303会議室
・総合司会 江田浩司
・パネリスト 根本梨花・荻原貴美・梶原真美
・出席者 谷地海紅、村上智子、荒井奈津美、谷地元瑛子、三木つゆ草、織田嘉子、
鈴木香粒、椎名美知子、谷美雪、大石しのぶこ、丹野宏美、備後春代、
水野紅舟、今関理恵子、森田京子、高本直子、関口静子、山崎右稀、月岡糀

【総括】
情の句と写生の句――『九十九句』を語る会を終えて

江田 浩司

 七月十三日に浅草生涯学習センターにおいて、谷地快一先生の句集『九十九句』を語る会が催されました。当日のパネルディスカッションの司会を務めさせて頂いた立場から、会についての感想を述べさせて頂こうと思います。パネルディスカッションの発表者は、日頃から谷地先生の俳句に親炙している三人の方々、根本梨花さん、荻原貴美さん、梶原真美さんです。梶原さんは、『九十九句』からの句の選出に、その句が「好き」であるかどうかの直感を重んじながら、体言止めの句と、余韻を残す句の二種類を分類して発表されました。また、荻原さんは、選出した句のキーワードを中心に分析され、また、芭蕉や素十など、谷地先生が影響を受けた先人を視野に入れた発表をされました。根本さんは、古典作品や先人の句を踏まえながら、選出した句を丁寧に分析されました。三人のパネリストの発表内容については、それぞれがまとめられている文章を参照して頂ければと思います。
 『九十九句』の巻頭句、「春やむかしこの駅を終着とせし」は、根本さん、荻原さん、私の三人が、十句選で選んだ句ですが、「この駅」がどこなのか、それぞれの解釈が違っており、興味深い議論になりました。この句が作られた句会に私は居たものですから、ついつい熱くなりましたが、実は句の解釈を限定する必要はないと思います。読者のそれぞれの感慨を、丁寧に作者へとつなげる努力が大事なのです。
 荻原さんの発表でも触れられていましたが、谷地先生の句には「愛」や「情」の深い句が多くあります。家族への愛、小さな生き物、自然の営みへの情の内在した句は特徴的ですね。その点は、発表者全員が共有した思いでした。ただ、その中で私が不思議に思った句が一句あります。この句に関しては、会場との質疑応答の時に谷地元さんの発言に絡めてお話しました。「河口まで来て凍て解けをためらへる」という句です。「凍て解け」は、春になって凍っていた大地がとけてゆるむことですが、この句の場合はどうでしょうか。擬人法が使われているように思われますが、句の情景を掴むのは難しいですね。対象が「大地」なのか、「河」なのか、その点も考えさせられます。ただ、自然(対象)への思いの強い情の句であることは確かです。谷地先生の故郷、北海道の情景を詠った句でしょうか。
 私たちは写生の句に対して大きな誤解を抱いているのかも知れません。一読して、そのものの情景が目の前に浮かぶのが写生句であるという認識は、一面的なものでしかないでしょう。表現の目的が方法としての写生ではなく、写生により自己の内面の「情」に至る表現の通路を発見すること。その点が大事なのではないかと、私は先の句を読みながら考えさせられました。谷地先生の俳句に真正面から向き合う貴重な時間を、『九十九句』を語る会に参加された皆さんと共有できたことを、たいへん嬉しく思います。



