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鷺孝童先生のこと、村松紅花先生のこと

◆ 鷺孝童先生のこと、村松紅花先生のこと 堀口希望

 8月19日、江の島吟行句会の二次会も無事にお開きとなり、私は海紅先生をはじめとする数人のメンバーと共に缶ビールを飲みつつ海岸で海風に吹かれ、たわいない楽しいおしゃべりに時を過ごした。先生は藤沢のホテル法華クラブに泊まられるというので、ホテルまでご案内した。
藤沢駅からホテルまでの道すがら、先生から鷺孝童先生が亡くなられたことをお聞きした。そこで小生は妻の母(つまり義母)と鷺孝童先生と村松紅花先生のエピソードを手短に海紅先生に話した。すべて義母から聞いたことである。このころ芭蕉会議はまだ設立されていない。先生は8月22日のブログに「鷺孝童先生と村松紅花先生の信義のほどを彷彿とさせるお話をうかがえて仕合わせでした」と書いてくださった。
  以下は歩きながら先生に申しあげた話である。海紅先生の師である村松紅花先生にかかわるエピソードなので恥ずかしながら駄文を弄したい。

 戦争未亡人である義母は茨城県北部の高萩市に住み、平成19年に93歳で死去した。義母が俳句を始めたのは昭和も終わりに近い75歳頃らしい。市の公民館で主に老人を対象とした俳句会に参加したのである。10数名程度のささやかな会であった。先生は鷺孝童さんといい、現役時代は地元の学校の教員であった。母がお世話になった頃はもう定年退職され、お住まいも茨城県高萩市から福島県いわき市に越されていた。
  鷺先生は高野素十を師系とする俳句結社「雪」の同人であった。昭和52年、この結社が村松紅花先生を撰者に仰いで、素十一門によって結成されたことなど、当時の私に知るよしもなかった。
  あるとき何かの事情で鷺先生が俳句会に出られなかったそうである。そこで鷺先生は代講を立てられた。代講として俳句会を指導されたのが何と村松紅花先生であった。
  私が先生に話したことは以上である。しかし、これは今まで私の胸の奥に大切に仕舞ってきたエピソードである。俳壇活動の期待などまるで持てない老人ばかりの俳句会を無報酬で引き受け、福島県のいわき市から茨城県の高萩市まで指導に来られた鷺先生。しかもよんどころない事情があれば代講を立てた鷺先生。そして代講として東京の東村山市から茨城県北の高萩市までわざわざ出向かれる村松先生。お二人とも何と浮世離れしたお人柄であろうかとつくづく感じ入るのである。そして自分もお二人の先生のような大らかな心をその何分の一でも持ちたいものだと思うのである。
 
余談であるが、そのときの俳句会に義母は「句を杖に卒寿の春を楽しまむ」という句を投句し、見事に村松先生の特選を得、ご褒美とし先生の句集『破れ寺や』(平成11年刊)をいただいた。その頃義母は老人施設に入所していたのであるが、見舞いに行った私に報告する誇らしげな楽しそうな顔はいまだに忘れられない。
このときの義母の表情を思い起すにつれ、俳壇的な栄達ばかりが俳句の楽しみ方ではなかろう、俳句を通して日常の生活を少しでも潤いのあるものにすることができたら、それも俳句の楽しみ方ではないか、と思うのである。
海紅先生のお話で、鷺先生も4月に亡くなられたそうである。私は両先生のことは義母から聞いたばかりでお目にかかったことはない。義母のいただいた両先生のご恩に心から感謝するばかりである。『破れ寺や』は現在私の書架に納められ、義母を、そして両先生を偲ぶよすがになっている。
(平成24年9月5日記)




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