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芦野温泉ふらり旅

◆ 芦野温泉ふらり旅 奥山美規夫

 温泉を基点にした巡り旅がすっかり生活の一部になってしまっている。風呂好きなのである。
  新聞の折込にある「奇蹟の芦野温泉」というキャッチフレーズに誘われて、早朝に車を飛ばした。とあるサービスエリアで、千歳烏山のダリアが見ごろであるという地方版の記事に遭遇し寄り道をした。それは個人所有の五十品種で、色や形が異なり、とてもダリアと思えぬ鮮やかな花が風の中を揺れている。そこは山の合間にあり、ときおり郭公のこだまが聞こえる静かな朝だ。場所を尋ねる観光客であろう、主人が携帯で場所を教えている。これからも何度も同じ説明をするのであろうが、その疲れは訪問者の顔を見れば癒されるのであろう。採算を無視して打ち込む奥深い趣味に人間の深さをも感じた。
  目的地に沿って国道294号進むと笠石神社(大田原市)があり、境内に那須野国造碑がある。宮城県の多賀城碑、群馬県の多胡碑とともに日本三古碑とされるが、その中でも最も古く、約1,300年前のものとされる。時の権力者が落ちぶれてゆく時間の中で、いつの間にか廃れて野に埋もれ、その後の長い歴史を眠り続けた。時はさらに流れて、通りかかった旅の僧が地元民から碑の存在を聞かされたが、解読できぬままに伝説となって広がった。それが『大日本史』の完成に精力を注いでいた徳川光圀の目にとまり、はじめて地中から掘り起こされて堂も建てられた。地中に埋もれていたことが幸いしたのであろう、文字には磨耗がなく、鮮明なままの文字が刻まれている。帰化人が建てた多胡碑と類似している。脈々と続く歴史の一齣だ。
  道の駅「伊王野」を基点に、義経街道といわれる道がある。兄頼朝の力になろうと、鎌倉に馳せ参じたものの、結局はその兄に追われる身となった時もこの街道を辿った。294号線は千葉県の柏市に発し会津若松に至る。奥州街道、東山道、国道4号線と交差している古道である。道は途切れることなく何処かでまじわり、地方の様子が都へ、都の情報が地方へと伝えられ、人の繋がりが広がっていく。
  西行の歌「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」で名高い遊行柳は芦野宿の郊外にある。西行を慕う芭蕉が「田一枚うゑてたち去る柳かな」と詠んだところでもある。世阿弥作の謡曲「西行桜」によって広く知られるようになった。芭蕉句碑の裏を読むと、寛政十二年(一八〇〇)に建てられたことがわかる。これらの先人を跡を辿った蕪村の「柳散清水涸石処々」という句碑(昭和23年建立)もあって、傍の遊行柳が青田の中に揺れている。時の流れの中に衰えては植え継がれてきた名のある柳である。
  名をとるか実をとるかは別にして、その植え継がれた遊行柳から十数m離れたところに、樹齢四百年以上と思われる大銀杏が生きている。山の麓の雑木林の中にあるため、その存在感はあまり観光客の目に届いていない。平地の一本木であったら、遊行柳を凌ぐ威勢を示すであろう。観光者は、おそらく遊行柳を見て戻る者がほとんどだろう。こういう銀杏のような生き方もあるのだ。
  それにしても、樹齢にくらべて人の命のなんとはかないことか。病を得ればなおさらである。その回復を願って、人づてに聞きながら芦野温泉を訪れる湯治の人々。世間に知れ渡ったのはいつごろからであろう。浴槽で一緒になった人は、毎日埼玉から通っているのだと言う。浴場へ続く回廊には治癒した記録が写真入りで、何枚もはられていた。
  源泉に入ると初めピリピリと刺激が来る。その後、次第にぬめりが肌にしみ込んでいく。これが即効性のある那岐の湯で、じんわりと効いていく那美の湯と二種類ある。いずれも薬草を入れてあるので、効能は倍加するような満足感が得られる。人の噂も加わり、その効能への信頼が深まってゆくから不思議だ。さて温泉効果は何処まであるのか、肌をさすれば湯の成分が滲んでゆく実感に、肉体の持つ神秘性とは神の授かりものであると、しみじみ思った。(2007.11)




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