パネリストレジュメ ダウンロード

★根本 梨花 ★荻原 貴美 ★梶原 真美


《パネリスト要旨》
★根本 梨花
 海紅先生の句集を拝見すると、ご家族への愛に充ちていることに感動する。家族を詠むということは、命を詠むということでもあるので、共感する句が多く十句に絞ることに難渋した。先生に最初に教えて頂いた句は高野素十の「ひつぱれる糸まつすぐや甲虫」であった。その時の先生は素十の素晴らしさを熱く解説されて忘れ難い。この日の印象が強く心に残り、「谷地先生と俳句」というと、反射的に素十の句が浮んでくる。素十は、恐ろしい程の写生句の達人として知られる。そうしたイメージから、先生の句集と伺ったとき、主観客観で言うなら、客観の写生句が多いのであろうと想像した。しかし、意外にも、句集を拝見すると、主観つまり「人情の句は主観なり」と言われる「情」の句が多く感じられて少し驚いた。そうした中で何度も句集を読み返し、私の最も素晴らしいと思った句は、やはり巻頭句である。
  ○春や昔この駅を終着とせし
「春や昔」という『伊勢物語』にも読まれた古い言葉(季題)を、一気に現代に引き寄せ、その取合せの見事さに圧倒される。退職の感慨と決意、きっとその時がきたら誰もが共感するであろう。子規が嘗て虚子の句を評して、「主観的時間の句」に優れていると分析したが、この巻頭句もまさに「主観的時間の句」ではないだろうか。
 なお、蕪村や子規も「春やむかし」を次のように読んでいる。
   春やむかし頭巾のしたの鼎(かなえ)疵   蕪村
   春や昔十五万石の城下哉     子規
   春や昔古白といへる男あり    子規
こうして並べてみると、海紅先生の巻頭句から、日本語(季語・季題)の古くて新しいことに気づかされ、且つ、詠み継ぐことの大切さを実感させられる。
  ○下萌えは静か枯草にぎやかに
 なかなか手が廻らなかった庭隅のにぎやかな枯葎を取り除くと、いつの間にか芽を出している元気な下萌えに驚かされる。季重なりの句のようであるが、廻り来る自然の循環、新旧交代を詠んでいるので、「下萌え」(春)も「枯草」(冬)も、ともに掛け替えのない並列の主役である。擬人化された枯草が楽しい。
  ○春雨や爪やはらかき吾子の指
 人生で、我が子の誕生ほどドラマチックな出来事は滅多にないと思われる。
その成長を詠んだ草田男の「万緑の中や吾子の歯生えそむる」が、今も多くの共感を得るのも頷けることである。
 作者は、静かな春雨の昼、突然自分に舞い降りた天使のような吾子と、二人の時間を過ごしているのであろう。小さな小さな、その花びらのようなやらかな爪に触れて見飽きることがない。
  ○乾坤の吐息の如き霧に住む
 作者のお住まいは景観百選にも選ばれている緑の爽やかな町である。したがって水蒸気から出る霧、とくに朝霧が深いのであろう。その現象を乾坤、すなわち天と地の吐息のようだと大きなスケールで表現されて素晴らしい一句である。

★荻原 貴美
 鑑賞にあたって、次の二つの視点を大切に十句を選んだ。一つに「この句いいな」という出会いの直観の様な視点。二つに、作者の思いが素直に伝わる視点。留意したことは、感動した心から句が離れてしまわないように、読む時に分析的な視点に立たないことを心掛けた。手立てとして、キーワードを設定した。句の焦点を掴んで発表者の考えを明確にする為である。選句した十句と、鑑賞した十句の内の五句をここにまとめる。
選 句:
・ 春やむかしこの駅を終着とせし ・ 下萌えは静か枯草にぎやかに 
・ 春雷に明るくなりしベンチかな ・ 句碑守るといふ言の葉のあたたかき 
・ 若竹や驚きやすき鹿の耳 ・ 書くことに倦むとき汗の子を膝に 
・ 空にゐる人呼ぶ手指盆踊り ・ 乾坤の吐息の如き霧に住む 
・羽子板の大きなひとみ初明かり ・ 美しき足をたたみて虫凍つる

鑑 賞:十句を選句・鑑賞した内の五句
 〇 春やむかしこの駅を終着とせし   
 キーワード: 終着、行きかふ
 鑑賞:終に着いたはずの駅は終着駅ではないのだ。これから動き出そうとする何かが
 伝わってくるのだ。「せし」によって余韻が生まれ連続性を期待させる。
 芭蕉の『おくのほそ道』冒頭の「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也」
 の「行きかふ」は会って別れる人生の旅のことである。終着としたところから又、
 次の人生の旅が始まる。
 〇 下萌えは静か枯草にぎやかに
 キーワード: 対比、見えないものへのまなざし
 鑑賞:春が近づいてくる大地の命のにぎやかさ。草の匂いまで伝わってきそうである。
 又、対比の妙が素晴らしい。動と静〔にぎやかー静か〕情熱と枯淡[下萌えー
 枯草] 作者の小さきものへの愛、見えないものへの眼差し。

