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 ■201002_02
 海紅   2010/02/15-14:13  No.[6915]
    雪雫きらきらきらきら別ればや

ちちろ   2010/02/18-09:09  No.[6916]
 
    「雪雫きらきらきらきら」まではそのままの解釈で、積もった雪が日差しで溶けて雫となり、それが日の光できらきら輝いている様であろう。問題は「別ればや」の解釈である。何の別れだろうか。雪の溶ける様をみて冬との別れを感じたものだろうか。でも冬との別れを惜しむより春の訪れの方が待ち遠しいと思うのだが・・。「ばや」は願望を表わす、〜したいなあ。〜できたらなあ。なのか、自己の意思を控えめに表わす、〜しよう。なのか、雪が溶けて雫になってきらきら輝いている様を見て、〜だろうか。という疑問の意だろうか。どなたか教えてください。
 

mitiko   2010/02/18-19:43  No.[6917]
 
    ばやー動詞・助動詞の未然形に付く
 @活用語の未然形について、仮定条件をあげ、下に疑問の意を伴う。としたら
 雪の雫が、きらきら輝くのは、別れが悲しいのだろう か・?
 A活用語の巳然形について、規定条件をあげ、疑問の意を伴うだったら。
 雪の雫は、輝いてから、消えるのだろう。−となる
 上記の事は、「広辞苑」から抜粋した。
 @は、願望 Aは、自己の意思を控えめに表す
この句の受け取り手の、解釈のままでいいと思う。
 

 

ちちろ   2010/02/19-08:03  No.[6918]
 
    古典文法によれば、終助詞「ばや」は未然形について自己の願望を表わすとのこと。そうなれば訳は「別れたいものだ」がいいのかも。早く冬と別れたいという意だろうか。
 

eiko yachimoto   2010/02/21-00:22  No.[6919]
 
    雪が雪であることから別れる過程の美しさを
詠んでいる句かとおもいました。
 

山房の海紅   2010/02/21-12:42  No.[6920]
 
    別れの朝はよく晴れて、一面の雪は光り輝き、軒や木々の枝から雫が光ながら落ちていた。このまぶしい景色を心に刻み込んで、この出来事を忘れないようにしようと思った。

お読みくださり、ありがとうございます。
 

ちちろ   2010/02/22-19:32  No.[6921]
 
    先生から自句自解らしいコメントが出ましたが未だに納得できません。「別ればな」の「ばな」は結局どういう意味でしょうか?「別れの朝」とはどんな朝だったのか敢えて聞きたいです。先生の立場として学生たちとの別れの句かもしれません。しかし、全く作者の立場を知らなかったら、この句は本人以外にはわからない句です。マスターべーションじゃないかなと思います。
 

つらら   2010/02/23-09:42  No.[6922]
 
    ばやは願望であることはわかるし「別れの朝」を敢えて説明する必要はないと思います。若かりし頃の思い出かもしれないし、大切なプライベートの思い出は誰にでもあること。この句にとても素敵な詩情を覚え、女性は皆共感できると思います。詳細を知らないほうがイメージが膨らみ良いときもあり、この句はそんなすばらしい雪雫の句だとおもうのです。
 

山房の海紅   2010/02/23-18:36  No.[6923]
 
     文法的にはちちろさんが言う「自己の願望」、作者の置かれた状況は瑛子さんの「雪が雪であることから別れる過程の美しさを詠んでいる句」、鑑賞の立ち位置としては「別れの朝を敢えて説明する必要はない」という解説に尽くされていると思うのですが、「この句は本人以外にはわからない」にも何らかの返事をしなければ、ちちろさんは迷い続けるだけかも。どうしましょう。

 芭蕉会議に転載しているアットホームエッセイの5月号「花茨故郷の路に似たるかな 蕪村」の原稿を先日完成しました。ちちろさんの質問に対しては、この文章が答えになるかもしれぬと思っています。ぜひ読んでいただきたいと思いますが、掲載されるまでには間がありますので、参考までに次のコメントで昔出版した本の座談会で私が述べていることを抄出します。ちちろさんと同じ疑問を持っている人は俳人に多いので、今年の芭蕉会議のミニレクチャーの時間にでもお話するほうが意義あるかもしれません。でも誠意として、とりあえず抜き出してみます。
 

山房の海紅   2010/02/23-18:49  No.[6924]
 
    藤田:……、(萩原)朔太郎も故郷前橋との葛藤があるでしょう。それで、蕪村と自分を重ね合わせて「郷愁」というものを見つけてゆく、そこに近代詩人として蕪村があるのだなあと思ったわけです。

谷地:僕は朔太郎の読み方が特に近代的だとは思わないんですよ。『古今集』や『新古今集』にしても、いつの時代も、結局読者自身に引き寄せて読み続けている。文学はそういう読者によって支えられてきたと思うんです。短詩型文学は表現が磨かれて、純化していろいろな顔を写す鏡のようになるんだと……。とすれば、時代は関係ないんじゃないかと思うんです。

 ―江戸人物讀本『与謝蕪村』(ぺりかん社)所収「〈座談会〉蕪村研究の問題点」より抄出―

※附記
 この座談会は田中善信・藤田真一・清登典子の三氏を招いて、谷地が構成したもの。平成元年十一月のことであった。
 

ちちろ   2010/02/25-06:53  No.[6925]
 
    少し、きついコメントをしてしまいましたが、悪気があってのことではありません。つまり頭が悪い上に、俳句と言うものがまだ理解できていないゆえに、疑問を感じてしまうとどうしても納得したいと思ってしまう性質なのです。先生のご丁寧なお答えに感謝します。まだ、よく理解できないでいますが、5月号のアットホームエッセイを読んでみます。
 



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