 〇 句碑守るといふ言の葉のあたたかき
 キーワード: 言の葉、人の純粋な優しさ
 鑑賞:蕉門の丈草が、芭蕉没後三年、墓守をし、純粋に芭蕉を敬愛していたことを思
 い起こさせる。人の誠を思う作者の心が伝わる。言の葉という雅な言葉が地道な行い
 に当てられているのが尚の事優しい。「あたたかき」が大きく全体を包み込み読む者を
 純粋な気持ちにさせる。
 〇 空にゐる人呼ぶ手指盆踊り
 キーワード: 手指、鎮魂
 鑑賞:あの動きは、一足早く彼の岸に逝った人へ呼びかける手指の合図だったのだ。
 死によって別たれた人を思う時、誰にも代わることのできない喪失感は果てしの
 ない寂しさだ。
 手指による天への挨拶は残された人の自らへの鎮魂でもあるのだ。
 〇 乾坤の吐息の如き霧に住む
 キーワード: 霧、 
 鑑賞:自然を人に擬して「吐息の如き」霧としている。乾坤の谷間でひとは時に迷い、
 先が見えない。この句を知った時、乾坤という大きなイメージと吐息という
 人間の体温を感じる取り合わせの巧みさに驚かされた。
 素十に『かたまりて通る霧あり霧の中』(『空』ふらんす堂)がある。心は同じ処にあると思われるが、
 この句には、素十の句にはない大きさと宇宙的なふくらみがある。

★梶原 真美
一、私の好きな十句―『九十九句』句集より
 はじめに、『九十九句』句集の中で私の好きな句を以下に十句挙げる。(便宜上、私に数字と季節を附した。)
 深雪底よりふはふはと春の水・・・・・@/春
 風立ちてより藤の香は風を追ひ・・・・A/春
 水面から文字摺草に風移る・・・・・・B/夏
 身の丈を下駄に乗せゆく薄暑かな・・・C/夏
 恋仲と見られて嬉し秋簾・・・・・・・D/秋
 空にゐる人呼ぶ手指盆踊り・・・・・・E/秋
 封緘を終へしさびしさ星流る・・・・・F/秋
 寒林に消ゆる異人の恋人と・・・・・・G/冬
 子を抱く君を包める雪あかり・・・・・H/冬
 てのひらにすくふ香煙十二月・・・・・I/冬

二、十句分析―「好き」という直感を軸として
 ここでは、先掲の十句について、二つの観点から考察を試みる。
 (一)下五の留め方
 @・D・E・H・Iのように名詞留めの句は、読後にどっしりとした安定感があり、映像の最後が季題でむすばれる点に好感が持てる。また、B・Fのように動詞の終止形、あるいはCのように切字留めの句も同様の効果があると思われる。
 しかし、残りのA・Gは先述の留め方に当てはまらない。それは、下五が動詞の連用形や助詞で留められていることで、一句の表現としては完結していても、読者にとっては句中の光景―藤の香が風を追っている、異人の恋人と寒林に消えていくさま―が現在も続いているように感じられる。ゆえに、Aのようにゆったりと動く穏やかな風景や、Gのように妖しくもはかない場面に漂う余韻の継続を、下五の留め方によって表現していると考えられる。
 (二)選んだ理由=十句の性格
 結局、一句の好き嫌いを判断する基準は「この句、いいなぁ」という読後感、すなわち「好き」という自分の直感に尽きるのではなかろうか。このように、理屈だけでなく感覚的に読者を惹きこむことができる句―誰もが同じ場面を想像し、自由に鑑賞を楽しめる句―は、私たち実作者が目指すべき俳句の姿のひとつと言えるのではないだろうか。
 そこで、むすびに十句の性格とも重なる、選んだ理由を述べることで、その性格を指摘する。(見出しの番号は先掲句の番号に対応。)

 @「ふはふは」というオノマトペに「春の水」が似合う。また「ふはふは」に「春の水」の柔らかさを汲むことができるため。
 A「藤の香は風を追う」という擬人化と、風が立つ瞬間から映像を広く切り取っているのが好きなため。
 B 水面から文字摺草に風が移る瞬間を、そのままきれいに切り取っているため。
 C 身体全体をしっかりと下駄に乗せて歩む薄暑の心地よさが感じられるため。
 D 恋の句であり、「嬉し」に句中の人物の初々しさが感じられるため。また「秋簾」が源氏物語のような王朝文学の世界を想像させるため。
 E「空にゐる人」を呼ぶ句中の人物の優しさとはかなさが滲み出ているため。
 F 封緘を終えたさびしさを、流れ星が救っているため。
 G 一句の場面が仲睦まじい恋人たちの幸せとも、心中物のように虚しく消える愛とも解釈できるため。
 H 子を抱く人を包む「雪あかり」と、「子を抱く君」を見ている「作者」に優しさを感じるため。また「人」でなく「君」としたところに、親しい人を見守る句中の人物像が表れているため。
 I「香煙」と「十二月」がよく似合っており、香煙を「浴びる」ではなく「すくふ」とした表現が好きなため。

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